表紙イラスト:クリハラタカシ 文中イラスト:大北栄人
ここは笑いをことばにする連載です。私はアー(明日のアー)というコントの公演をやってテレビにコメディの先生として出たりもした大北栄人といいます。
自分のやっているアーのことを「ナンセンスなコントをやっています」と自ら紹介することがあります。ナンセンスを目指してるわけではないんですけど、世の中の「ナンセンス」と呼ばれてるものに近しい気がするからそう説明してます。この「ナンセンス」って何なのかを一回考えてみたいんです。
ナンセンスとはなにか?
広告クリエイターの方に「今は不景気だからナンセンスは流行らないんですよね。不景気はあるあるが流行ります」と聞いたことがあります。当たり前のように言ってたので、業界でまことしやかに著聞されてるんでしょう。でもそれってなんなんでしょうね?
ナンセンスってなんでしょう? 意味ねー、ってことですよね。
辞書をあたりましょう。「ナンセンス」は日本語だと「意味がない/ばかげた」英語では「価値がない(真実ではない)/意味がない」という意味だそう。これに加えて日本語には「つまらない」という意味もあるようです。日本では嫌われてる雰囲気たっぷりです。
一方、現代日本のコンテンツで「ナンセンス」と呼ばれる実態はどんな感じでしょうか。大体「シュールでナンセンスな」と「シュール」がくっついてくる印象です。そんなときに使われてる「ナンセンス」はやっぱり「意味がない」なんでしょうけども、より厳密に言うと「(ここにある)意味がない」というのが近く「目的や効果がない」に近いのではないでしょうか。
意味がないというより唐突だ
物語に限らず、コンテンツとして人に見せるためのものにはなんでも意味があります。物語内で壁に銃がかけられていればそれはどこかで撃たれることになります。物語上、存在する意味において「ナンセンス」と使われている気がしてならないんです。
「なんなのこれ? なんでこんなところにあるの?」とみんなが思うようなもの。こういう状況自体よくありますよね。
教卓に大根がドーン置いてあって「なんで?」って。みんなに疑問符が浮かびます。たいてい「次の生物の授業で使うらしいよ」と誰かが理由を言って、ここにある意味がわかってスッキリします。
でもその意味がわからないとずっとナンセンスとして存在します。意味がわからなくて、価値もなくて、理解に苦しむし、日本語だと「つまらない」と嫌われるようなもの。なんでこんなことが起こるんでしょう。それは「文脈がない」からとも言えませんか? あまりに「唐突」ですよね。
なんで急に文脈の話を? とお思いでしょうが、私の基本的なユーモアの考え方をまた述べさせてください。
この期待との落差が喜びに変わるというのが前々回の話
まず文脈がある。上司が「今年の業績はよかったし君たちは頑張った」という話をしている。文脈に従って「ボーナスが来るぞ」という期待があったのに実際には「棒にナス」が渡される。その価値の低さに青ざめますが、上司は笑顔でいる。なんだ冗談だ、とわかった瞬間に喜びがやってくる。これがユーモアでした。
この「ボーナス」が「棒にナス」になった冗談はダジャレと呼ばれます。音という共通項は文脈の一つです。「棒にきゅうり」よりもっと「ボーナス」に近くなりますよね。文脈が強くなる。「給料袋に葉っぱが入ったもの」も冗談としてありそう。今度は見た目の共通項があります。
この共通項、文脈をなくしたものがナンセンスです。たとえば「ボーナスが来るぞ」と思ったら「ナイジェリアの大統領」が来たら文脈がないですよね。「イカの煮物」でもなんでもいいですが。一般的な認識だとこういうものが「ナンセンス」として扱われ、しばしば嫌われています。
日本において「ナンセンス」とは「シュールでナンセンス」であり「文脈ない」の意味なんじゃないでしょうか?
