くによし組『塔の上の』|國吉咲貴(作・演出) インタビュー

神奈川県立青少年センター スタジオ HIKARIにて、 6月18日(木)より上演される『塔の上の』。國吉咲貴が作・演出を務める、くによし組の2年ぶりとなる新作公演だ。とある村に佇む塔の住人を中心に、個性豊かな人々の群像劇が展開する。作品の手触りとしては愉快だが、同時に、とても切実なメッセージの込められた作品でもある。

 物語は國吉自身の個人的な関心から生まれているが、企画の成り立ちはかなり特殊だ。7月11日(土)からは大阪の高槻城公園芸術文化劇場 南館 サンユレックホールにて、キャストも、演出も、美術も異なる『塔の上の』が上演される。

 “異常で、日常で、シュール”をコンセプトに掲げるくによし組の新作は、いったいいかなるものか──。國吉に話を聞いた。

──『塔の上の』は神奈川と大阪で公演をするとのことですが、キャストをはじめ、いろいろと違ってくるそうですね。企画の成り立ちについてお聞きしたいです。

演目は同じですが、美術も演出も、全体的にかなり違う作品になると思います。というのも、これは2都市をめぐるツアーというわけではないんです。神奈川公演は「マグカルシアター2026」の作品として、大阪公演は「高槻de演劇2026 盛夏のプログラム」の作品として上演されるもので、私はそれぞれ別の作品で応募していました。高槻のほうは舞台美術を起点に作品をつくるという企画で、まずこちらが先に決まりました。続いてマグカルシアターでの公演がやれると決まったときに、まったく別の作品を上演するのは相当ハードだから、神奈川でも高槻と同じ作品をやったらどうかと提案されました。それでどちらも『塔の上の』を上演することになったんです。

──そういう経緯があったんですね。

大阪での公演はこれがはじめてですし、関西を拠点に活動されている役者さんたちとの作品づくりもはじめて。美術もキャストも演出も違うので、それぞれ新作を上演する以上に大変なことをやっている気がしています……。

──神奈川で上演する台本を拝読したのですが、こちらに関しても変わってくるんですか?

大筋は同じですが、大阪版は全編関西弁での上演になります。扱う言語が変わってくるので、作品の細部も変わってきますし、それぞれの印象も変わってくるんじゃないかと思います。本当に別の作品をつくっているようで、こんなことになるとは……(苦笑)。

──本作は、とある村に佇む塔の上の住人と、その周りに住む人々の物語を描いています。竹内良亮さんの手がけた舞台美術から、この物語は生まれたわけですね。

そうです。『塔の上のラプンツェル』を下敷きにしたようなお話を描いてみたら面白いんじゃないかと思いました。塔の中で暮らすラプンツェルは、外の世界に出るのを夢見ながら、誰かが迎えに来てくれるのを待っています。でももしも、誰も迎えに来なかったら、彼女はどうなるのか。ずっと待ち続けるのか。同じような状況の人が私たちの現実世界にいたとしたら、周囲の人々はよく分からないものとして怖がったり、腫れ物扱いすることになると思うんです。でも、塔の住人はたしかに存在していて、生きている。その証として、髪の毛が塔の外まで伸び続けます。この住人が生きてきた時間が間違いなく存在していることを描いてみたいと思ったのがはじまりですね。これに加えて、自分の生まれ育った村のことが嫌いな男の子と、この村のことを大切に思っている女の子、そして、村のことなんて興味のない女の子という、ひとつの土地に対してさまざまな感情を持つ人々が登場する物語にしようと思いました。

──地方というものに対する何か特別な関心があったんですか?

私の地元も埼玉の奥地のほうなんです。そしてそこでは、特定の人物に関するいろんな噂話が飛び交っていました。そこで語られる当人は、何を思い、やがてどこに行くのか。これがずっと気になっていましたね。

──たしかに自分の地元にもいた気がします。「あの人は何者なんだろう?」と、みんなの話題にあがる存在がいて、でも誰も分からないという。國吉さんのお話に“時間”というキーワードが出ましたが、これは本作において重要な要素になっていますね。

はい。ここ数年、時間というものについていろいろと考えるようになって。年齢を重ねているうちに、徐々に死んでいっていることを強く実感するようになったんです。身近な人ともう二度と会えなくなることが、この数年で増えてきました。私が死んだとき、果たして何か残るのだろうかとよく考えます。アーティストなら作品が世に残り続けるかもしれませんが、そういう人ばかりじゃありませんよね。

──そうした実感は、やんわり芽生えてきたものですか?

