【連載】『わかる!ユーモア』/第三回『文脈つよつよ時代の今や「おもしろさ」は嫌われる!』大北栄人(アー)

2024.07.31

表紙イラスト:クリハラタカシ 文中イラスト:大北栄人

 
ここはかんたんにいうと笑いの言語化の連載の3回目です。興味対象がユーモアにあるライターであり、アー(明日のアー)というくだらなさの舞台を主宰している大北栄人が書いています。
 
過去2回はTikTokに縦型動画を作って、ヒットはしたけれどはたしてこれでいいのか? というところまできました。そんな中、動画の結果報告イベントに来てもらった知人に教えてもらったのは「大変です大北さん、おもしろさが今嫌われてるらしいですよ」という話。えっ!?
 

ウケてないのは体が楽だったからではないか?

 
今や一般の人もTikTokでコントをやってる時代です。私達もTikTok用に「おもしろい」と思う動画を作りました。周りの人に見せても「おもしろい」といいます。それでもそのおもしろさはなかなか伝わりません。なぜでしょうか?

TikTokの動画に出てきた年齢確認という題材でギャグの動画を作ったりしてました

 
私がまず考えたのは「身体の楽さ」でした。
 
メディアと身体の関係は、コンテンツに影響があるのではないかとweb記事を作る界隈でも話題に上がっていました。テレビよりもネットの方が読者と関係性が近いような印象を持たせるんですよ。これは単純に画面が近いからではないかと。
 
新型コロナ初年度は演劇界隈で「なぜ配信だと演劇はおもしろくないのか?」もよく考えさせられました(この答えは「自分に危害があるかもしれないくらいの距離で物語を受け取ると鬼気迫るものがあっておもしろい」でした)。
 
「この映画は家だと寝てしまうから映画館じゃないとダメ」という物言いが今年Twitter界隈で増えてませんか? あの日本映画の若き名匠濱口竜介監督も最新作のインタビューで「配信で映画を観ている間にスマホを1回も見なかったことはあったろうかと考えます」と言ってます。世界の濱口でさえそうなのか! と驚き、私は自分の怠惰な体に自信を持ちました。
 
メディアを視聴するときの身体がどうあるかはけっこう大事な話だと思うんです。
 

メディアと身体の距離や楽さはそれぞれあってコンテンツに影響がありそう

 
TikTokやショート動画は身体を楽にして見ます。PCを開くときよりだらだらしてますよね。しかも映像も短くて見るものも選んでくれます。とっても受動的でとにかく疲れないメディアなのが良いところです。仕事から帰ってきて晩ごはんを作る気力もなくお弁当で済ませたあとにぼーっとしながら見るものです。
 
TikTokの対極にあるのは崖の上に咲く一輪の花です。命をかけてとってくる美しさとは対極にあるものがこれ。その辺にあるカジュアルなおもしろさがウリです。

じゃあそんなTikTokで見るものはなんでしょうか。崖の上に咲く一輪の花とはなにかを考えたら「最も自分から遠く離れたもの」ですよね。そうです。TikTokで見るものは「自分の中にあるもの」です。
 

世の中のものを全部放り込むとTikTokの対極は崖の上の一輪の花

 
 
エンターテインメントと純文学の違いについて小説家の平野啓一郎さんは福岡伸一さんとの対談でエンタメとは「知っているもの(で知っているものを作ること)」という旨の説明をしています。(『動的平衡ダイアローグ』という本から意訳)
 
知ってることって楽しいんですよね。
 
この「知っているもの」の魅力というのもインターネットコンテンツ界隈でよく聞きました。「結局、みんな知ってるものが好きなんだよね」と。おもしろいものができたときに結果が振るわず、こう言って肩を落とすことがよくありました。
 
ここで思い出すべきことが一つありますよね。そうです、前回お伝えした「おもしろさとは新規情報の喜び」という話です。もしかしておもしろさとエンタメは逆なんでしょうか?
 

おもしろさはなぜ疲れるのだろうか

 
TikTokではみんな自分の中にあるものを消費しているのではないか? 自分の外にあるものを取りに行かないのではないか? という疑いを私は持ったわけです。それはインターネットコンテンツ界隈でよく起こってた問題です。
 

「おもしろさ」は新規情報なので外にある。取りに行くのはしんどい。知ってる感覚こそがエンタメ、楽しい。楽しさとおもしろさは別物。

 
そんな中、動画で1本ヒットが出て、こういう結果でしたよとイベントで報告したときに参加者の一人が「今おもしろさが嫌われてるらしいですよ」と言ってくれたわけです。その人もインターネットのコンテンツを作っていたお仲間でした。
 