ナンセンスには実は文脈がある
でもね、文脈に頼らないということはどういう文脈でも成立するということでもあります。トランプでいう「ジョーカー」や遊びの「フルーツバスケット!」みたいなどんなときでも成立するオールマイティーカード。そうい使いやすい特性もあるんですけど、でもそんな「文脈の断ち切れ」を目指したナンセンスの一派が状況を悪くさせたと思うんです。
私はナンセンスを目指してはいませんけど(言うなればユーモア派ですよ)端くれとしてえらそうなことをちょっと言わせてください。今、実際にナンセンスなコンテンツとされているのは、「一見、文脈がないように見えるもの」です。これは90年代辺りに「ほんとに共通項がない冗談」がナンセンスとして幅を利かせて、それで嫌われたようにも思うんですよね。「シュールでナンセンスなコントで若者に人気」と評されるようなものがこれに当たります。でも優れたナンセンスにはダジャレでいう音の共通項のような、目にも見えなければ言語化もできない文脈があります。
鼻は鼻でなければならない
ロシアの文豪ゴーゴリの小説に『鼻』というものがあります。ある日、自分の鼻がなくなってしまって、どうしようと思って外を歩いてたら、自分の鼻が歩いていたのを見つける、という話です。「意味わからん」ですよね。
当時の批評家もそう思ったようで、これは風刺じゃないか、ロシア政治のむちゃくちゃさを描いてるんじゃないか、とか言われてたそうです。意味ですよね。日本の小説家の後藤明生という人がこのゴーゴリフリークで、その辺のことをエッセイを書いていてそれで知ったんですが、この「風刺ではないか」に対して後藤明生は異を唱えます。そんな単純なものじゃなくてもっと文学的に大事ななにかだろうと。
実際に『鼻』読むと笑いますよ。鼻は高級官僚の服を着てて、自分は下っ端の小役人なんです。なのでとっても気遣いながら「あのう…元いた場所にいた方がいいですよ」とか言うんですよ。もうコントなんです。
私には後藤が、鼻に別の意味はない、鼻は鼻なんだと言ってるように思えてなりません。後藤はナンセンスギャグとして楽しんだのではないでしょうか。
芸術の唐突さを一回楽しむ
このナンセンスギャグを好む一派が昔からいるように思えてならないんです。同じロシア文学のドストエフスキーは「我々はみんなゴーゴリの『外套』から生まれたようなものだ」と言ってます。
そうなんですよ、ロシア文学にはこれギャグでしょうという瞬間がしばしばあります。ドストエフスキーにもそうだし、さっきの「我々はみんな」に含まれるチェーホフの小説もそうです。
チェーホフの短編小説『イヌォーイチ』に、おっさんが若い女の子にどうかデートしてくださいとお願いしたところ「じゃあ深夜2時に多摩霊園で」みたいなこと言われて、素直に多摩霊園に行く話があります。当然騙されててすっぽかされるわけなんですけど、当のおっさんは、深夜2時の多摩霊園でその景色の美しさに人生そのものが肯定されるかのような感動をします。なんでこんなときに。この状況で情景に感動する理由がありません。たとえ何か意味があるにしても、その表層はナンセンスギャグとして楽しめます。
情報統制が強く敷かれている国では隠喩として政治的な表現をすることもよくあるでしょう。『鼻』についても「本当は意味がある」のかもしれません。でもそれは表層のナンセンス的なおもしろさと矛盾しません。「鼻だおもしろいなゲラゲラ」「へえ、これ政治的な風刺なのか、なるほど」この2つの視点は同居できます。ついでに白状しますが、私は現代アートを「なんでこんなびしゃびしゃ(笑)」と一回ナンセンスギャグとして表層を楽しんでからちゃんと見ようとしてます。芸術つるセコですね。
ナンセンスにも度合いがある?
さて、ナンセンスと評判だったナイロン100℃『江戸時代の思い出』という舞台がこの夏ありまして、顔がお尻になっている「ケツ侍」というのが登場してました。『おしりたんてい』のような顔がお尻になった侍です。
このケツ侍は本当にナンセンスでしょうか? 鼻と比べると少し薄れませんでしょうか。というのはお尻というのは子供たちが大好きな幼児語でもあり、「汚い」「下ネタ」といった要素があります。舞台上に存在する理由が生まれているんですよね。
もちろんそれ自体はギャグとして立派に成立しています。「ナンセンス」と評価してる周りに誤解がありそうです。「ナイジェリアの大統領侍」では文脈なさすぎだけど、「ケツ侍」ではちょっと文脈が強い。ナンセンスと目される『鼻』はこの間に位置して、そこにはなにか理由があるんです。この理由とはなんでしょうか。
バケツのバケツ性
名コピーライターの川崎徹さんはかつてバケツを置く演出を考えたところ「モップだとダメですか?」と質問があって「バケツでないとダメ」と答えたそうです。これってナンセンスの世界の本質だと思うんです。
