【連載】『わかる!ユーモア』/第六回『私たちはなぜ笑ってるのか、ユーモアの根源を考える』大北栄人(アー)

2024.11.01

表紙イラスト:クリハラタカシ 文中イラスト:大北栄人

 

ここは笑いをことばにする連載です。私はアー(明日のアー)というコントの公演をやってテレビにコメディの先生として出たりもした大北栄人といいます。

 

ここでは「ユーモア」という考え方を示してきました。身体の笑いとは別の頭ではユーモアが起こっている。それは一般的に普及した「ユーモア」という言葉ではなく、英語本来の意味に近い「くだらないなあ」という喜びです。

 

「一体何を見せられてるんだ?」

 

前回は特別編としてキングオブコントの回を取り扱いました。ラブレターズのお二方がやろうとしていたこと、それは足し算でどんどん変なことを追加していくことであって、最終的なてんやわんや的状況を「カオス」としました。混沌ですね。

 

「これは今、何を見せられているんだ」というツッコミワードがちょっと流行りましたが、そういった現実から遠く離れた「変すぎる」もの。それを便宜上混沌、カオスと呼んでます。

 

こうしたカオスはラブレターズのように足し算で作っていくことが多そうです。Aの冗談があって、Bの冗談があって、Cの……というようにどんどん変になっていくもの。これをカオスとか混沌とか呼んだりしていました。

 

現実から遠く離れたカオスという地点はやみつきになるような強烈な快楽があります。ユーモアやお笑いを好む方にはおなじみのものではないでしょうか。現実から離れてただ笑える場所なんですから、楽園みたいなものです。

 

カオスも秩序もおもしろい

 

ところで私はあるとき気付いたんです。それは「混沌とするときもおもしろいが、混沌から秩序が生まれてもおもしろい」ということです。

 

こんなイメージです。学校のクラスがある。出席番号1番、相川ナオキです! 出席番号2番、井口しょうこです! …と秩序だって発表していって、だんだん「織田信長です!」とか名前が変になってくる。名前は変になりつづけ、だんだん関係ないことを言い始め、奇声を発し、うろつき始めて学級崩壊が起こる。だけどそのままじっと見てると全員の動きが揃ってきて、『変なおじさん』を踊っている。なんで志村けんの??

 

カオスになった後に秩序が生まれます。カオスもおもしろいし、それが秩序になってきてもおもしろい。これってなんなんでしょうか?

こうした秩序/混沌と笑いが関係しているという疑問がずっとあったんです。

 

ユーモアはわかる遊びだ

 

一方、関係のないところでもう一つの実感がありました。それは「ユーモアはわかる遊びだ」ということです。

 

なにか情報が入るときにエラーがあって、発見して、喜びがありますよね。そもそもがなにか新しい情報が入ったときの仕組みなんですよね。新しい情報が入ってくるとまずそれを「わかろう」としますよね。なので「わかる」にまつわる遊びであると。

 

比喩

 

「わかる」についてちょっと考えたいのが比喩について。

 

「あなたは月のようにきれいだ」という言い方ってありますよね。例えて言うこと、比喩です。比喩ってわかりやすくするためにあるものだそうで、たしかにあなたの美しさがよくわかりますよね。

 

でもそれと同時にここには美のような感覚があります。詩的と言ってもいいんじゃないでしょうか(詩を大真面目に考えたことがないので自信はないですが)。

なんでここに美のような感覚があるんでしょうか? 比喩はわかるためのものなのに、美がある。なんで? この答えはまだ出てないんですが、ユーモアもわかる行為であって、美があります。「くだらないなあ」とうっとりするような時間は「美」に近いものじゃないでしょうか。

 

京大教育学部の院生の方の研究がネット上にありました。

世界最短の詩、俳句を通して、美しさの多様性と核心を解き明かしたい

これによると俳句の美はあいまいなものから情景が立ち上がったときにやってくるのでは? というものです。もしかしたら「わかる」というのは「美」のような感覚があるんじゃないでしょうか。

 

「比喩」「わかる」「ユーモア」「美」なんだかここは近そうだなという感覚があったんです。

 

ユーモアについても私は「ああ、いいなあ」という感覚を持っていました。額に入れて飾りたくなるような素敵なユーモアというものが存在します。たとえばシティボーイズのコントには「ピアノの粉末」というものが存在します。仲人の人が家に飾ってたものが「ピアノの粉末」です。あの大事なピアノを粉末にしている。「ああ、いいなあ」という美のようなものを感じています。

 

ここになにか存在的な近さを感じていたんです。

 

なぜ人はわかりたいのだろう?

