サイモン・スティーヴンス ダブルビル
『ポルノグラフィ PORNOGRAPHY/レイジ RAGE』
桐山知也・亀田佳明・sara インタビュー

2025年2月15日(土)~3月2日(日)に東京・シアタートラムでサイモン・スティーヴンス ダブルビル『ポルノグラフィ PORNOGRAPHY/レイジ RAGE』が上演される。

本公演は、イギリスの劇作家サイモン・スティーヴンスの戯曲『ポルノグラフィ』と『レイジ』を同じ演出家、同じ出演者によって同時上演するというもの。『ポルノグラフィ』は2005年、五輪開催決定に沸くロンドンで実際に発生した地下鉄・バス連続爆破テロ事件を背景に記された作品で、被害者やその周辺の人々、そして実行犯などさまざまな人々の日常生活を7つのオムニバス形式で描き出す。『レイジ』は2015年から16年へと移り変わるイギリスの都市の大晦日の模様を捉えた、ジョエル・グッドマン撮影の写真から想を得た群像劇。大晦日というボーダーラインを越える時間帯の都市空間を舞台に、現代社会のアンモラルな縮図を27の場面で濃密に映し出していく。

演出を手掛けるのは桐山知也。桐山は2021年にKAAT神奈川芸術劇場でリーディング公演として『ポルノグラフィ』を上演したほか、2024年6月にもサイモン・スティーヴンスの『彼方からのうた -SONG FROM FAR AWAY-』で演出を手がけた。 出演者は亀田佳明、土井ケイト、岡本玲、sara、田中亨、古谷陸、加茂智里、森永友基、斉藤淳、吉見一豊、竹下景子。

演出の桐山知也、出演者の亀田佳明とsaraに話を聞いた。

関連のない2作の関連性を、うまく見つけながらやっていきたい

――『ポルノグラフィ』と『レイジ』という、同じサイモン・スティーヴンス氏による戯曲ですが関連性のない作品をどうして同時上演することになったのですか?

桐山 世田谷パブリックシアターの芸術監督である白井晃さんから、シアタートラムで作品をというお話をいただき、なにを上演しようかさまざまな候補が出たのですが、以前、白井さんがKAATの芸術監督をされていた時代の企画で『ポルノグラフィ』のリーディング公演を上演したこともあり、サイモン・スティーヴンス作品はどうかと提案しました。いくつかの戯曲が候補に挙がり、その中に『レイジ』もあったのですが、ちょっと不思議で掴みどころがない作品なので、迷いがありました。それで「『ポルノグラフィ』をやるということはあり得ますか?」とお話ししたらプロデューサーの浅田さんが「2本同時上演というのはいかがでしょう」とけっこうすごい提案をサラッとされて(笑)。そこで僕も「いいですね」と言い、白井さんも同意してくださって、現在に至ります。

――この組み合わせについてサイモン氏はどんな反応でしたか?

桐山 この2作は全然なんの関連性もない作品なので、サイモンさんは最初一瞬首をひねったようですが、今は「すごくいい」「これを企画したのは誰だ」とおっしゃっているそうなので、よかったなと。これは少し無理やりかもしれないですけど、僕は『ポルノグラフィ』に登場する人たちの、こうあるかもしれない・こうあったかもしれない人生が『レイジ』に書かれているような気がしています。逆もまた然り。そういう関連性をうまく見つけながらやっていけるといいかなと思っています。

――亀田さんとsaraさんはそこに参加することになってどう思われていますか?

sara 先日、準備稿の台本をいただいて読んだのですが、ちょっとたまげたという感じで。

桐山 たまげた?(笑)

sara はい、たまげました(笑)。まずこの2作を同時上演することのおもしろさ。これがどんなふうに立ちあがっていくんだろうというワクワクと、(2作での)表裏一体さというか、同じ人数の役者が同時に2つの作品で別の役を演じることのおもしろさもあって。『ポルノグラフィ』の戯曲には冒頭に「7つの章をどのような順番で上演しても構わない」と書かれているのですが、そういうところからも預けられたもの(=戯曲)に余白がたくさんあるんじゃないかな、それはすごくおもしろいなと思いました。このことをお客さんがどう受け止めるのだろうということと、私たちがどう感じるんだろうということがまったく未知数なので、とても楽しみ!というのが最初の気持ちです。