そうですね。そして年々、強くなっています。私は自分が何者にもなれないことがすごく怖いです。この怖さに抗うために作品づくりをしているのか、それとも純粋につくりたくてつくっているのか。自分のために創作をするというのは、恥ずかしい行為なのではないか……。日々ぐるぐると、いろんなことを考えています。そもそも、“つくる”って何なんでしょうね。自分が創作をする理由を、もっと明確にしていくべきなのかもしれません。最近はそんなことも考えています。

──これだけ作品を発表していても、いや、発表しているからこそなのか、その問いがついて回るんですね。

消えることはないんじゃないかと思っています。何かをつくって完璧だと思えたことはないのですが、たとえ本当の意味で満足することができたとしても、この問いや焦りのようなものは消えてくれない。そう感じています。だからきっと、つくり続けるしかないんでしょうね。

──この物語には美大に通う“藤家”というキャラクターが登場しますが、彼はいつまでも卒業制作の絵を描き上げられませんね。これはいま國吉さん自身が抱えているものを、彼に託したということでしょうか。

そうです。焦りや不安と闘いながら、彼は人生を送っていくことになります。これを演じる藤家矢麻刀さんにも、「焦りと闘いつつ、徐々に死に向かってほしいです」とお伝えしています。すごくしんどい役どころですよね……。

──写真家のキャラクターが登場しますが、これは“時間”というものを象徴していると感じました。

写真はある一瞬を切り取ったそのとき、その瞬間に完結するものだともいえますよね。だから絵画などと似ているようで、じつは対極にある。絵は描いても描いても、終わりがありません。画家自身がゴールを見つけないと誰にも見てもらえず、その道中を彷徨い続けることになります。

──そしてここに、恋愛要素も絡んできます。

子供の存在って、その親にとって、生きた証だともいえますよね。自分の生きた証は、芸術によってなのか、それとも動物的な本能によって達成されるのか。ときに“藤家くん”は本能のほうに走ろうともするんです。

──ひとりのキャラクターの人間的な側面と、動物的な側面を描こうというわけですね。以前、『ケレン・ヘラー』が上演される際にインタビューをさせていただいたとき、今日的なテーマを持った作品で、社会との強固な接点があるというお話になりました。今作と社会との接点に関して、特別に意識されていることはありますか?

いまここに立っているという実感を、私はつい忘れてしまいます。いまこの瞬間が楽しいと、あっという間に時間は過ぎてしまい、そしてもう二度と戻れない。時間が不可逆的なものであることを頭では理解していながら、つい実感が抜け落ちちゃう。これは私だけじゃないと思います。世の中は刺激的なもので溢れていて、みんなキラキラして見えますし、自分自身がキラキラした時間を過ごすこともある。でも時間というのは元に戻せないから、いまのこの一瞬をちゃんと噛み締めるように大切にしたいですし、この作品を観た方にもそう思ってもらえたら嬉しい。いまの自分をもう少し大事にしようかな、家で帰りを待っている人をもっと大切にしたいな、とか。あるいは、挑戦してみたいけど、最初の一歩を踏み出せずにいることに向き合ってみる、だとか。そういう変化が生まれたら嬉しいですね。

──全体的な印象としては愉快な作品ですが、とても切実な想いが込められているのを感じます。登場人物たちには演者自身の名前がつけられていますが、ここにはどういう意図があるのでしょう。

俳優のみなさん一人ひとりに、舞台上でもそのまま生きてほしいという思いがあります。『塔の上の』に登場するキャラクターを演じるのではなく、みなさんの中から出てきたもので人物を立ち上げていただきたくて。役名があると自然とフィクションの濃度が上がってしまいますし、ポップな作風だとは思うのですが、じつはかなり繊細な作品でもあります。劇中の物語が、私たちの現実と地続きのものであることも示したい。そういった思いから、普段から呼ばれ慣れているお名前をお借りしました。なのでもちろん、大阪公演の登場人物たちは違う名前です。

──観客は舞台上に、自分自身や身近な誰かを見つけることになるかもしれませんね。いまは神奈川公演に向けて稽古中ですが、何か新しい試みはありますか?