なぜバケツでないとダメなのか。それはバケツのバケツ性、物性とも言えるような、世界におけるバケツの在り方を使おうとしているからではないでしょうか。そして決してそれは「言語化できないなにか」であってそれが文脈として走る。それがナンセンスというものの正体であるような気がしてならないんです。
「まだ動く」
最近、歌人の方に短歌のことをうかがう機会がありました。そのときに印象的だった概念に「動く」というものがあります。歌において、選択された言葉がぴったりでなかった場合、「ここはまだ動く」という風に否定されるそうです。バケツがモップでもよさそうだったとき、それは「動く」であるんですよね。でもバケツはバケツでなければならないし、鼻は鼻でないとならない。動かない。ぴったりな何かは言語化されない文脈でもありそう。
ナンセンスなギャグマンガというのは歴史があります。吉田戦車がいて、和田ラジオがいて…とその系譜に近年SNSで活動してるおほしんたろうさんという芸人・マンガ家がいます。おほさんはやはりナンセンスな投稿コーナーとして有名だったファミ通町内会において「塩味電気」という名前の常連投稿者でもあったそうです。(参考記事)
私はSNSのおほさんのマンガに近しいものを感じていて、おほ原作で動画を作ったところやはりぴったりだったので、10月24日から始まる次の明日のアーの公演でもおほさんに脚本協力として関わってもらうことにしたんです。具体的にはお互い題材を出し合って、ミーティングで話し合います。そこでよさそうなものを選んで私が脚本にしていってます。
おほさんのSNSより
その会議で「バネ」という言葉が出たときに「バネいいですよね」とおほさんが言いました。「バネ、昔からなんか好きなんですよね」と。私もそうでした。こういったナンセンスの脚本を共同作業で作ったことがなかったものですから、同じ感覚を持った人がいることに驚きました。
なんでもいいと思われがちなナンセンスですが、物自体の物性ともいうべき存在感に左右されるんです。「バネ」も吉田戦車『ぷりぷり県』には「ばねエビ」という体の一部がバネ状のエビが名産品として出てきます。バネというもののよさとはなんでしょうか。単純な機構です、どこにでもありふれています、唯一無二の形をしています、短く簡単な言葉です。
物性というよりは未解明のなにか?
他にどんな言葉がナンセンスとして扱われそうでしょうか。バネの他にも「バケツ」がそうでしょう。他に私が思い当たるものとして「弁当」や「ブーメラン」というものがあります。なにかおもしろいことを考えないといけないときによく出てくる言葉です。ありふれていて、独特で、唯一無二の機構をともなっています。
そしてどれも「ば行」の音で始まっています。これは一体なんでしょうか? なぜ「ばびぶべぼ」のものにナンセンス的なおもしろさを含むんでしょうか。これは考えても答えが出なさそうですが、ウルトラマンに出てくる怪獣は「がぎぐげご」が多いというのとなにか関連性がありそうです。「ばか」という言葉も「ば行」ですしね。
そんな話に答えが見つかるとは思えませんが、先程の川崎徹さんの話、出典が不明だったんですが検索したらCM自体見つかりました。大日本除虫菊『キンチョール』のCM(1983年)でした。
横山やすしと郷ひろみがバケツに向かってキンチョールの宣伝文句を言えと迫ります。予想以上に純然たるナンセンスなCMでした。すごい。こんなものがメジャー広告として流れてた時代なんですね。これが好景気というものなんでしょうか。社会は大きく変わりました。
インタビューも見つかりました。川崎は「バケツのあのビジュアルと、あの3音の響きが僕はとてもいいと思った。なんでか説明つかないんですけど」と述べてます。(インタビュー記事)
なんと…! やはり川崎は語感に言及しています。そして説明がつかないとも言ってます。言語化できないなにか、ナンセンスの正体とは「語感」やその周りにある何か説、うっかり真実味を帯びてきてしまいました。
ナンセンス・イズ・デッド!
このCMやファミ通町内会のことを調べていると、80年代90年代ってほんとにナンセンスが元気だったのだなと痛感しました。「景気がいいとナンセンスが流行るが、不景気だとあるあるが流行る」と広告クリエイターの方に聞いたことがあります。当時のバブル景気に比べれば現在は不景気だからあるある流行中なんだそう。
それはナンセンスが「そこにある意味がない」「無益なもの」であることは一つありそうですよね。他にも人間は不可解なものを見ると意味を求めます。スッキリしたくなります。実はそれが私達の次の公演の『整理と整頓と』のメインテーマにほかならないのですが、次回にこの話をさせてください。
私は、ユーモアについて、大きなことがわかったんです。それは生きることに他ならないと。次は全ての笑いを愛する人に向けた公演であり、記事もそうなります。