新国立劇場『ピローマン』公演レポート

2024.10.18

左から)成河、木村了
舞台写真撮影/宮川舞子

『スリー・ビルボード』、『イニシェリン島の精霊』など近年、映画界において、新作が公開されるたびに賞レースを賑わせるイギリス出身の鬼才マーティン・マクドナー。演劇と映画という2つのジャンルでその才能を発揮し続ける彼の代表的な戯曲のひとつであり、2003年に初演され、ローレンス・オリヴィエ賞、ニューヨーク演劇批評家協会賞などに輝いた傑作が『ピローマン』である。小川絵梨子の演出・翻訳による本作の上演が新国立劇場にて10月8日(火)より始まった。

客席は舞台を挟んで対面式に配置されており、舞台中央には取調室の机とイスが置かれ、端には棚やドア、何に使うのかよくわからない機械なども見える(もちろん、この機械も劇中でしっかりと使われる)。さらに舞台の一角は、小さな部屋のようになっており、ベッドや人形のようなものが置かれている。場面によって、布で覆われたテントのような装置も登場し、主人公の語る過去の住居や、彼の口から語られる“お話”の世界となる。

物語の舞台はある架空の独裁国家。作家のカトゥリアン(成河)は、ある事件の容疑者として拘束され、取調室で刑事のトゥポルスキ(斉藤直樹)とアリエル(松田慎也)の取り調べを受ける。最近、ニュースにもなっている子どもを対象にした連続殺人事件の手口が、カトゥリアンの書いた物語の内容と酷似しているというのだ。全く身に覚えがないカトゥリアンだが、刑事たちは、カトゥリアンの兄で「知能に障がいのある」ミハエル(木村了)も連行しており、しかもミハエルが一連の犯行を自白したと伝える。カトゥリアンは、刑事が兄を拷問し、自白を強要したのではないかと疑う。このまま有罪が確定すれば即日の死刑は免れないが…。

「『ピローマン』は物語についての物語」――演出の小川は、初日の幕開けに際してのコメントでそう述べており、これまでの取材などでもたびたび、そのことに言及しているが、まさに第一幕の取り調べのシーンから一貫して、本作では“物語を語ること”、“物語が存在する意義”が問われ続ける。

第一幕の取り調べでは、理知的でクールな“良い刑事”のトゥポルスキと暴力的で直情型の“悪い刑事”のアリエルという、いかにも刑事コンビといった感じの2人が、理不尽に無慈悲にじわじわとカトゥリアンを追い詰めていくが、2人はカトゥリアンがこれまで書いてきた物語について、その示唆するところやモチーフなどについて、あれやこれやと難癖をつける(その執拗な追及から、カトゥリアンは当初、自身の著作が独裁国家の言論・思想統制に引っ掛かり、連行されたのではないかと考えるほど)。

こうした追及に対し、カトゥリアンは、作家の書いた物語をどう解釈し、受け止めるかは読者に委ねられていると説明し、ボロボロになりながらも「語り手の唯一の義務は、物語を語ることだ」と力強く語る。

その言葉の通り、その後もカトゥリアンは語り手として、物語を語ることを決してやめない。続く第二場では、カトゥリアンの口から、幼少期から少年時代にかけての“過去の話”が物語られ、さらに第二幕では、カトゥリアンは兄のミハエルと再会し、ここでも彼は、ミハエルにせがまれるまま、自身が書いたいくつかの物語を読み聞かせる。そこで、カトゥリアンはミハエルの口から衝撃的な真実を聞かされ、物語はさらに思わぬ方向へと展開していくのだが…。

