間もなく東京公演が始まる、国際共同制作の『三代目、りちゃあど』。シンガポール国際芸術祭芸術監督で、世界的に活躍する演出家オン・ケンセンが、日本、インドネシア、シンガポールから一流の俳優とスタッフを集めたプロジェクトで、2ヵ国7都市をツアーしている。最近は「映画監督」も肩書き に加わった劇作家、演出家であり、今作には俳優として参加している江本純子に、価値観の入り交じる現場の様子を聞いた。
公演も稽古も国内外を回る、旅の多いプロジェクトですね。やはり演出がシンガポールで活躍するオン・ケンセンさんということで、国際的に広がっていったのでしょうか。
江本 稽古の話からすると、最初にインドネシアのバリ島に行って、日本に戻ってからは東京、四国の善通寺、そして静岡と、計4ヵ所でやりました。インドネシアはケンセンの意図するところがあったようですけど、四国に行ったのは、主演の(中村)壱太郎(かずたろう) くんの金毘羅(こんぴら)歌舞伎と(稽古期間が)重なっていたので、他のメンバー全員で四国に行って、壱太郎くんの空き時間に稽古をしたんです。公演は4〜5月に静岡のSPAC(静岡)で初日を迎えて9月にシンガポールでやって、このあと東京で、12月に熊本、大阪、高知、福岡と回ります。
キャストはいろいろな場所に行けていいけど、きっと制作側は大変でしょうね。私は旅に興味があってこのプロジェクトに参加したところもある ので、楽しいです。
とすると、その旅は江本さんの演技や気持ちにどう影響しましたか?
江本 バリ島に関しては、感性に直接触れるものがありました。インドネシアに行ったのが初めてで、村の空気にしても風景にしても、今までの自分の経験にはなかったものだったし、豊かな 自然の中にいたせいか 、なんでも受け入れられるという気持ちになりました。
ケンセンさんの狙いはそれだったのでしょうか?(笑)
江本 そうかもしれない(笑)。善通寺もよかったですよ。四国学院大学内の施設で稽古させてもらったんですけど、そこは平田オリザさんが先生だったり、青年団の人が講師にいたりして、創作に関して前向きな学校で、場所自体に人の好奇心が寄せられているように感じました。それと、壱太郎くんの歌舞伎の関係で稽古は夜だったので、昼間はずっと散策していたんです。その時間もよかったですね。東京と静岡は……普通でした(笑)。
出演者も国際的かつ多彩なキャリアの人が集まっていますね。日本、シンガポール、インドネシアの国際共同制作ということで、それぞれの国から参加していて、しかも、出自や専門分野が異なります。日本のキャストは、中村壱太郎さんは歌舞伎、茂山童司さんは狂言、久世星佳さんは元宝塚、江本さんは小劇場。海外組では、シンガポールからジャニス・コーさん、インドネシアからヤヤン・C・ヌールさんで、おふたりは舞台、映像で幅広く活躍されていて、インドネシアの伝統芸能である影絵人形遣いのイ・カデック・ブディ・スティアワンさんも出演されています。ケンセンさんはどんなふうに演出されたんですか?
江本 心の話からしていいですか?(笑) 私はこういうプロジェクトに参加するのが初めてだったので、自分がもっと語学が出来ればなって何度も思いました。この現場を通して何よりも感じているのがそのことです。
通訳の方がいても、江本さんとしては直接のコミュニケーションがしたかったし、それがうまくできなかったということでしょうか?
江本 やっぱり(それぞれに母国語があっても)英語が共通語でコミュニケーションする。そこが思うように行かないと、会話しても深いところまで入っていけないんですよ。ずっと世間話をしているような感覚で終わってしまう。本当に良いものをつくるには、お互いの良くない部分も掘り下げつつ進んでいかないと、というのが私の考えなので。自分の英語力のせいではあるんですけど、いくら話してもずっと世間話をしているような感覚で、ちゃんと会話している気がしなかった。たとえばジャニスさんはケンセンとシンガポール人同士なので、もっといろいろと話をされていたとおもいますが。
最初、あるいは途中で、ケンセンさんからこのプロジェクトをどういう気持ちでやるといったお話は?
