2025年1月8日に新国立劇場 小劇場にて開幕を控えるミュージカル『ワイルド・グレイ』。開幕に先立ち、アルフレッド・ダグラスを演じる福山康平とシェイクスピア学者・東京大学教授である河合祥一郎先生の対談が実現!前編・後編の2本立てで本作をより楽しめる基礎知識を対談形式でご紹介。後編のテーマは「シェイクスピアとワイルド、その演劇性」。2人の共通点などについて語り合っていただいた。
(取材・文:三浦真紀)
▼対談前編はこちら
【平間壮一、廣瀬友祐、福山康平】
▼稽古場ダイジェスト映像
ワイルドとシェイクスピアの共通点
――河合先生はシェイクスピア戯曲の翻訳も多数手掛けていらっしゃいますが、オスカー・ワイルドとの共通点はありますか。
河合:実はオスカー・ワイルドの考え方はシェイクスピアの発想とぴったり合うんです。シェイクスピアがなぜ一生芝居を書き続けたかというと、アートを作りたかったから。芝居は虚構で、本当の人生は劇場の外にある。芝居なんて嘘っぱちだと捉えている人も多いかもしれないけど、シェイクスピアはこの虚構の中にこそ人生があると考えていました。
『冬物語』の中に「Art itself is nature(アートそれ自体が自然)」という台詞があって。例えば、自然に生えている木に人間が接ぎ木をすると、それがまた自然になるように、人間が作為的な行為をすると、新たな自然が生まれていく。このように、人は生きることを作り出していかなければいけないというのがシェイクスピアの発想です。その意味では自然に転がっているものをそのまま見るのではなく、美しい、真実だと思えるような心の目で人生の真実を描き出そうとしたのがシェイクスピア。
福山:なるほど。数多の劇作家がいる中で、河合先生が今回、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の新訳を出された。それは長く研究していらしたシェイクスピアとの共通点があったからですか?
河合:その通りです。私は学生時代にワイルド著「虚言の衰退」で、人生は芸術を模倣するというのを読んで、衝撃を受けたんです。芸術をここまでとことん考えている人がいるんだ!と。私は学生時代から芝居をしていまして。鈴木忠志の国際演劇祭で通訳をしに利賀村に泊まり込んで手伝ったこともあります。その後、鈴木忠志の早稲田小劇場アトリエを借りて、自分で作・演出を手掛けた『サロメ幻想』を上演。出演もしました。その頃から『サロメ』は自分の中にあったんだと思います。
――もしかしてヨカナーン役?
河合:そうそう。
福山:わぁ!ちょうど僕、『ハムレット』を観た直後に『サロメ』を読んだので、ちょっと似てるなって思っていたんです。
河合:へえ、どんなところが?
福山:ハムレットの父親が亡くなり、母親は父の弟と付き合い結婚するところとか、家族構成が似ているなと。
河合:その解釈いいですね!
福山:だけど、息子(ハムレット)と娘(サロメ)はリンクしないからなぁって。
河合:今、『サロメ』を訳してわかるのは、サロメがヨカナーンに惹かれる理由は美なんだと。繰り返し繰り返し、「私は美に飢えていた」という言葉が出てくるし、(相手が)生きていようが死んでいようがいい、みたいな。
福山:あの終わり方はすごいですよね。死体の唇にキスを……って。
河合:ワイルド自身も芝居が大好きで、『真面目が肝心』『レイディ・ウィンダミアの扇』などの戯曲も書いています。ワイルドは稽古場にずーっといて、演出にたくさん口出ししたそうです。稽古場に行けない時には手紙を書いて届けた記録も残っています。入れ込んじゃうんでしょうね。こんな手紙を送られたら演出家は嫌がるだろうけど(笑)。
福山:ただの物書きではなく、高い理想があって、徹底的に攻め込むのがワイルド。だけどその熱量を持ってしてもダグラスには勝てなかったのが面白いです。『サロメ』の英訳の時のように妥協してしまう。
河合:美には敵わないんですよ。美は絶対だから。
ワイルドは生きること自体を芸術にしようとした人
ーーワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』に書いた通り、美を追い求めても悲劇に終わるとわかっていたわけじゃないですか。普通なら逃げてしまうところを。
河合:そう、それでもその道を選んだ。
福山:想像できないギリギリの深さまで、ワイルドは芸術に入れ込んだ。
河合:生きること自体を芸術にしようとした人だと言えますね。人生をいかに芸術にするか。
福山:史実を調べるとワイルドには案外、人間臭いところもあって、非常に魅力的な人なんだろうと思います。海外に逃げなければ投獄されるとなった時、「僕は逃げない」と言いながら、ちょっと声が震えていたみたいな逸話もありますよね。口で言う理想と怖れがせめぎ合っていたんだろうなぁ。それでもカッコつけようとした。今の日本では想像できないような人ですね。
