
ソン・オクスク/イ・イルファ/ソ・ヨンヒ/ハム・ウンジョン/キム・ジュヨン
清水邦夫の代表作を、映画・ドラマ・舞台で活躍する韓国演技派女優たちによって日本で上演
2025年6月24日(火)に開幕した、演劇「『楽屋』〜流れ去るものはやがてなつかしき〜」の韓国人キャスト来日版のオフィシャルレポートが到着しました。
オフィシャルレポート
2025年の世界への祈りともなる作品
演劇『楽屋』~流れ去るものはやがてなつかしき~韓国版来日公演
俳優ならおそらく男女を問わず一度は挑んでみたい名作戯曲、清水邦夫の代表作『楽屋』~流れ去るものはやがてなつかしき~。その韓国版来日公演が、6月24日に東京・博品館劇場で幕を開けた。(29日まで上演)
「楽屋」、そこは役者たちがスタンバイする場所でもあり、束の間、身体を休める場所でもある。また、辞書には「内幕」とも書かれているように、役者たちの本音や実態があらわになる場所でもある。この戯曲『楽屋』は、アントン・チェーホフの『かもめ』を上演しているある劇場の楽屋で繰り広げられる。その楽屋には、「4人の女優」たちが登場、彼女たちの、舞台に立つことへの飽くなき憧れや執着、それと裏返しの不安や失望などが、とめどなく語られる。だが、それがシェイクスピアやチェーホフなど古典の名作戯曲の言葉とともに語られることで、役者個人や演劇という表現の世界だけにとどまらず、人が生きることへのメタファーそのものとなり、観客自身の問題として心に届いてくるのだ。そんな作品が韓国版として新たなアレンジを加え、今の時代に深く届く真摯な舞台に仕上がった。
この韓国ライセンス公演の成功は、なんといっても「4人の女優」を演じる役者たちの力が大きいだろう。ダブルキャスト1組を含む5人の出演者はいずれも映像や舞台で活躍し、演技派として知られる俳優たちが顔を揃えている。
万年控えでプロンプターしか経験していない「女優A」と「女優B」を演じるのは、ソン・オクスクとソ・ヨンヒ。ドラマ『冬のソナタ』でペ・ヨンジュンの母親役を演じたソン・オクスクは、男役専門だった「女優A」を、短髪でマニッシュな外見で活き活きと演じてみせる。「女優B」のソ・ヨンヒは可愛らしさがあり、ややお調子者で人の良い「女優B」を軽やかに演じる。この二人は物語の狂言回し的な役割も受け持っていて、掛け合い漫才のようなコメディセンスを駆使しながら、同時に舞台に上がったことのない下積み俳優の哀歓を漂わせる。
「女優C」はイ・イルファ。韓国では母親俳優として有名だが、本人のたっての希望でこの役を獲得した。「女優C」はプロローグで、今この劇場で上演されている『かもめ』の主演女優として、ニーナのモノローグを語りながら登場するのだが、イ・イルファはそこで一気に観客を物語に引き込む。また「女優C」は、演劇の世界で生きる喜びと、それと引き換えに失ったものへの悲しみを抱えていて、ニーナの苦悩にも通じるその葛藤を、イ・イルファはベテランならではの深い表現でみせてくれる。
「女優D」はダブルキャストで、初日は韓国のライジングスターと言われるキム・ジュヨンが演じた。「女優D」は、ねまき姿で枕を抱える無邪気さと、それとは裏腹に役者としての強烈な自我を主張する若い役者の役で、そのアンバランスで病んでいる様子を、キム・ジュヨンは天性の役者ぶりで際立たせる。「女優D」にも『かもめ』のニーナのモノローグがあるのだが、キム・ジュヨンのそれは、手に入れることのない「女優D」の舞台への夢と重なって一層哀切に響く。ダブルキャストとして後半日程で出演するハム・ウンジョンが、この「女優D」をどう演じるか、それもまた見どころとして期待したい。
最後にこの韓国ライセンス公演のラストシーンにも少し触れておこう。清水邦夫の許可を得て変更したというラストシーンは、『かもめ』の幕切れから同じチェーホフのある戯曲へと飛翔する。そこで語られるセリフからわずかに差し込む光のようなもの。それは2025年の世界の現実への、演劇という表現からの祈りのようにも思えた。
<あらすじ>
“そう、私たちは女優よ”
とある劇場の楽屋。舞台ではチェーホフの名作「かもめ」が上演されている。
化粧台に向かう女優AとBは、身支度に余念がない。
幕間に楽屋へ戻った女優Cは、ニーナのセリフを練習すると、再び舞台へと向かう。
そんなCが気に入らないAとBは、自分たちが本当は演じたかった古典作品の役を演じながら時間を過ごす。
二人の時間は、女優Dの登場によって破られる。精神を病み入院していたDは、Cが演じるニーナは自分の役だと信じている。公演を終え、楽屋に戻ってきたCはニーナ役を返してほしいというDの言葉に当惑する。
やがて二人の衝突は思いもよらない悲劇へと向かっていくのだが…。