『白衛軍 The White Guard』|稽古場レポート

2024.11.28

20世紀ロシアを代表する、ウクライナ出身の作家ミハイル・ブルガーコフが自伝的要素を散りばめつつ、ロシア革命という歴史の渦に抗いながらも、敗れ去っていく人々の姿を描いた小説、および戯曲を元にした舞台『白衛軍 The White Guard』が新国立劇場 中劇場にて12月3日(火)より上演される。いよいよ開幕まで10日余りとなった11月下旬、3度目となる通し稽古が行われた。

革命によりロシア帝政が崩壊した翌年の1918年から1919年にかけての内戦下にあるウクライナの首都キーウ(帝政ロシア、ソビエト政権下ではキエフ)を舞台に全四幕からなる本作。第一幕は、革命に抗う白衛軍に身を置くニコライ(村井良大)とアレクセイ(大場泰正)の兄弟らが暮らすトゥルビン家にて展開する。

当時のキエフは、旧ロシア帝国の軍人たちからなる反革命の白衛軍、民族主義者のペトリューラが率いるウクライナ人民共和国の軍(ペトリューラ軍)、キエフ侵攻を企むレーニン政府によるボリシェヴィキ(赤軍)という3つの勢力の三つ巴の戦いの場となっている。

そんな切迫した状況にありながらも、トゥルビン家の兄弟、彼らの元に集う人々からはあまり悲壮感は感じられない。物語はニコライのギターの弾き語りで幕を開ける。キエフに迫るペトリューラ軍を撃退してやると勇ましく歌うニコライの歌を姉のレーナ(前田亜季)は「下手!」と笑い、歌の先生から「君は革命がなければオペラ歌手になれた」と言われたと主張するニコライに対し、兄のアレクセイは「革命があってよかった」と自分たちが置かれた状況や時勢さえも冗談にする。

時折、夜の街に銃声が鳴り響く中で、個性豊かな登場人物たちが次々とトゥルビン家を訪れる。凍傷を負いながらトゥルビン家に辿り着き、近隣の街の農民たちがペトリューラ軍に寝返ったと明かす砲兵大尉のヴィクトル(石橋徹郎)。兄弟のいとこで、キエフの大学に通うためにトゥルビン家に下宿することになる文学青年・ラリオン(池岡亮介)。軍人だがオペラ歌手であり、既婚者であるレーナに甘い言葉を掛ける色男のレオニード(上山竜治)、大尉のアレクサンドル(内田健介)。酒好きで騒がしい彼らをアレクセイ、レーナ、ニコライは温かく邸宅に迎え入れ、みんなでテーブルを囲んでの酒宴が始まる。

ウォッカで乾杯し、ギターを手に歌い、詩を吟じ、また乾杯する――。戦火のさなかであっても、人々は一見、陽気で楽観的である。だが、アレクセイをはじめ、彼らの言葉からは時折、不安や緊張、あきらめの空気が漂い、もはや自分たちが望む未来が訪れることはなく、ひとつの時代が終焉に向かっていることをわかった上での刹那的な享楽であることを感じさせる。

続く第二幕の第一場は、白衛軍を支援するドイツ軍の傀儡であるゲトマン政府の軍指令室が置かれている宮殿に舞台を移して展開する。“コサックの首長”を称し、ウクライナ反革命政権の統領の立場にあるゲトマン(釆澤靖起)。これまでドイツ軍の後ろ盾を得て、権勢を誇ってきた。だがこの年の秋、ドイツが第一次世界大戦に敗戦したことでゲトマン政府を取り巻く状況は一変する。ドイツ軍はあっさりとキエフを見捨てて撤退するが、あろうことかゲトマンも、味方の兵をも欺いて、ドイツ軍と共にベルリンへと脱出してしまう…。

いわば、歴史の重大な1ページが舞台上で描かれるのだが、そんな文字通り“歴史的”な瞬間さえも、本作では深刻さを伴わず、まるでコントのように笑いを誘いながら展開。立派な理念や大義を掲げ、権力ゲームに溺れる為政者たちの本性が、ギリギリの局面、死と隣り合わせの状況に立たされた時に浮き彫りになっていく。自身も軍医として白衛軍のみならず、赤軍やペトリューラ軍にも従軍した経験を持つブルガーコフの自伝的な要素が色濃く反映された本作だが、およそ100年前の世界の出来事が決して遠く世界の物語ではなく、現代と地続きであることを強く感じさせる。

続く第二幕第二場もまた、別の角度から戦争、歴史の一面を描いたシーンが展開。キエフへの進軍を続けるペトリューラ軍の兵士たちの横暴ぶり、戦争というものが、人間の奥にある醜悪な部分をこんなにも色濃くあぶり出してしまうものなのかという恐ろしさを感じさせられる。新国立劇場の中劇場の機能を最大限に活かした舞台装置と演出にもぜひ注目してほしい。

そして、いよいよ物語は山場の第三幕へ。学校の集会場に集結し、ペトリューラ軍との戦いに臨もうとするアレクセイが率いる白衛軍の部隊だったが、アレクセイの元にゲトマンが既にキエフを見捨てて脱出したという知らせが届く。孤軍となってしまったことで、アレクセイはもはやこれまでと観念し、なるべく多くの命を救うべく白衛軍の解散を宣言する。だが、仲間たちの中には戦わずして解散することを潔しとせず、最後まで戦い抜くことを主張する者もおり議論は紛糾するが、ペトリューラ軍はすぐそこまで迫っており…。

「なぜ人は戦うのか?」――。そんな問いかけを投げかける第三幕だが、何よりも印象的なのが爆撃の轟音。トゥルビン家の居間での人々の会話やゲトマンの司令部での茶番のようなやり取りのシーンとの恐ろしいまでのギャップ! 人間の命を奪うための爆撃はこんなにも圧倒的で、目に、耳に恐怖を植えつけるものなのかとまざまざと感じさせる(士官候補生として従軍しているニコライが恐怖におののき耳をふさぎ、うずくまる姿は非常に印象的だ)。

そして最終の第四幕では、物語は2か月後の1919年に。再びトゥルビン家の居間に人々が集うが、2か月前とはキエフを取り巻く状況はさらに一変しており、白衛軍を解散へと追いやったペトリューラ軍もソヴィエト・ロシア政権のボリシェビキ(赤軍)の前には歯が立たず、キエフは陥落を迎えようとしている。再び体制が大きく変わる中で、それでも人々は生きていかなくてはならない。登場人物たちは、これからどう生きるべきかについて語り合う――。

全編を通して強く感じるのは、ブルガーコフの人間そのものを描こうとする強い意志――決して特定の政治勢力や民族に肩入れするわけではなく、激動の時代を必死に生きようとするひとりひとりの人間の強さや弱さ、愛情、滑稽さ、愚かさを丁寧に描こうとする思いである。

約100年前と重なるのは、ウクライナが戦時下にあるという状況だけではない。俳優陣がそれぞれ非常に魅力的に演じている、個性とユーモアあふれる登場人物たちの姿を通じて、“いま”を考える物語となっている。

取材・文:黒豆直樹

撮影:宮川舞子