笑いについて論じた『今夜、笑いの数を数えましょう』の著者いとうせいこう、演劇系コントの舞台明日のアーを主宰する大北栄人、オモコロや小説家 品田遊としても活動するダ・ヴィンチ・恐山。笑いを愛する文系メガネ3人が笑いについて大真面目に考える。
前回の記事では大北が発見した新理論「エラー発見の報酬」を中心にしたが、今回はいとうせいこうが中心となり、笑いの仕組みと方法論を明らかにしていく。私たちはどうやって笑っているのか?
(写真:明田川志保 ライター:張江浩司 タイトルデザイン&図:よシまるシン)
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恐山「明日のアーの笑いって、「そのボケが何を指しているのか」を理解するまでにちょっと時間がかかるというか。「はてなブックマーク」を毎日見てる人じゃないとわからないボケがあったりするじゃないですか」
大北「あ~、初期は特にそうです。日常で話している言葉と舞台上の冗談に乖離があるのが気持ち悪くて。友達と喋ってる言葉の方がはるかに生っぽくて面白いよなと思って」
前回の記事同様老婆心ながら心の声を画像にしました
いとう「それはすごく良い試みだったよ」
大北「最近は丸くなってきたのか、固有名詞が減ってきました」
いとう「というか、飽きたんだよ。違うセリフでも笑わせてみたいということだね」
恐山「今はどんなモチーフに興味があるんですか?」
大北「明日のアーは「考え方のショー」だと思うんです。コント1本をできるだけ短くして、新しい考え方や視点をたくさん見せることですかね」
いとう「その中の一本を5分くらいにして、他の場所に出ていくことはしないの?」
大北「そういう可能性もありますよね、芸人さんらに混じるとか」
いとう「例えばキングオブコントで優勝して、「あの人は誰なんですか?」「藤原です」っていう(笑)」
明日のアーの変な考え方の例。プログラムのアルゴリズムでコントができないか模索したもの
いとうらが作ったコントライブの仕組み
大北「せいこうさんがシティーボーイズさんらと一緒に作ったコントライブの仕組みの多くが、今の芸人さんのコントライブの土台になってますよね」
いとう「なってるだろうね。暗転して、衣装を着替えてる間に映像を流すというのは、ワハハ本舗が先にやってたみたいなんだよ。でも、その映像を「かっこいい」ものに切り替えたのは宮沢さん(宮沢章夫。劇作家で、いとうやシティーボーイズ、竹中直人、中村ゆうじらが参加した「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を主宰した)なんだよね。しかも、幕間に素晴らしくかっこいい音楽を大音量でかけてて」
いとう「当時のラジカルは半分芸人、半分演劇みたいな感じだったから、なんだか時間がなくなってゲネはろくにやらないで本番を迎えちゃってさ。確か冒頭の短いコントやって袖に帰って来て舞台見てたら、オープニングの映像がドーンとスクリーンに映されてZTTが大音響でかかって、あんまりにもかっこいいから大竹さんたちとびっくりしちゃって」
恐山「そこで初めて見たんですね(笑)」
いとう「ものすごくかっこよかったのは、よく覚えてる。ラフォーレ原宿が会場で」
大北「ラフォーレ。場所もかっこいいところで」
いとう「幕間の映像の方法論は以来、あらゆるところで色々追求されていきますよね。着替えのタイミングは確実にあるわけだから。その方法をずっと洗練させていって最高峰で現在やり続けてるのがKERAの芝居なんじゃないかな。毎回違うやり方で見せてる。本当にすごい発想と努力ですよ」
大北「その公演内のいろいろなコントを、最後に全て関連させる手法もそうですよね? 話が全部繋がるような」
いとう「正確には覚えてないんだけど、三木くん(三木聡)が演出したシティーボーイズのライブに出たときに、「これとこれをくっつければ話が通るんじゃないかな?」って提案した記憶はあるんだよ。もちろん演出側がすでに考えてた可能性もあるけど、お互いに「そうだ、これを組み替えればいける」って進めていったんだと思う」
諸説ありそうですが確認できる最古はこれということで
大北「1997年の「Not Found」の頃ですか?」
いとう「いや、全然もっと前だね。「話が繋がってる」と発見することが、笑いの快感に近いんだろうな」
大北「そうですね、認知の喜びでもあると思います。さっきからすきあらば「認知」に関連づけようとしてますけども(笑)」
いとう「なるほどね。「繋がってること」を発見した方が人間の暮らしに有用だから、報酬が出てるってことか」
大北「「エラー発見の報酬」であるユーモアと、この「繋がっていることを発見した報酬」はかなり似ていると思うんですね。この「ほ~、繋がった」という喜びは似ているから同じ舞台に並べても反発しないというか、相性がいいんじゃないかな」