亀田 僕は『ポルノグラフィ』は随分前に日本で観たことがあって、その時になんとなく台本にも目を通したのですが、当時は芝居の構造やシステムのほうに関心がいって内容がそんなに自分の中に残っていませんでした。今回改めて読んでみたところ、ロンドンの「オリンピック開催決定を受けての歓喜」と「爆破テロ事件の悲劇」の間にいる人間たちの生活感がものすごく執拗に子細に書かれていて、前回観た時と随分受ける印象が変わっているなと思いました。『レイジ』は初めて読んだのですが、ストーリーに寄り掛かることもできないし、登場人物のヒストリーによりかかることもできない反面、ところどころ射し込まれてくる作家の閃光のような強烈なメッセージ――と言ってしまっていいのかわからない、言葉――それはすごく詩的な言葉だったりするんですけど、それが強烈な印象で。ストーリーや登場人物のヒストリーではないところのメッセージがものすごく具体的で強い、そのアンバランスさが非常にスリリングで、おもしろいと言っていいのかなんなのかという印象でした。ふたつの作品に繋がりあるのかということに関しても、そもそもそんなに説明的でもないしト書きもない戯曲なので、どうしても観ていただく方の創造力を拝借しないといけないような作品になると思います。そうすると、同じ作家さんが書いているということだけではなく、繋がりは無限に広がっていくんじゃないかという気はしました。

2つの役の間で表裏が見えるような配役に

――2作をどう繋げ、どう立ち上げようというプランをいま持っていらっしゃいますか?

桐山 チラシに書いてある「黄色い線の内側に下がっていなければ。」というのは、『ポルノグラフィ』の印象的な台詞なんですけど、これはリーディング公演の時から引っかかっていた言葉です。『ポルノグラフィ』は地下鉄テロが出てくるので、なんとなく安全のために言われた言葉のような感じがするのですが、どこかで自分が自分を守るために内側にこもる、というような意味合いも感じて。そういうこともあって、この「黄色い線」はうまく使いたいなと思っています。「KEEP OUT」の黄色い規制線を舞台上に展開して、それを『レイジ』に出てくる警官たちが引っ張るとか。そうすることで(規制線が)社会にある暴力的な権力にも見えるし、彼らが引っ張って安全だと言っているけど本当に安全なのか?とも考えられるし。そんなふうに立ち上げると、2作品の間でうまくつながりが見えてくるんじゃないかなと今は思っています。

――配役ももう決まっているのでしょうか?

桐山 11人の役者さんにそれぞれの作品でどの役を演じてもらうかはすごく悩んで決めました。2つの役の間で表裏が見えるような、例えば『ポルノグラフィ』に登場する姉弟が『レイジ』で「こうなったのかも・こうだったのかも」と思えるようにしたり、片方の作品で犯罪を犯す人がもう一方で「なにもなければこういう日常生活を営んでいたかも」と思えたり、そんなことがちょっと見えてくるといいかなと思っています。

――亀田さんとSaraさんは、戯曲やご自身の役の印象はいかがですか?