そこにいた周りの人たちも私もそう思う私もと、粗品の言うYouTuberおもしろくない問題にしてもそう、みんなYouTubeにおもしろいものを求めてないんだと、そんなことを口にし始めました。
 
今、おもしろいものが受け入れられてないようです。それはwebの記事の世界でもひそひそと囁かれていました。ふざけたweb記事を書いてくれという発注は2010年代にはありましたけど、20年代にはほぼなくなってるんじゃないでしょうか。それはYouTubeに移ったんだろうなと考えてましたが、そのYouTubeでもおもしろさが敬遠されているようです。
 
なぜ? それは疲れるからではないでしょうか。
 
私がイメージしたのは2021年公開の映画『花束みたいな恋をした』の麦くんです。カルチャー好きだった麦くんが仕事に追われるとパズドラしかやれなくなるんです。同話題を扱った書籍『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』と同じ話ですよね。
 
おもしろいものは疲れるのかどうか。一回イメージしてみましょうか。なおここで言う「おもしろさ」とは前回紹介したような「笑える/興味深い」のそのどちらにも通じる「新規情報の喜び」という意味です。
 
「おもしろさ」のうちの「興味深い」方から考えると、疲れはすぐイメージできますよね。新しく情報が入ってくるのだから頭でまた概念を改めたり、新しく記憶したり脳が疲れそうですよね。
 
さて今度は「おもしろさ」のうちの「笑える」方でもなぜ疲れるなんてことが起こるんでしょうか? 笑って楽しいアッハッハなものって娯楽だから疲れそうにないですよね。
 
私は「笑える」の仕組みについての仮説があるのでそれに基づいて考えてみますね。※過去の記事のこれです。

 

笑いとは体のことで頭で起こってるのはユーモア

 
まず体と脳で起こってることを分けます。「笑いは体、頭はユーモア」です。
 
くすぐられて笑っているときって楽しくないですよね。うれしくもない。でも体は笑っている。「笑う」とは体の反応のことです。
 
では頭が「おもしろい」と思うことというのはどういうときでしょうか。これは「エラーを発見したときの喜び」であり、ユーモアです。「くだらないなあ(笑)」という状態です。間違いであったり価値のないことに対して脳が逆に喜ぶんです。頭と体で別のことが起こっているという話で進めます。
 
このとき「おもしろいは疲れる」というのはどういうことになるでしょうか?
 
YouTubeでおもしろいものを見るような状況として多そうなのはお笑い芸人によるコントや漫才をYouTubeで見るときです。賞レースの大会前後に話題になって見たりしますよね。このときなにが起こるのでしょうか。
 
動画の中で芸人さんの漫才が始まります。会話をしてます。何事にも文脈がありますから「次にこういう情報が入ってくるだろう」という予想であり期待がありますよね。文脈がないと笑えません。たとえば「ボーナスをあげなきゃいけないね」という話をしていたのにボケという立場の人の発言がおかしくなってきたとします。
 
ボケの人は野菜の話をし始めました。不穏な空気がただよいはじめます。棒を探し始めたりもします。ツッコミの人も怪訝な顔をしています。
 

漫才などはこういう感じの不安や緊張がある

 
見ていると不安に思います。これは間違いなんじゃないだろうかと。うっすらした不安感です。もしかしたら私の認識が間違ってるのかもしれないと。そして体は緊張をします。なにかだまされてやしないかと。固唾を飲んで見守っているかもしれません。(それが辛くなると見るのをやめてしまうでしょう)
 
これは数学の問題を「わからない」と考えている時間に似ています。
 
いやいや、これは冗談なんだと。だって私は「お笑い」のYouTubeを見てるのだから。でもなんなんだ、なにがおかしいんだ。どこが間違ってるんだ。それすらもわかりません。なにが間違ってるのかわかりたい。人はわからないことが苦しいのですから。助けてほしい。人に限らず全生物は「わかる」を目指してるんです。「わからない」世界は嫌だ、不安だ、苦しい…!!
 