ユーモアとはなにか
いとう「ユーモアとギャグを分けて考えた方がいいと思っていて、ユーモアは人生に関係し、ギャグは時間に関係するんじゃないかとおれはかねてから主張してて。ただ後者に関してはまだちゃんと説明できないんだけどね。
フロイトがよく使う例として、刑場に向かっている死刑囚が空を見て「今日もいい天気ですね」と看守に言ったと。これがユーモアだって言うわけ。つまり、自分が死ぬという絶対的な絶望をメタレベルに引き上げて、自分が解放される。そして、それを聞いている人も思わず笑ってしまうことで解放されると。でも、おれが看守だとして、これだと笑えないよね。フロイトは例を間違ってると思うんだけど(笑)。
「この分だと明日も晴れるでしょうね」って言ったほうが面白いよ。その人はもういないんだから。「この人、死を超えてるな」と思ったときに尊敬の念さえ生まれる。これがユーモアだと思うんだよね」
大北「確かにそうですよね。高次的なものにしてくれる力が一般的なユーモアにはある」
いとう「もう一つフロイトは「親が子どもを見る態度」って言ってて。子どもは経験がないからたった今の恐ろしさに怯えてるんだけど、親は「明日になったら大丈夫だよ」とか「中学生になると違って見えてくるよ」とか言えるじゃない。そうやってメタレベルで声をかけてあげることで、絶望的な現状から逃れられる。おれは今の世界に本当に絶望してるんだけど、だからこそいっそうユーモアが必要だと思ってるんだよ」
大北「ぼくが今日ユーモアと言ってるのは『ヒトはなぜ笑うのか』に書かれているもので、一般的なユーモアのイメージとちょっと違うのかも。「エラーと報酬」で説明できるのはユーモアといってももっと「くだらなさ」に近いものかなと」
いとう「そうだね。だからギャグ的なものなんだと思うんだよ。ユーモアは、人間の尊厳に関わるものなのかもしれない。「そんなことを言える人間ってすごいな」っていう。若いときはユーモアってなんかかっこ悪くて嫌だったんだけど、最近はユーモアに助けられてることを感じるよね」
恐山「六本木の美術館にボルタンスキー(クリスチャン・ボルタンスキー。フランスの現代アーティスト)の展示を観に行ったときに、仮面をかぶった男が女の人形をひたすら舐め続けるような難解な映像が延々と流れてたんです。私含めてみんな神妙な顔でそれを観てたんですけど、後ろに座ってた若いカップルの男性が女性に向かって「……すごいなめてるね」って小声で言ってて。それが映像よりはるかに面白かったんですね(笑)。その場にいたみんなが「確かに、すごくなめてるな」と思ったはずなんです(笑)」
大北「(笑)」
いとう「的確な説明だったんだな(笑)」
恐山「あれはユーモアだったと思うんですよ。人間の良さを感じました」
いとう「きっとその人は「面白くないな」と思ってたんだろうね。でも、そうは言わなかったんだよ」
大北「みんなが思ってることを言い当てるってすごく面白いですよね」
いとう「面白いんだよ!ノイズを整理してるってことだから。つまりツッコミが作る笑いだよね。より的確なことを適切なリズムで言える人が、ツッコミとして素晴らしい」
大北「ツッコミというのは、エラーを示す役割なんですかね?」
いとう「大北の考え方で言えば、みんなが気付く前にちょっと違った言い方で「ここがエラーだよ」って言ってあげるっていうのがツッコミだろうね」
大北「「私はそうは思いません」って思われるリスクもありますよね」
いとう「そうなんだよ。だからさっきの「すごいなめてるね」は敵を作らない、好感が持てるいいツッコミだよ」
恐山「妙に感心した感じで言ってましたから(笑)」
いとう「言ってる内容は批評的なんだけど、言い方が優しいんだよな(笑)」
大北「「すごいなめてて気持ち悪いね」だとダメですもんね」
いとう「それじゃ深くは笑えない」
恐山「邪気がなかったですから」
大北「「邪気がない」ってコメディにおいて本当に重要。「裏がない」状態が一番面白いと思ってて。「エラーと報酬」で考えると、「裏があるんじゃないか?」と疑っちゃうとそのエラーを素直に修復できなくなっちゃうんだと思うんです」
裏があって笑える人としてきたろうさんがいとうせいこう著『今夜、笑いの~』では紹介されています
いとう「そうね。裏があると、解釈がいろいろできるようになるから、少なくとも集団を相手にする笑いとしては弱くなる。DVDで1人で観ることが前提ならそれでもいいかもしれないけど、舞台みたいに集団を目の前にしてやるなら、結果が常に出るから。何人かが笑ったとしても、大半が笑ってないと「滑った」という認識になる。これが舞台で一番怖いんだよ。3回くらい滑ったら客席はもう戻ってこない。信頼感がなくなるんだろうね」
