表紙イラスト:クリハラタカシ 文中イラスト:大北栄人
ここは笑いをことばにする連載です。私はアー(明日のアー)というコントの公演をやってテレビにコメディの先生として出たりもした大北栄人といいます。興味対象がユーモア(入力情報が期待値を下回ったときの喜び、くだらないという感覚)にあり、Webのおもしろ記事を書くライターを長年やってきてます。
アーで縦型動画のコントをやるも、なんだか新規領域のユーモアは受け入れられてないなーという実感を得たまでが前回。そこを打破する次の一手は「愛」ではないか、というのが今回の話。
合理的でないヘボコンにヒントを求める
ヘボコンというロボットコンテストをご存知でしょうか。「最もヘボいロボット」を決めるロボットコンテストです。作ったロボットで相撲大会をしてその戦いっぷりから一番ヘボかった者を決めるという大会で、私は主催する石川くんと関係性が近く立ち上げから見てました。
実際のヘボコンの大会から
「ヘボい」ってなんでしょうか。遅いとかすぐ壊れるとか、これは「合理的でない」ってことです。世界は合理を目指しますからそんな大会は意外とありません。なので世界中にファンがいるのがヘボコンです。「非合理を目指す」ものって他になにがあるでしょうか?
このようなコンセプトを聞いて、みんなが想像するのはTV番組『アメトーーク!』の名物企画「運動神経が悪い人たちの運動会」ではないでしょうか。運動神経が悪いと笑われる出場者たちはみんな不本意な表情を浮かべます。「本気でやってるのになんで笑うんだ」ということですよね。(本気でやるのがなぜおもしろいかはまた大ネタなので別の回で考えましょう)
ですがヘボコンの出場者は「ヘボい」と言われてヘラヘラ笑ってるのでちょっと事情が違いそうです。もちろん自分の身体でないこともあります。そして大きいのは「本気じゃない」ことじゃないでしょうか。
「ヘボい」を「未熟な人の本気」ととらえると、ヘボコンに何年も出場することは上手くなってしまって「未熟なフリ」となってしまいます。しかし未熟でなくただ「ヘボい」ことを求めるのであれば「本気でない(いいかげんである)」ことも「ヘボい」となります。実際、ヘボコンでは出場者が「面倒だったからありあわせのもので作った」とする態度が評価されます。ただ非合理である創作物を楽しもうという大会です。
ヘボコンはあざとさをどう回避するのか?
ヘボコンでみんなが楽しんでるのはユーモア。なぜ「あざとい」「ふざけてる」とならないのでしょうか?
でも「本気じゃない」ものを作って笑わせるのってなんだか「あざとい」とも受け取られますよね。たとえば「マラソン大会にコスプレで出る人」みたいな。でもヘボコンは成立してます。ここにはどういった理屈が働いているのでしょうか。
私は興味深いことを見つけました。主催者の石川くんは公式のHPでヘボいロボットを「かわいい」と書いているんですよね。「かわいい」は「可愛い」であって愛がある。大会レポートを担当した私は出場者にインタビューしてたんですが、とある方は「優勝するには(みんなに)愛されないといけない」と言ってたんです。
そうです、現場で行われてるのは「ヘボいの作ってきました」「いいね!愛せる!」というコミュニケーションです。とはいえヘボコン会場で「ヒュ~! かわいい!」という声が上がっているわけではありません。みんなゲラゲラ笑ってるだけ。期待を下回る喜びはユーモアそのものです。であっても一位をとるには「愛されないといけない」。愛があるからユーモアが成立している? これはなんだかおもしろい現象だと思いませんか?
落差に喜びを感じるのがユーモアですが、これは愛がベースにあってこそなのか??という仮説
ユーモアに愛は要るのか?