 

どうやら「わかる」と「ユーモア」と「美」は近いところにあるみたいだ。じゃあなんでそもそも人はわかりたいのだろう? 「わかる」がどこからやってくるのかがわかれば、きっとユーモア発生の鍵が見つかるんじゃないかと思い、「わかる」について調べてみました。

 

書籍をあたって、書かれていたのは「『わかる』とはエントロピーを減少させること」そして「生物はエントロピーを減少させたいもの」と。エントロピー!? エントロピーってなんでしょう!? たしか理科系の授業でなにか出てきたような……

 

エントロピーの増減によるもの

 

どうやらエントロピーはむちゃくちゃさ具合のこと。「わかる」は頭の中を整理してスッキリさせるので「エントロピーが低い」と言えるんだそう。なるほど。ユーモアは「わかる」遊びだから、エントロピーを減少させるときに喜びを得てるんですね。

 

そして超重要なのが、エントロピーって世界はどんどんむちゃくちゃにしていきたいもので、対して生物はどんどん安定していきたいものなんですって。体温とか36℃でないと死んでしまうじゃないですか。いろんなことがわかってないと暮らしにくくてしょうがないじゃないですか。宇宙や世界自体は混沌へ向かって、でもそこで生きる私達生物は安定へ向かいたい。そうした相反する方向に2つが走ってるんです。

 

ユーモアや笑いが生まれているのってこのエントロピーの増減のところに根ざしているんじゃないでしょうか。

 

わかる!ユーモア

 

ユーモアは新しく入ってきた情報が期待を下回ったときの喜びです。なにか新しい情報が入ると人間はわかろうとしますよね。なのでユーモアは「わかる」過程で生まれるものです。新しい情報でモヤモヤっとしてエントロピーが増大しますので、このエントロピーを減らしたいから。スッキリしたいから。その過程でユーモアが生まれる。

 

これがすでに知ってる情報だとわかったなら、それは「つまらない」だったり「いつもの」といった脳のフォルダに入ることでしょう。この連載では「おもしろい」という言葉はもしかしたら「新規情報の喜び」のことなんじゃないかって言いましたね。

 

新しい情報が入ってくる。「みんなにボーナスあげないとね」なんて社長さんが言ってたらそこに大きいお金がもらえる期待がありますよね。

 

でも何が起こるかわからないし、緊張します。エントロピーも増し増し。これで損をするかもしれない。ひどい目にあわされるかもしれない。そうして棒に刺さったナス。なんだこれは。とんでもない損をしたのではないか。

 

「ははは、冗談、冗談」と社長さんは笑います。なんだ冗談だったのか。私の身は安全だとわかりました。エントロピーが減少します。体は笑い始めます。まるでサウナのあとの水風呂で整うように、エントロピーの増減で笑いの身体がやってきます。脳もボーナスという期待がナスビというエラーであることがわかったことでユーモアの喜びを得ています。

 

これが「冗談」と呼ばれるものに起こってることなんではないでしょうか。

 

とするとこのエントロピーの増減というのは混沌とスッキリによるものであって、緊張と緩和ってことでいいんじゃないの? ということでもありますね。

 

でも緊張と緩和だけだとダジャレやモノマネが説明つかなかったんです。

ユーモアという考え方を使わないとダジャレやモノマネはわかりませんでした。でもそのダジャレにしたって「なんだかわからないものがダジャレだとわかった瞬間に笑う」なのでエントロピーの増減とも言えるし、それが緊張と緩和と言ってもいい……かもしれませんがちょっと曖昧ですね。

 

結局私の認識としては、体は緊張と緩和、頭はユーモア。両方ともエントロピーの増減によるもの、というような感触があります。

 

続きは劇場で

 

すべては整理と混沌によるものだ。そういう感触を経て、私たちは今回の本公演というものを行います。そこでユーモアの仕組みを洗いざらい話していって、コントを例証として実演していくという試みです。

 

そうです、この『わかる!ユーモア』という連載はこの公演のためのものだったんです。なので今回が最後になります。公演ではこのユーモアの考察の結末がありますから、ユーモアがどこから来るのかの私の考えはどうぞ公演でご確認ください。

明日のアー本公演vol.10『整理と整頓と』(公演中!~11月3日まで)

 

「コント」というと劇場に来る人を喜ばせるためにプロの芸人さんが人々のちょうどよい笑いにチューニングされてるんですが、これはユーモアのための公演なので、新規領域のユーモアを追い求めてる人向けでもあります。あらら、私は保守的なので、という方はアーのシットコムでテイストをご確認いただいてからでも遅くはありませんよ!