大北「「滑った」問題、わかります。誰も笑ってなくて滑ったなと思ったら、「めちゃくちゃ面白かった」って感想が書かれてることもあります」
いとう「たださっきも言ったけど、笑いは一つの現象じゃないから。一切笑わなかったけど、脳の中では「これは面白い」って興奮してることはあるよ」
演劇の笑いってなんなんだろう
いとう「YouTubeとかで笑いを観ることが多いと思うんだけど、そうなると長くても7分くらいのサイズで考えちゃうじゃないですか。でも演劇だと、ワンシーンは5分かもしれないけど、実は抱えてる問題の文脈がその前後にすごく長くあるわけじゃない。それを背負ってるから面白いというのはあるよね。そういうロングスパンのお笑いをやれる構造は、やっぱり演劇なんだよね。
あとは、ムードだけで面白いっていう。とにかくおかしなムードが1時間半続くのを体験すると、笑いを観る質が変わってくる」
大北「それは本当に大きいですよね」
いとう「80年代以降、笑いの要素が入らない演劇はほとんどなくなったから。基本的に、コメディのシーンがあるっていうことが重要なんだよね」
突然ですがここで美味しんぼの味勝負でずっとなんか食ってる人をご覧ください
大北「恐山はWeb上で面白いことをやっていて、直接客前に出るわけではないけど、その意識に違いはあるんだろうか」
恐山「私の記事は9割がスマホで読まれてるんですけど、スマホでスクロールして、読み終わったらTwitterのタイムラインに戻っていくみたいな動きを前提にしてるんですね。なので、字と写真のコンテンツでも静的だとは思ってなくて、やっぱりリズムとか生理的なものを考えて書くようにはしてます」
大北「徐々にYouTubeでの活動も増えてるよね?」
恐山「そもそも会社員なんで、明日のアーと同じように役者でも芸人でもない人がYouTubeでお笑いやってる感じで。「お笑い」を名乗るのは気が引けるし、かといって直球のYouTuberも向いてないというか、そのひねくれ方が逆にウケてるのかなと思います。YouTuberはよくドッキリ企画やるんですけど、うちはやらないんですよ。人に驚かされるのが嫌なので(笑)」
大北「そういう現代的な空気感があそこにありますよね」
恐山「コメント欄見てても、繊細な人が増えてきたと思います。「フリでも人が怒られてるのは見たくない」とか。その感覚に全部迎合しようとは思わないですけど」
大北「特殊なフィールドですよね。劇場とはやっぱり違う。媒体が変わることでいえば、演劇は映像配信が増えて、便利なんだけどげんなりしてる人もいる印象です」
いとう「見慣れちゃったんだろうね。それに、やっぱり演劇をカメラ割りするのはほとんど不可能なんだよ。実際に劇場で観ると、絶対的に目線が自由だから。こっちでも何かやってて、あっちでもやってる、それを自分で目線を知恵の輪やってるみたいに動かして観るのが面白いんだよね。セリフを喋ってる人だけ見てればいいっていうことじゃないんだよ」
大北「お客さんはいろんなところ見てますもんね」
いとう「萩本欽一さんがテレビのカメラ割りを作ったと言われてるんだけど、コントを撮るときに、カメラマンはガラガラと戸を開けて入ってきた人を即アップにしちゃう。「それじゃダメ。入ってこられた方のリアクションを撮って」ってダメ出ししたらしいんだけど、それが絶対正しいよね。それ以上はないんじゃないかと思う。
もし萩本さんが舞台をカメラ割りしたらどうなるのかなっていうのは考えるし、おれだったらどうするかというのも考えるべきなのかも。
YouTubeはYouTubeで違う撮り方、割り方があるだろうから、恐山が考えていったらいいんじゃない?」
大北「次世代の欽ちゃん(笑)」
恐山「ええっ! 大役すぎますよ(笑)。そういえば、前にビーナスフォートに作られた2階建ての巨大な空間でやっている演劇を観にいったんです。その空間のいろんなところで芝居が行われていて、観客は自由に移動しながら観ることができるんです。これは自由な目線の移動をさらに推し進めたやり方ですよね」
いとう「そういうことだね」
恐山「例えば大北さんがそういう場所だったらどういうことをするのか気になります」
いとう「大北が何か面白いことやるんだったらぜひ出してほしいと思ってるんだよ。今まで言わなかったけど(笑)」
大北「そりゃそりゃ恐れ多いんですけど、機会を作ってやりたいですね」
いとう「大北とかテニスコートとかと、コントのネタ作りをリモートで公開するっていうのを2,3回やったんだけど、あれもちゃんと仕上げてやりたいよね」
大北「あれも、ぜひ続けたいですね。僕らあんまり基本的なことわからないままやってるんで、せいこうさんに聞きたいことはまだまだあるんです。暗転のタイミングとか、幕のこととか、今日まで意識してなかったから(笑)」