河合:そうですね。
福山:先生は翻訳される時には何に苦労しますか。ただ翻訳するだけではないと思うので。
河合:私は作者が何を伝えたいのかを知らないと訳せないんです。原文を読んだだけではわからないところも多々あるので、かなり調べます。特に『ドリアン・グレイの肖像』には、オスカー・ワイルド自身が読んで影響を受けた本、あるいは本の引用もあるので。深く調べて、できるだけワイルドと同じ地平に立ち、彼が何がしたくて書いたのかを掘り下げていく。その気持ちがわかってきたところで、ワイルドに成り代わって日本語で表現するスタンスで取り組んでいます。
福山:背景の知識がない人間からすると、前編の冒頭で話したように、あと書きがとても助けになりました。ぜひ『ワイルド・グレイ』を観る方に、観劇前にそこまで読んでいただけるといいなって。今の価値観だと理解できないところもあるでしょうから、事前にワイルドの頭の中がちょっとでも自分に入った状態で観ていただけたら、一段と面白いだろうし。
ーーワイルドの文体の特徴について教えてください。
河合:ワイルド自身がおしゃれな人で、文体もおしゃれです。気が利いて、ウィットに富み洒落ている。普通のこととあえて逆を言うことで相手を笑わせるのが得意で、登場人物たちにそれを言わせたりもしています。
福山:すごく面白いことを言っていますよね。今、それを言ったら絶対怒られそうなこと。例えば、「結婚生活の正しい基礎はお互いの誤解」「彼は天才じゃないから敵がいなかった」(笑)。
河合:それをみんな面白がって、人気を博したんでしょうね。『真面目が肝心』にも「婚約期間が長いのはいけないわ。相手のことがわかっちゃうでしょう」という台詞が(笑)。
福山:ワイルドは実生活でもそういうことばかり言っていたんでしょうね。
河合:斜に構えすぎている人で、実際にワイルドと結婚したコンスタンスは可哀想でした。結婚後にワイルドはロスと出会い、彼女のことをあまり構わなくなってしまった。『ドリアン・グレイの肖像』でもヘンリー卿夫人の「グレイさん、あなたのお写真を夫は13枚も持っていますわ」みたいな台詞があって、多分自身のことをあえて書いたのだと思います。
福山:コンスタンスは、綺麗な男の子が家に入れ替わり立ち替わり来るのを、達観して受け入れていたんでしょうか?
河合:実際のコンスタンスがどうだったかは資料に残っていないのですが、そう捉えていますね。
福山:獄中のワイルドに手紙を出したり、ロスを介してやりとりをしたみたいで、妻としてよく最後まで繋がっていたなと思います。コンスタンスが亡くなって、ワイルドなりにショックを受けたともあります。正直、後悔するのが遅すぎない?って思いますね。現代の価値観では理解が及ばない。
河合:ワイルドは突っ走った生き方をした人。いわば炎上しまくりのような人生でした。
福山:ずっと好奇の目にさらされ続けて。
気高く生きることは、美を極めること
ーーでも彼の芸術作品は後世に残り、その生き様は舞台や映画でも描かれているわけで、本人にしてみたらしてやったりかも?
河合:彼がそこに価値を見出していたことを考えると本望だったのかもしれません。
福山:彼が称賛を集めたのはほんの数年のこと。亡くなってからの方が長いわけですからね。
河合:古代ギリシャの彫刻の美が現在まで残っているように、美が人類の文化を支え、美のために世界はあると考えていた人ですから。シェイクスピアの『ハムレット』の中に、「ただ食って寝るだけではケダモノと変わりはない」という台詞があります。ハムレットの名台詞「To be or not to be」は、心の中に照らしてどちらがより気高いのかという意味が含まれている。オスカー・ワイルドに言わせると、気高さ(nobility)を求める、その基準が美なのだと。それがより人間らしく立派に、シェイクスピアの言葉を借りると、気高く生きることができる。それがワイルドにとっては美を極めることだと考えたわけですね。
ーー現代はインスタ映えとか、見た目が重視されていたりもしますが、少し重なる考え方かもしれませんね。
福山:深さが違いますけど。
河合:そうですね。化粧もそう。化粧して美しくなれば、それが私自身ということになる。アートが私自身になり、素顔を晒す必要はない。多分、今に通じているからこそオスカー・ワイルドの作品には意義があるんだと思います。人間は装う動物で、実際どうなのかを見極めようとしても見極められない。人は常に演じ、装っている。それならばより美しく、より人を魅了する形で装うのが一番いいに決まっているという発想です。
――その辺り、俳優という仕事とリンクするところもあるのでは?