まずみなさんに、本作のテーマをお伝えしました。それから役者さんたちには、一人ひとりのキャラクターが目指すべき方向性について、グラフを使ってお伝えしました。

──グラフですか。

声や感情のベクトルを、舞台上でとどめるのか、それとも客席に向けるのか。このシーンにはフィクショナルなお芝居が必要なのか、自然体なものがいいのか。そんなことをお話ししましたね。神奈川公演も大阪公演も、個性的な人たちがたくさん出てきます。でもだからといって、観客のみなさんに「面白い人がいっぱい出てきたな」という感触のまま終わってほしくない。そのためには、役者さんたちとの認識のすり合わせが重要になってくる。シーンによっては作劇や演出的に、俳優個人に負担がかかるところも出てきます。そういったあたりも感覚的な言葉に頼らず、丁寧にお伝えするようにしています。このはじめてのアプローチをとおして改めて、役者さんが稽古に来てくれることのありがたみを感じています。決して当たり前のことじゃないんですよね。

──とても素敵です。國吉さんといえば、映画やドラマの脚本家としてもお名前を見かける機会が増えました。商業的な映像領域の仕事から受ける影響は何か感じていますか?

映画を観てくださった方が、くによし組の公演にも足を運んでくださることがあります。すごく嬉しいことですね。くによし組のお客さんが、「映画を観たよ」と言ってくださることもあります。私は演劇が大好きで、映画やドラマとの垣根がなくなればいいのにとずっと思っています。だからこういった動きを肌で感じられるのは嬉しいですね。それから、くによし組の作品が私発信であるのに対して、映画やドラマの脚本は、その成り立ち方がまったく違います。本当に多くの方が関わっていて、ひとつの脚本を完成させるためにいろんな意見を取り入れながら、何度も書き直していきます。以前は誰かの意見をネガティブに捉えてしまうこともあったのですが、いまはかなり柔軟になりました。改稿するたびに面白くなっていくのが分かるので、この工程がすごく好きですね。くによし組の台本も、みなさんの反応を見て意見を取り入れながら、リライトを重ねています。何より、役者さんが演じてみないと分からないですしね。

──くによし組は半年後にも新作公演を控えています。どんな作品なんですか?

『粉瘤』というタイトルの作品で、主人公の耳にできた粉瘤が大きくなり、やがてそれは喋るようになります。そしてこの主人公は、自分のストレスを粉瘤にぶつけていくことになる。粉瘤をいじめることになっていく。そういう物語です。

──その物語は何に端を発しているのでしょう。

個人が持つ加害性というものに、ここ最近ずっと関心があります。SNS上が顕著ですが、みんな誰かしらを責めていたいのかなと思うことが多くて。今回の『塔の上の』に登場する藤家くんは、自分が抱える焦りややり切れない感情を、どこにぶつけたらいいのか分かっていない人です。でも『粉瘤』の主人公は、こうした感情のぶつけ先を他人ではなく、自分だったらいいだろうと思っている。粉瘤も自分の一部ですが、自分だからといって、果たして何をしてもいいものなのか。これをテーマにした作品です。

──とても興味深いです。『塔の上の』からのつながりも感じますね。

過去に『チキン南蛮の夜』という作品をつくったのですが、これは過食嘔吐癖のある女の子のお話でした。過食も拒食も自分を痛めつける行為であるいっぽう、そうしなければ生きていけない人たちがいます。私自身、自分の中にある感情の整理がつけられないとき、自分をいじめる方向に走ってしまいがちです。次もまた、不器用な人間を描くことになりますね。

インタビュー・文/折田侑駿