Sara 『ポルノグラフィ』を最初に読んだ時、突然ナイフみたいなものがこっちに向かって来るような感じがしました。登場人物が「そこまで言うか」ということを言うんですよ。相手に対してもだし、それを観ているお客さんに対しても。ほとんどの登場人物が、普通は言わないようなことがブワッと出てきちゃう状態になっている。だからお客さんを含むそこにいる人たちは、“それ”を聞いてしまった以上傍観できないと思います。その共犯関係みたいなことがヒリヒリしておもしろい、それが最初の感覚です。自分が演じる役も、絶対に行ってはいけないとわかっているんだけれども、そう思えば思うほど急速に惹かれていくというような人で。それは自分がコントロールできることではない、でも生きていかなきゃいけない、みたいな。この戯曲のようにそのちょうど間(あいだ)みたいなところを書いている作品を私はあまり知らないし、しかも現代を生きる自分たちにこんなに差し迫ってくる設定も自分の観劇体験としてあまりないので、すごくおもしろいと思いました。『レイジ』では『ポルノグラフィ』とは全く別の人物を演じるのですが、なぜか(登場人物が『ポルノグラフィ』で描かれたヒストリーを)背負っているみたいに思えてしまって、それが逆にすごくおもしろかったです。ただ実際日常もそうだよなと思うんです。人は表に出ていない部分も持っているから。

亀田 僕は『ポルノグラフィ』では実行犯であろう人、『レイジ』のほうは警官を演じます。つまり真逆であると想像できる役なんですけど、これがまた真逆であればあるほど繋がりを感じたりすることもあって。しかもこれは“遠い国のお話”みたいなものではなく、日本でも起こり得る事象を描いていますし、日本の場合はプラス災害というものがあるから“当事者”になるいろんな可能性がある。そうなったときにどんなふうに行動するのか、みたいな感覚は、この戯曲に書いてあるものと近いと思うんですね。そういう感覚を、どちらの作品でもどの役でも大切に持たないといけないかなと思っています。

――今回、翻訳は『ポルノグラフィ』を小田島創志さん、『レイジ』を髙田曜子さんと別の方が手掛けられていて、そこにはどのようなおもしろさが生まれていますか?

桐山 できあがったものをふたつ並べて見ると、多分同じ単語も別の言葉で訳していたりして、それぞれ特徴のある言葉遣いになっているから、なんかちょっと違って聴こえてくる。そういうのがおもしろいです。そして創志さんも髙田さんもすごく現場が好きで、稽古をしながら相談できる方々です。

――稽古場でもやり取りができるのですね。

桐山 はい、翻訳ってどうしても文字で読んでいる時はよかったのに俳優が口に出したらひっかかることがあるんですけど、二人ともそこへの食いつきが早いんですよ。俳優さんは少し引っかかっても書いてあるように読むじゃないですか。でもお二人がすぐに「あそこ、変えてもいいですか」とおっしゃる。そしてそこで提案する言葉は、俳優さんが「それだと思ってました」というものなんです。現場での瞬発力みたいなものも魅力のお二人です。

――稽古も始まっていない段階ではありますが、亀田さんとSaraさんはいま何を楽しみにされていますか?

Sara 台詞のやり取りです。最初はすごく短い言葉のやり取りで始まるのだけど、気付けば最後はものすごい量を一人でまとめて喋っている、というようなことになっているので。そういう、言葉でどこまでいけるのか、みたいなところは楽しみです。

亀田 この戯曲は言葉の可能性の角度が広いというか。出所がそう簡単に暴けないようなところもあるし、それゆえにかなり高いところまで飛んでいける可能性のあるニュアンスだったり言葉だったりして。そういうものはやはり俳優としてとても楽しみです。どういうふうにこの言葉で、芝居の相手と、お客さんと、コネクトしていくのだろうということを探るのも楽しいでしょうしね。そこに縛りがないぶん、固定概念を一度はずしてやってみるということが存分にできる気がしています。

――桐山さんがおふたりに期待されていることはどんなことですか?

桐山 さっき亀田さんもおっしゃっていたんですけど、今回の戯曲には台詞が急に詩的になるところがあるんです。そこで、お二人が所属されている「文学座」が持っている“言葉を大事にする瞬間”のようなものがふっと立ち上がってくるのではないかと期待しています。それはこの作品ともうまくマッチしているのではなかろうかという気がしていて、楽しみです。

取材・文/中川實穗