「世界」とは何か、ときちんと問うていく。それが、世界シリーズを作りたいと思ったきっかけです。
約30年にわたり国内外で高い評価を得たカンパニー、元パパ・タラフマラの演出家・小池博史が立ち上げた個人プロジェクト「小池博史ブリッジプロジェクト」。その最新作は初となるオリジナル作品「世界会議」だ。世界シリーズの第一弾となる本作は、能楽師、俳優、ダンサー、サーカスパフォーマーなど多彩な才を持つ男女7人と、3人の音楽家による生演奏で “亡霊から見た世界を論じる会議”を繰り広げていく。生をすでに失った偉人たちは、どのような言葉で世界を表すのか。作品に込めた思いを小池氏に語ってもらった。
――今回、プロジェクト初のオリジナル作品ですが、そのアイデアのきっかけはどのようなところからだったのでしょうか。
小池 話せば長くなってしまうんですが…。要は、すべてのことが絡んできてしまうんですよ。90年代の半ば頃からどんどん日本は縮小していった。舞台に限らず全体的に。考え方もどんどん小さくなっていきました。2000年代に入るとより酷くなってきて、こりゃヤバいと思っていたんですね。身体の不在化が当たり前になってきて、舞台作品ですら不在の身体を使ってやることがトレンドになってしまった。あるとき、ある舞台関係の女性が「今は不在化した身体が一般的になっている。それを使って表現することこそがリアル」という話をされて愕然としたんです。そんなパラドックスがまかり通るとすれば世も末だと思った。不在化した身体のリアルを描きたいならば不在化していない身体を使いながら、状況を描くところにこそ舞台の使命がある。それをしなければ、認識の浅さと表層性ばかりが突出する。2010年頃にはそのピークを迎えていて、本当にどうすればいいんだろうと考えていた。そんな折、東日本大震災が起こったのですが、そのとき稽古していた作品というのが防護服を着て、ゼイゼイ言うところから始まって最後は旗を振って走り回る人がいるなか、ズドーンと大きな波が襲ってくるという作品でした。自分たちがやっていることはいったい何なのか、テレビ画像を見て、非常に強いショックを受けた人もいた。そんな状況になって、もう本当にダメだと思ったんです。まずは一度、ゼロに戻さないと、日本に限らず世界もどんどんおかしくなってしまう、と。
――それで、パパ・タラフマラの解散を決められたと。非常に大きな決断だったかと思います。
小池 30年やっていましたからね。自分にできることは何だろう、と考えて解散を決めたんです。それで、1年間「私たちは何だったのか」ということで四作品を上演し、本を出し、多くのトークを行なって解散しました。そのあとに「小池博史ブリッジプロジェクト」が始まったんです。パパ・タラフマラはクリエーションだけを行なってきたカンパニーでした。でも、クリエーションだけではもはやどうしようもないのではないか。パブリケーションとエデュケーションを加えて3本の柱とし、その中心にクリエイティビティがあるとした。クリエーションに関してはまずは「人間とはなにか?」を問うた。それが宮沢賢治シリーズとしての三作品であり、『マハーバーラタ』シリーズの開始でした。
――それらのシリーズではどのようなことを描いていたんでしょうか。
小池 人間が、人間の視点しか持てないようになってしまったことが問題なんです。知っているのは、自分の専門や身のまわりのほんのわずかなことだけ。ほかの視点が持てなくなって、人間はどんどん傲慢になっていったんですね。宮沢賢治のシリーズであれば、動物や死者、あるいは自然の視点から描き出しました。一方の『マハーバーラタ』は、数千年も前の古典で、神々に始まる物語ですが、破滅の物語です。これを借りて現在の状況を描いてきた。古典から現代を貫いて未来に矢印を投げる。過去と現在と未来をつなぐ。そういうことをやってきました。
――その経験が今回の『世界会議』につながっていくんですね。