福山:うーん、どうでしょうね?僕は福山康平として人前に立つのはあまり得意ではなくて、役を借りることで正気を保てるところがあります。照明や衣裳、メイクなどの力を強く借りたいタイプ。『ワイルド・グレイ』のビジュアル撮影でも、装うことが、一瞬で1900年代のイギリスに飛ばしてくれる力になりました。きっと本番の舞台でも素敵な衣裳やセットなどにより、その時代の人物になれると想像しています。
河合:お客さんも、普段では見られないような美しい世界に魅了されるために、観劇にいらっしゃると思います。そこはワイルドが求めていたものと通じるでしょうね。どんな人だって、自分の嫌な部分はできるだけ人に気づかれたくないじゃないですか。良いところだけ見てほしい(笑)。
福山:ありますね(笑)。特に今回、僕はアルフレッド・ダグラスという絶世の美男子を演じるわけで、装う力がたくさん必要になるはず。激昂しては泣き縋り、幾つも年上のワイルドを振り回し続ける。そんなダグラスを演じるということは、かなりカロリーを使うだろうな、と。そんな生き方は疲れるでしょうって思うので。
河合:確かに。でもそれが芝居の面白さですね。
福山:当時の労働者の人たちは日々生きるのに精いっぱいだったでしょうが、ワイルドもダグラスもそこまで頑張らなくても生きていける人たち。なのに、気持ちに負荷をかけ続けて生きたことを思うと、今の僕たちはのんびり生きてるなぁって感じます。
河合:最も激しく生きた人たちですからね。
福山:ロスもおそらくその濁流に巻き込まれた人。僕は3人の中ではロスが好きなんです。ロスのワイルドに対する思いの強さは相当なものだったんだなと思います。
河合:ロスはワイルドへの恋愛感情と共に芸術に対するリスペクトがありました。一方のダグラスはひたすら「俺を愛してくれないのか!」。自分はすごいんだというプライドもあったでしょうし。台本と少し違うのは、実際のワイルドとダグラスは偶然出会った感じなんです。その時のワイルドは有名作家で、ダグラスは単なる貴族の坊ちゃん。ダグラスは有名作家に惚れられちゃった!って、より高揚したんじゃないかと。
福山:あのオスカー・ワイルドが僕を愛した!って。
河合:またワイルドがお金持ちだから、彼のお金を使ってダグラスはやりたい放題で。
福山:僕を愛してるならお金を払えるよね、と。子供のように泣いているかと思えば、口汚く罵り続けてみたり。ダグラスはまるで二人の人格がいるかのようで、愛想を尽かされると、なんで僕から離れて行くの?と、ほんと感情の起伏が激しすぎて。
河合:甘えん坊であると同時に、短気で怒りんぼう。大人になり切れない、子供の要素が強いです。激しく愛を求める側面があって、それはひょっとすると自分の父親から愛されなかったことからきているかもしれませんね。
福山:先生からお話を伺えて、とてもためになりました。背景にある史実が膨大なので、それをぎゅっと煮詰めた、ものすごく濃密な作品になりそうです。
河合:舞台の上でダグラスの激しさを体現することで、お客さんがいろんな受け止め方をしてくださると思います。頑張ってください。
福山:ありがとうございます!
◆河合先生おすすめの予習用本&映画
オスカー・ワイルド/著 河合祥一郎/訳 『新訳 ドリアン・グレイの肖像』(角川文庫)
オスカー・ワイルド/著 河合祥一郎/訳 『新訳 サロメ』(角川文庫)
宮﨑かすみ/著 『オスカー・ワイルド 「犯罪者」にして芸術家』(中公新書)
映画「ドリアン・グレイ 美しき肖像(字幕版)」(1972)
映画「さすらいの人 オスカー・ワイルド」(2018)