私はユーモア(「くだらなさ」という喜び)が「愛を前提としたもの」だとは思っていません。(攻撃的な言動で嫌だな~)と思っている芸人さんのネタを見ていても(でもこれはいいユーモアだな)と正常に判断できているという実感があります。好きであるならよりおもしろいかもしれませんけどね。
一方、前回お話ししたように頭の「ユーモア」とは別である身体の「笑い」ではまた別のことが起こっていそうです。ケンカしてる相手に笑い出すのはなかなか起こらないですよね。この「笑い」の方は愛や関係性が関係してるだろうなとは思います。
動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールさんの本※では類人猿は好意を持ってる人が転んだとき、安全が確認されるとホッとして笑うことが紹介されています。もちろんサルはアハハとは笑いませんけど、プレイフェイスという表情を浮かべるそうです。この「好意を持ってる人」という点がおもしろいなと思うんです。
※『ママ、最後の抱擁』フランス・ドゥ・ヴァール著.2020.紀伊國屋書店刊
チンパンジーが笑うイメージってありますよね。ニッと歯をむき出しにするやつ。でもあれとは違うんですって。ニッは犬が腹見せるみたいな服従を意味するそうなんです。それがどうして笑ってるように見えるかというと、私達人間も敵意がないことを示すときに口角を上げて二ッと笑いますよね。スマイルですね。あそこに受け継がれてるっぽいんですよ。
現在の私達の笑いは社会的な側面があります。友好や恭順の意を示す笑いです。そこでは楽しくて笑うプレイフェイスも敵意ゼロを示すスマイルも区別しないですよね。好きだったら笑いやすいし、少なくとも相手に敵対心があると「(友好の印である)笑いを示してなるものか」という意識は働きそうですよね。
笑いという身体反応で考えると「愛」があることはとっても有効そうです。対象へ友好の意を示したいですし、権威には恭順を示したいですから。親分の前で子分はよく笑いますよね。
でもですよ。私達ってそんなに恭順やごますりみたいな感覚で笑ってましたっけ? 学校の先生の冗談って本当におもしろかったですよね? 土管の中から首相がマリオの格好して出てきたらやっぱり笑ってしまうし、企業のツイッターアカウントに(よくある冗談だけど企業が書いてるからおもしろい!)ってなってますよね。
マリオが「じじい」より「総理大臣」の方がおもしろいですよね。より社会的属性が強いというのもありますが…権威がユーモアに働いてないでしょうか?
なんだか権威性や慕う力がちゃんと「おもしろく」あり、ユーモアにも働いているような気がしてならないんです。これってなんでしょうか?
なぜ子どもはおもしろいのか?
子どもっておもしろいですよね。自分の家にいる幼児のおもしろさは格別です。祖父母があなたのドジエピソードを何度も何度も繰り返し語るのはもしかしたら本当におもしろかったからではないですか。だって他人の『はじめてのおつかい』でもあれだけおもしろいのですから。孫ならなおさらです。
対して親父ギャグです。ユーモアとしてよくできてないものを親父ギャグと呼んだりします。もちろん「中年になると言いがち」という発端なんでしょうけど、言葉として定着してるのには「親父」が嫌悪対象だからというのも理由の一つなのではないでしょうか。嫌いなやつから寒いギャグが発せられるのは世の道理としてちょうどいいのでは。
そもそもヘボコンの主催者である石川くんは子どもや未熟さ、イノセンスに偏愛があります。そこには「かわいい」がベースにあります。
「かわいい」を前にして何が起こるのかを想像してみましょう。家に子犬がやってきたとします。かわいい。じっと見ていたい。よちよち歩き出しました。何かほしいのかな? 段差があって危ない! よかった、次はなにをするんだろう? 私達はそんなふうに注視をし、文脈というものに注意を払っています。「次はこうなるはず」という期待する力は確実に大きくなっている。
「犬も歩けば棒にあたる」が現実にあっても「知らん」なんですが、これがかわいい子犬ドキュメンタリーであるならコメディになりそうです
コンテンツが過多な現在、私達は文脈をいいかげんにとらえて生きています。洗い物をしているとテレビの中で芸人さんがすっころんでいるのが目に入って初めて目を向ける。ああ、なにかやってんだなと。そこで自分の好きな俳優が出てるとテレビの前のソファに座る。どういう状況かを把握する。そこで初めて文脈を期待する。
シティボーイズの楽曲はどうして小西康陽だったのか
私達ナンセンスコメディ界隈が敬愛するシティボーイズと黄金期の作家の三木聡においてもそうです。90年代中頃のシティボーイズの公演において挿入される楽曲はピチカート・ファイヴの小西康陽などが制作していました。ビジュアルもデザイン性が高く演出も粋で「かっこいい」ものでした。(演芸の界隈でも「かっこいい」「おしゃれ」「粋」は求められますがこれもまた別の回で時間をとって考えましょう、今回は「わ~、この世界好き~!」となってもらうことがユーモアにどう機能するか)
また、同じく三木聡が手掛けたナンセンスコメディの日本における数少ないヒット作『時効警察』はどうしてオダギリジョーだったのかを考えてみてもいいでしょう。SMAP×SMAPがなぜ最後のコント番組らしいコント番組だったのかにしてもそうです。そこには熱心に文脈を追ってくれる人たちがいたからではないでしょうか。