小池 「世界」とは何か、と問うていく、今は意識的に社会に対して問うていくことが必要なんじゃないかと思う。それが、世界シリーズを4作で作りたいと思ったきっかけです。今回の世界会議は、死者となった偉人だったり、狂人だったりが会議をしていくわけです。その彼らを呼び出すのは、熊。熊は、日本では自然界の王ですから。その会議で、世界がどうなるのかを、今回描きたかったところです。世界とどう対峙していくのか、自分にとっては、現状に対して強い焦りに近いものがありますね。
――だからこそ、いまオリジナル作品として世に問うていきたいと。
小池 身体が不在化したら人間は終わりです。感覚的に情報だけで何かできると思ったら大間違いで、情報を超えた力が必要なんですね。それを表現するには舞台芸術はすごくいいメディアです。実は「演劇」という言葉があまり好きではないんですが、言葉はどうしても規定し、括りを作ってしまう。演劇とはこういうもの、踊りとはこういうもの、と枠が決まってしまうんです。今回、古典芸能の方々にも出演いただきますが、古典ではどこからが演劇で、どこからが踊りで、どこからが歌なのか定かではない。そんなジャンルを超えて一体化した、ひとつの宇宙体として本能的な身体を持つのが彼らの身体です。古典の人たちは日本に限らず、どこでもそうだと思いますね。それがどんどん分化されてしまったことが、現在の問題に繋がっていると考えています。
――そういうテーマを死者の目線から描いていくというのが今回のポイントになりますね。
小池 たくさんの死者が登場しますが、そういう彼らがどういうものにこだわるのか。結局のところは、自分にこだわる。自分ならどうするのか、を考えなければ、世界は変わっていかない。いろんな死者がさまざまなことを展開するんですが、例えば、仏教に絡んだ偉人なんかはわかりやすいかもしれないですね。輪廻の思想があって、それは生と死をあいまいにしてもいる。そして観客もまた、自分も最初は死者の視点から見ていたんだけれども、最終的にアレっ?と思ってもらえればいいかなと。これを経て、シリーズとして制作したいと思っています。
――死生観について、小池さんは今回の舞台に寄せてメキシコの壁画家、ディエゴ・リベラの作品に触れながらお話しされていました。彼の作品は、聖俗、生死が一体化していて、そのうえでニタリと笑える高みにある。オマージュではないけれども、その感覚は極めて大切だと。「パパ・タラフマラ」という言葉もメキシコの部族の名前が由来だそうですが、メキシコに小池さんが感じているのはどのようなことでしょうか。
小池 昔からなんですが、メキシコの人と会って話をしていると、あんまりギャップを感じないんですよ。現在と過去とか、古代と現代とか。そんな感覚のすべてが、この人たちには入り込んでるんじゃないか、という気がしてしょうがない。あと、例えば、僕はオクタビオ・パスという詩人であり批評家だった人が大好きなんですが、彼の考え方だけじゃなく、メキシコには詩的なものがいっぱいあふれている。人間の思う死の世界とこちらの世界とがどうにもあいまいな感じがするんですね。メリダという街があって、メキシコにはあまりエアコンがないので非常に暑いんですが、夕方になるとフェスティバルが開かれるんです。そうするとどこからか大勢の人がうようよと出てきて、ワイワイ始まる。音楽に乗って踊り、笑い、おしゃべりに興じる。これがまた、いいんですよ。あそこにいると、これはこの世なのかどうなのかという感覚になる。昔の日本にもそういうところはあったんですけど、どんどん失われていきましたから。
――近代化した日本ではあまり実感できなくなったようなものがメキシコには残っているんですね。