江本 それはたくさんしていただきました。彼はさまざまなアジアの(舞台パフォーマンスの)表現をミックスしてシェイクスピアをやることにすごくモチベーションを持っています。しかも歌舞伎や狂言といった伝統芸能にとても造詣があるし、リスペクトも感じました。
ケンセンさんについて私が番稽古で思ったのは、普段はすごく紳士で、ある意味、西洋人的なんですけど、テンパった時に急に雑になったり怒りだしたりする(笑)。でもその雑なモードのほうが私は好きで、ずっとそっちでいいのにと。
人間ぽさを感じますね(笑)。
江本 キャストもそうで、それぞれの中に潜んでいるナショナリズム的なものが出た瞬間が稽古中にあって、そういう時に立ち会うと、文化は非力なのかなと思うこともありました。でも、出てきたからこそ乗り越えることができるわけで、それもいいですよね。
『三代目、りちゃあど』は、野田秀樹さんが1990年、夢の遊眠社時代に書いたもので、シェイクスピアの『リチャード三世』を下敷きにしながらも、シェイクスピア自身も検事として登場する裁判劇が核になります。その外側に、原作の薔薇戦争が日本の華道界の家元争いとして置き換えられているという構造ですが、江本さんはどんなふうに読まれていますか?
江本 人間は常に矛盾の中にいて、そこで戦わなきゃいけないということが書かれていると思いました。例えば、作家が出てきますけど、彼は自分の王国をつくりたいと願っているけれども、そのためには家族を捨てなければいけない。また、彼が家族を捨てたいのは自分を縛るものだからですけど、彼が王国をつくると、それに縛られる人も出てくる。何かを選んだとしてもアンビバレントな状態、引き裂かれている状態というのが人にはずっとついて回るんですよね。そういう矛盾を抱えて、どう冒険していくか。そんなことが描かれているのではないかと感じました 。
そういう(テーマである)二面性みたいなものが駄洒落にも行きついているのが、野田さんの戯曲なのかなと。駄洒落も、基本的にふたつ意味があるじゃないですか。そしてお客さんに対して(笑いという形態だから)とても投げやすいし、どういう意味を受け取るかはお客さん次第ですよね。そういった、ひとつの物事にあるふたつの意味を常に投げかけている戯曲だと感じました。
戯曲としては刺激的だった。
江本 はい。とにかく人が引き裂かれて行く状態、人間は常にふたつの世界で行ったり来たりしていることに関しては、とても共感しました、法廷もそうじゃないですか。弁護士と検事がいて、ひとつの出来事に対して、一方は「正しい」、もう一方は「悪い」と主張し続ける。シェイクスピアが書いたものを通してそれをやっているのが、一層おもしろいです。
江本さんご自身も演出家ですが、その視線で今回の作品をご覧になったりは?
江本 あくまでも役者として参加しているので、そういう目で見ようとしたことはないんですけど、
お父さんという登場人物を見ていてふと、華道の世界には家元の制度があるけれど、壱太郎くんや童司くんがいる世界も、基本的に父親から子に受け継がれていくと思ったんです。それとシェイクスピアのお父さんは確か、ギャンブル好きの自由人なんです。そういういくつかの“父と子”が『りちゃあど』の中で重なって見えたことがあって、それはおもしかったです。
では俳優として、歌舞伎、狂言、人形影絵という伝統的な表現と同じ舞台に立った感覚は、どういうものでしたか?
江本 以前、SPACの芸術監督の 宮城聰さんがある インタビューで、なぜ古典劇をやるのかという話をされていて、すごく納得したんです。それは「人間はどうしても迷うし、大きい困難に向き合うことがある。そういう時こそ古典を読むと、昔の人も同じようなことで悩んでいて、どう対応したかがそこに書いてある」という内容で。本当にそうですよね。古典をやっている方には、そういう強さを感じます。私はいろんなことに興味があって、すぐに手を延ばすことも多いんですけど、何百年単位でひとつの芸を突き詰めている人はブレがない。それは信じられますね。
その凄みと、現代的な感覚のマッチングが舞台上で見られることを期待しています。ありがとうございました。
【取材・文】徳永京子 (2016年8月都内にて)
【公演情報】
アートディレクション 矢内原充志
作:野田秀樹 ウィリアム・シェイクスピア「リチャード三世」(小田島雄志訳)より
演出:オン・ケンセン
出演:中村壱太郎、茂山童司、ジャニス・コー、ヤヤン・C・ヌール、イ・カデック、ブディ・スティアワン、たきいみき、江本純子、久世星佳
日程・会場:
2016/11/26(土) ~ 2016/12/4(日)東京芸術劇場 シアターウエスト
2016/12/8(木)熊本県立劇場 演劇ホール
2016/12/11(日)吹田市文化会館(メイシアター)中ホール
2016/12/14(水)高知県立美術館ホール
2016/12/17(土)東市民センター なみきホール