「はいボーナス」とボケの人の異常さがピークに達して大きな声でナスを棒に刺したものを持ってきます。ツッコミの人がそれは間違いですよと大きな声でお知らせをします。「よかった! ツッコんでいるしやっぱりこれは冗談だったんだ!」私達はそう思います。
 
ボケの人から与えられた情報は期待を下回って無価値なものです。「くだらないなあ(笑)」と喜びがやってきます。体は緊張からの反動で笑いを引き起こします。筋肉が反応します、ひくひくと。こうして「おもしろい」が達成されました。よかったよかった。
 
そしてボケの人はまた不安な言動をし始めます、今度は給料袋が必要だと言うのに、結婚式のようなトーンで話し始めました……「もうやめてくれよ…」と思う人もいることでしょうね。
 
お笑いについて語るときに、桂枝雀は「緊張と不安」理論で説明しました。これは体についてよく当てはまります。一方、認知科学では「情報処理におけるエラー発見」理論で説明します。これは頭の分野ですね。つまりどっちもなんですよね。変なこと言われたら脳は不安になって体は緊張して、「ああ、冗談だった」と脳は喜びを得て、安堵した体は笑う。
 

脳と体は起こってることが別だが、どちらも「揺り戻し」の楽しさ

 
体の「笑い」、脳の「ユーモア」どちらも揺り戻しでありリバウンドなんです。緊張してからの安堵だったり、期待を下回ってた情報を「エラー」として脳を正常な状態に戻しますから。どちらも緊急事態に近いことですよね。そりゃ疲れるに決まってますよね。
 

おもしろさはノイズである

 
一方、前述の話題の本『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』ではまた別の説明がされています。後期資本主義の今、働きすぎてない? という本なんですが、現代の私達は「ノイズを嫌う」から本を読めないのではないかという話になっています。
 
たしかに現代の私たちはノイズを嫌います。テレビでなくインターネットを見るようになっているのはノイズを嫌って効率よく自分に合った情報を手に入れようとしているからですよね。テレビコマーシャルもそう、高齢者向けに作られた歌番組もそう、自分に向けられたもの以外のものを見ないといけません。
 
長らくふざけたインターネットコンテンツを作ってきた身としてもそんな実感があります。くだらないことを折り込むと一般読者に嫌われる実感があります(コア読者は逆に好まれます)。
 
なにか欲しい情報があるとき、余計なおもしろさはノイズになりそう。いやいや、YouTuberたちが作るYouTube動画に欲しい情報があるわけではなさそうに見えますね。それでもそこには情報ではなくなにか目的が、例えば安らぎを求めてるのではないでしょうか。
 
現代にちょっとした誤解があります。「おもしろさ」や「笑える」ものは「ふざけていて」「楽しく」「ゆるく」「楽に」あるものだという誤解です。後半にいくに従って違ってきます。「おもしろさ」ってそんなに「ゆるい」ものではありません。
 
YouTuberたちのYouTubeは仕事に疲れた麦くんが、これなら見れるとばかりに安らぎを求めて見ている場所だとしたらそうした「疲れる」おもしろさはノイズになりそうです。
 

文脈が強い時代に入っているのでは

 
ひょっとしたらおもしろさはもうこの世界からなくなってしまうのでしょうか。効率を求めて人間は脳と指一本だけになっていくのだとしたら、おもしろはけっこう早めから「ごめん、もうムリ」と家に帰らされてそうですよね。
 
何言ってんですか、今お笑いはめちゃくちゃ人気じゃないですか、というご意見もわかります。フリーミアムだし、吉本が築いた賞レースシステムがうまく機能してるし才気あふれる若者たちが芸人を目指しています。お笑いは今や最高潮の盛り上がり。お笑いはもちろん「おもしろい」を見る場所だし、お笑いにおいては「おもしろさ」以外がノイズです。
 
お笑いを見ているときに、先ほどのボーナスと棒茄子のエラーは適切な文脈の中に現れることになります。この「文脈」の力全般が強まっているとも言えるのではないでしょうか。
 
グレーゾーンを許さず、明文化を好み、カテゴライズされた場所の越境を好まない、そんな社会の一面と似ている部分もあります。そこに共通するのは「楽だ」という感覚です。
 
そうして私は一回、TikTokの動画を作るのをやめました。「おもしろさ」を「TikTokウケ」でくるんだ糖衣型の動画はやはり意味がない。「TikTokのおもしろい動画がこれから始まりますよ」という文脈を持ったものにしないといけないんです。
 
さあ、そんな今までの話が正しいなら、私達は世の中にある文脈の力を信じて、お笑いLIVEに出て、目利きのプロデューサーにフックアップされるのを待つのが一番よさそうです。いや、それは私達の目の前を新幹線のように通過していったダウ90000に任せて応援しつつ、次なる一手を考えました。
 
文脈を超えるヒントは愛にあるなと思ったんです。それはヘボコンというロボットのイベントについて考えてたことにも由来するんですが。惜しむらくはweb記事一回で読める文字量です。続きます…!

そしてアーは10月26日から11月3日までいよいよ今年の公演をやります。目の前でくだらないことが延々80分繰り広げられることはあなたの人生でそうありません。一度体験していただくことをおすすめします。