小池 それどころか、日本は今後50年から100年で何もかもなくなってしまうんじゃないかと思えます。人間すら生き延びられないのではないか、と。それを少しでも遅らせるために、死というものが何かを問うことが重要です。それが、きっと人を生き延びさせる。少しでも延ばしてやることが僕らの役割なんだと思っています。最大限の抵抗を試みたい。僕が舞台を作るときにいつも言っていることなんですが、空間と時間と身体によるリズムを通して伝えていく。空間が心臓を持っていくように、生き物を生み出すつもりで制作しています。
――パパタラでの活動は、長年一緒にやってきたカンパニーなので共通の意識が持ちやすかったと思いますが、今はいろいろな人が集まっています。その中でまるで生き物のようなひとつの空間を作ることは非常に大変なのではと思いますが…。
小池 パフォーマーにしても音楽にしても、みんなバックグラウンドはバラバラです。でも、これが面白い。僕が今、重要だと思っていることは、自分がアウェイになっていくことですね。ホームがあると、どうしてもそこを中心に物事を考える。そうではなくアウェイで何ができるのか。これは楽しい(笑)。
――アウェイな環境を楽しんでらっしゃるんですね(笑)。今回の作品も、死者による会議となると重苦しそうな印象がしてしまいますが、それを笑い飛ばしてしまう軽やかさも実は同居している作品になっていますよね。
小池 出演者の何人かは、台本をもらったときと、演出が進んでいったときとで印象がまるっきり変わったと言う。死者で偉人で、というだけですごく重々しくなるんじゃないかと思っていたんだけど、意外に滑稽。動きはハードですけどね。音楽も重要なポイントで、軽みやおかしみが生み出されている。
――最後に、今回の『世界会議』をどのように仕上げていきたいですか?
小池 いつも思っていることですが、観客のみなさんには、見たことのない世界を見てもらえると思います。そのうえで、「なんだろう?」「なんだったのか?」と思ってほしい。それが消化できるのが5年後でも10年後でもいい。すぐに理解できてしまうという短絡性がどれほど現在の問題を引き起こしているか。あくまでも潜在意識に残り得る凄みを出していきたい。先日、『風の又三郎-Odyssey of Wind-』を茅野市の小学校4年生全員が観てくれたんです。その翌日にそのおばあちゃんが見に来たんですが、おばあちゃんが子どもに舞台の感想を聞いてみたら、黙り込んでしまったそうなんです。じゃあ面白くなかったの?と聞くと、面白かった!とは言う。でもどこが面白かったのか、と聞くと、やっぱり何も言えない。それで興味をもって来ました、と。それで「観てよくわかりました。なんで何も言えなくなってしまったのか。でも、孫にとって大きな財産として記憶に残るでしょう」とお話ししてくださったんです。記憶に残る、ってとても大切なことです。僕自身、舞台なんて大っ嫌いな人間でしたから。建築家になりたいと思って、映画に衝撃を受けて、友人にそそのかされて演出をはじめて。でもそれぞれに強く記憶に残っていること、点と点がつながって、今につながるわけですから。そういう、記憶に残るものを見せたいと思います。
インタビュー・文/宮崎新之
【プロフィール】
小池博史
コイケ ヒロシ 茨城県日立市生まれ。一橋大学を卒業後、TVディレクターを経て1982年にパフォーミングアーツグループ「パパ・タラフマラ」を設立。全55作品の作・演出・振付を手掛け、国際的にも高い評価を得る。2012年5月にパパ・タラフマラを解散。同年6月に「小池博史ブリッジプロジェクト」を発足させた。著書には「からだのこえをきく」(新潮社)、「ロンググッドバイ」(青幻舎)がある。
【公演情報】
小池博史ブリッジプロジェクト『世界会議』
作・演出・振付 :小池博史
美術:栗林隆
出演:清水寛二(能楽師・銕仙会) 松島誠 白井さち子 荒木亜矢子 谷口界 立本夏山 吉澤慎吾
演奏:太田豊(横笛・サックス) 下町兄弟(ジャンベ・パーカッション) 徳久ウィリアム(ボイス・口琴)
日程・会場:
2017/1/28(土)~2/5(日) 吉祥寺シアター(東京)