カトゥリアンの口から語られる物語は、見る者の心をグッと惹きつける不思議な引力(魔力?)に満ちあふれている。父親に虐待されている少女とリンゴの小人の物語に、監獄に投獄され、さらし者にされた男の話、ある有名な寓話の前日譚、本作のタイトルにもなっている枕でできた“ピローマン”の物語に、他の豚と異なり緑色に輝く体を持つ子豚のお話、自らをキリストの再臨であると信じる少女の物語…。その多くが陰惨なトーンで、暴力的で、子どもが傷ついたり、悲惨な最期を迎えるようなものが多く、聴きながら何とも言えない嫌な気分にさせられるのだが、それでも「それで?どうなるの?」と思わず聴き入ってしまうし、なぜか随所で思わず笑ってしまうコミカルさにもあふれているのだ。

そうさせるのは、マクドナーの戯曲そのものの面白さ、そして自身11年ぶりに本作を演出するにあたって改めて翻訳を見直したという小川の演出力、ワードセンスの素晴らしさはもちろんのこと、なんといっても成河の魅力的な“語り”の力によるところが大きい。

休憩をはさんで約2時間50分、カトゥリアンはほぼ出ずっぱりでしゃべりっぱなし。シリアスとコミカルの硬軟を交え、舞台という装置の力と共演者の協力を得つつも、上記の劇中で語られる多くの物語のほとんどを一人で語る姿は凄まじい。そんな、成河によるカトゥリアンから見えてくるのは、語って、語って、語り尽くし、自らの作品を何としてでも世に残そうとする語り手の強烈な執念。「言論の自由」や「思想の自由」といった公共の権利という次元ではなく、命よりも作品を優先しようとする半ばエゴにも近いような作家の業を感じさせる。

二転、三転する物語が「ジェットコースターのよう」と形容されることが多いマクドナー作品だが、本作も然り。降りて(堕ちて?)、昇って…という急展開の連続の根幹にあるのは、間違いなくカトゥリアンの語りであり、小川が成河という俳優を過去のマクドナー作品(『スポケーンの左手』)や『タージマハルの衛兵』といった作品で起用し続けてきた理由が改めてよくわかる。

他の共演陣も同様。“語る”ことに長けたメンバーが顔をそろえており、本作を上演するにあたって、小川がこの俳優陣に対して絶大な信頼を置いていることがよくわかる。物語を語るのは作家だけではない。カトゥリアン以外の登場人物たちもまた、様々な形で自身の物語を表現する。斉藤と松田が演じる残酷な刑事2人でさえも、驚くほど豊かな物語を口にし、人間の多面性、奥深さを見せつけ(物語が進むにつれて、2人の印象が変化していくところも大きな見どころ!)、大滝寛と那須佐代子はカトゥリアンとミハエルの両親をはじめ、劇中の物語の様々な登場人物たちを巧みに演じ分け、観る者を笑いと恐怖にいざなう。

そして、木村了が演じるミハエル。無邪気に世界で唯一愛する存在である弟に物語をせがむ姿は天使のようですらあり(しかし、彼がせがむ物語は、陰惨な結末のものばかり!)、そんな無邪気な笑顔と、その裏にある彼という人間を生み出した凄惨な過去とのギャップに戦慄させられる…。成河と木村の兄弟愛にあふれた掛け合いは必見!

観る者が痛みを感じるような描写もマクドナー作品の特徴であり、本作もまたそうしたシーンが数多く登場する。本作の公式サイトにはフラッシュバックやショックにつながる恐れのある作品であることを示す「トリガーアラート」もあり、観劇には注意が必要(余談だが、劇中で“指を切り落とす“という恐ろしい描写が出てくるが、映画『イニシェリン島の精霊』でも指を切り落とすという描写があり、『スリー・ビルボード』でも手に穴をあけるというシーンがある。作家・マクドナーにとって、手や指に危害を加えるということこそ、最大限の苦痛や罰なのだろうか…?)。

しかし、ここで語られる凄惨で痛みを伴う物語の先にあるのは、決して絶望ではない。語ることが窮屈になりかけている現代において、それでも物語を語り、伝えることの大切さ――最高の俳優たちの語りに耳を傾けつつ、希望の光を感じてほしい。

文/黒豆直樹
舞台写真撮影/宮川舞子