ユーモアは期待を下回る喜びです。じっと注意して見て文脈を追ってもらい展開に期待してもらわないといけません。そのためには愛してもらう必要があるのではないでしょうか。
文脈の力を高めるのが愛なのではないか
私は10年くらいインターネットでふざけたWeb記事を書いていて、ユーモアとして評価される実感がありませんでした(もちろん別の要素でウケた実感はあります)。それでも舞台である明日のアーを始めると評価の実感がありました。劇場というシステムはよくできています。財布からお金を出してチケットを買って足を運んで、せめてなにか持って帰らせてくれよ…と思ってる人たちは文脈も強く意識し、期待も高い。こうした人々にユーモアはよく効いたのでしょう。
舞台は負荷が高いので文脈も最大級に強くなる
そして2024年にWEBの動画を始めたところ、前回お伝えした「自分の外にあるものは受け入れがたい」という現実に直面するわけです。
現代は共感ベースですよ。たくさんの文脈が走りすぎていますから。そうした中で振る舞うには「人々の中にあるものをなぞる」のか、新しいことをやりたいならやはり愛されるもの、SMAPを呼んでくるしかないのではないでしょうか。
私達が作ったバズ縦型動画の荒れたコメント欄に「登場人物に声をかけないでください」「その人は実在しません」「それセリフです」となげやりに返信しながら、ここでユーモアを評価されることは期待できないなと感じていました。こりゃ一回愛される世界を作らないとだめだ。愛をベースにしてみよう。「わー、この世界好き~」となるようなものを手作りしてみようと一回仕切り直すことにしたんです。
ファンがいるような人周りに…いるな、球ちゃんだ
一人心当たりがありました。金井球という独特な言動でSNSで人気があり、ミスIDもとって私達のアーの舞台に出ても上手に振る舞っていた人がいるんです。SMAP的なものとして彼女に出てもらおうと。ロケーションも大事です。センスの良いジャズ喫茶tonlistで撮影できることになりました。そうやって私達のできる手作りのかわいい世界を作るべく動いていたら「ビジュアルならぬいぐるみじゃないですか」という助言を出演者の7A氏からもらいました。
子犬が動いている例を今出したところですよね。そうか、ぬいぐるみだ、となったはいいんですけど、ぬいぐるみ作家に発注すればいいのにお金が動いてるわけではないですし、私のとりえとヤバいところは「おもしろそう」にいざなわれる力くらいしかないので、作ったことのないぬいぐるみを作り始めてしまいました。私が長年書いてきたWeb記事の世界はすぐDIYして「こんなんできてしまいました…」と自虐する展開になるのが通例なんです。おかげでいつまで経っても外部発注が上手くならず…いやいや、それが違ったんです。
ここまでの流れの通り、これは私の生きる杖みたいなものですから。もはやユーモアの探求くらいしかやりたいことありませんから。やるぞやるぞと心を込めて作っていたら、なんとちゃんとしたものができてしまったんです。
乱雑な制作場所での「できた!」瞬間の1枚
「腰が痛えですな」
おやおや! どういうことでしょう!? ユーモアを解説する論説文に突如としてセリフです! どうやらほんとに心がこもってしまったのかぬいぐるみが喋りだしたではありませんか!?
私は彼と話をしました。彼はユモさんと言うそうです。きっとユーモアのユモでしょうし、『ぼくの伯父さんの休暇』のユロ氏のようでもあります。この動けなさそうな見た目は腰痛から来たそうです。ははは、現実と虚構がないまぜになってきて、楽しくなってきました。
明田川志保さんの写真とロゴさえも手作りして完成
こうしてユモ氏と球ちゃん7Aちゃんを置いてアーのシットコム(シチュエーションコメディ)をYouTubeで始めることにしたんです。わー、なんてかわいらいいルックでしょう。それもこれもユーモアの探求です。こうすればみんなが新規領域のユーモアを楽しめるんじゃないかという新たな形です。できたのがこれ。新規領域のユーモアもこれなら受け取りやすい! 成功だ!
アーのYouTubeで月曜に更新したりしなかったりします。チャンネル登録してお知らせをお待ち下さい
とはいえ生の舞台の力が最高峰
さあこれで広いところに向けてのコンテンツはできたわけなんですけど、やはりユーモアというのは劇場という装置を使うのが最も効果的なわけです。同じ空間で今まで見たことのない新規領域のくだらないユーモアを何十個も続けて浴びるのはあなたの人生でそう何度も体験できないことです。
そうです、私達のユーモアの理論物理学とも言える、探求の一丁目一番地、明日のアーの本公演の時期になってきました。
私達の公演のウリとはなにかといったらとにかく新規領域のユーモアを何十個も浴びるということですから。私は普段コメディのお芝居見に行ってめちゃくちゃ腹立ってますから。新規領域なんてあっても1個ですよ。もっと頭を喜ばせてくれよと。それが叶えられるのはアーの公演でしかないんですよね。
そのためにユーモアを増やそうと。もう私も「ユーモアの探求」という目的がはっきりしてきたので自己表現はいいかと思い、現代ですぐれたユーモアを届けてる人、おほしんたろうさんを脚本協力として招聘することにしました。
これまでの明日のアー(アー)がすべて分かるような総括するような内容にするので「整理と整頓と」というタイトルにしました。それはユーモアそれ自体のことでもあるんです。どういうことかというとそれはエントロピーの……人間が記事で読める字数の限界ですよね、また次回に。