
1989年、ベネチア国際映画祭で公式セレクション作品として初めて上映された映像版『ピーター・ブルックのマハーバーラタ』は、その後世界中で公開され、大きな成功を収めました。しかし、音声素材やネガフィルムは複数のラボに散逸してしまいました。激しい闘争や訴訟を経てようやく回収したフィルムや音源を修復し、オリジナル映像の8K高画質化と音声のリマスタリングを実現しました。その修復プロジェクトの監修を務めたピーター・ブルックの息子であり映画監督のサイモン・ブルックに、PARCO劇場でのプレミア上映を前に本作について聞きました。
8Kが照らす5000年の問い──『マハーバーラタ』とピーター・ブルックの眼差し
――ピーター・ブルックの舞台『マハーバーラタ』は、ちょうど40年前にアヴィニョン国際演劇祭で世界初演されて以来、日本を含む世界中で上演が行われた氏の代表作ですが、そもそも〝映画化〟に至ったのはなぜでしょうか。
理由は主に2つ。まず、舞台を観られない多くの観客のため、ということがありました。全9時間におよぶ大規模な作品だけに、望まれたすべての地には赴けず、当時それが父のフラストレーションになっていたのです。映画化のアイデアは、そんな人々の要望に応えるために生まれたものでした。それからもうひとつ、父の中で、舞台とも映画とも異なる第3の表現形態に挑戦してみたい、という想いが強くなってきていたこともあったと思います。
――確かにこの映画は、少年が登場し、ブッフ・デュ・ノール(ピーター・ブルックが本拠としたパリの劇場)のバックステージを通り抜けて舞台にたどり着くところから始まるので、最初は「舞台上演の様子を映像に収めるのだろうな」と思うのですが、そうとは言えないユニークな表現が展開してゆきますね。
父は、劇場というのは示唆(suggestion)することで機能する場所と考えていました。つまり、実際にそこには存在しないものを、観客に見せたり感じたりさせることができるのが劇場(演劇)であると。これに対して映画というのは、デモンストレーションするもの。そこに「これ」があるとするなら「これ」の実体を観客の眼前に出してみせる必要があるものと考えていました。この『マハーバーラタ』は、その両方の要素を丁寧に使い分けている点で、舞台でも映画でもない、第3の表現形態を提示し得ていると思います。こうした方法は、その後ラース・フォン・トリアー監督の『ドッグヴィル』などでも試みられていますが、’80年代に、すでに父は成し遂げていたわけですね。さらに今回、8Kで修復を行ったことで、まるでライブ・パフォーマンスのように見えるという現象が実現しました。創り手の頭の中だけにあったものが、技術の発展により具現化したわけで、父が生きていたら、どんなに喜んだことだろうと思います。
――8Kという技術の出現を待つための映画化だった、とも言えるかもしれませんね。さらに描かれている内容も、分断から戦争に至る人間のエゴと残虐性、戦いの空虚さなど、リアルに胸に突き刺さることばかりです。
5000年前に書かれた『マハーバーラタ』は「大地が嘆いている」と語り、何世代にもわたる家族の物語によって人間の選択がもたらすジレンマと、壊滅的な結末というものを描いています。当時の人たちは、どうすべきだったのか、その明解な答えを持ちませんでしたが、その後の5000年も争いは絶えず、人間は答えを見つけらずにいます。ただ、それでも人間は、ここまでなんとか滅亡せずに生き続けてきた。そこに希望を感じることができるのも、この壮大な叙事詩の魅力ではないかと感じています。
取材・インタビュー文=伊達なつめ(演劇ジャーナリスト)
ピーター・ブルックについて
ピーター・ブルック(1925–2022)は、20世紀を代表する舞台演出家、映画監督。若干20歳で、イギリスを代表する劇団ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)の最年少演出家に就任し、演劇の常識を打ち破り、前衛的でありながら多くの観衆を引き付けるスタイルを特長とし、革新性と深い哲学性をもって、現代演劇に大きな影響を与えてきました。その功績によりトニー賞、オリヴィエ賞、ヨーロッパ演劇賞、エミー賞、世界文化賞など、世界各地で数々の栄誉を受けています。彼の演出は、舞台芸術のみならず、映画、アート、カルチャー全体にまで及ぶものであり、その革新性は今も多くの観客やアーティストに影響を与え続けています。
8K高画質上映の特別性
8Kは現行ハイビジョン(2K)の約16倍、4Kの4倍にあたる約3,300万画素の超高精細映像。その再現力と色彩表現は圧倒的で、これまでにない没入感を実現します。今回の上映のため、PARCO劇場に専用の8K対応プロジェクターとスクリーンを特設。通常の映画館(一般的に2Kまたは4K)では対応できないため、8K上映を実現できる施設は、世界的にも非常に稀少です。また『ピーター・ブルックのマハーバーラタ 8K 修復版』は、現在、一般の映画館での一斉上映や動画プラットフォームでの配信は行っておらず、限られた国や地域の劇場や特別な空間でのみ上映が計画されている作品です。まさに今、劇場で観なければ出会えない貴重な体験となります。
5年余りの歳月を要した8K修復プロジェクト
映像版「ピーター・ブルックのマハーバーラタ」は、1989年のベネチア国際映画祭で公式セレクション作品として初めて上映され、その後、世界中での公開に至り、大きな成功を収めました。しかしその後、作品はスクリーンから姿を消すことになります。オリジナルの音声素材やネガフィルムは、複数のラボに散逸し、それらをすべて集めるまでには、長い年月をかけた壮絶な闘争、訴訟、そして多くの血と汗と涙を必要としました。そして遂には、全3,451リールのフィルムを再統合することに成功しました。音声に関しては、34/35ミリの磁気音声テープが、長年の保存環境の影響で互いに張り付いてしまい、深刻な損傷を受けていました。この修復作業では、特殊なオーブンで数時間かけて51°Cに加熱することでテープの状態を改善し、その後デジタル化が可能となりました。こうして、音声の復元と保存が実現され、オリジナルのステレオ音声は5.1チャンネルにリマスタリングされています。映像については、オリジナルのネガフィルムを使用して、8K高画質でスキャンされ、16ビットのカラー深度で処理されました。この復元作業は完全8Kの超高精細画質で実施され、Phoenix、Diamantというソフトウェアを使用して行われました。プロジェクト全体で膨大なデータ量(450テラバイト)を処理する必要があったため、これらのソフトウェアは特別に改良もされました。この復元プロジェクトは、サイモン・ブルックの監修のもとで、TransPerfectMedia Franceによって行われました。