ウクライナ出身で20世紀のロシアを代表する作家・ブルガーコフが、1924年に小説として発表した『白衛軍』。1926年には、ブルガーコフ自身の手による戯曲『トゥルビン家の日々』として上演され、“第二の『かもめ』(チェーホフ作)”と評される成功を収めた。その作品が、12月3日(火)から新国立劇場にて、『白衛軍 The White Guard』のタイトルで幕を開けている。今回の上演にあたって演出の上村聡史が選んだのは、2010年に英国のナショナル・シアターで上演されたアンドリュー・アプトンによるリライト版だ。今観るためのフックが設けられてわかりやすくなっているからだろう。革命によってロシア帝政が崩壊した翌年1918年という時代の、ウクライナの首都キーウを舞台にした戦争をめぐる物語が、私たちにグッと近づいてくる。
舞台上はまず暗闇である。そこに地鳴りのような音が響き、舞台奥からセットが現れる。このあとも、そのセットが廻って次の場面となったり、奥に行ってはまた新たなセットが奥から表れたりと、奥行きのある構造を活かして舞台は展開していく。暗闇から次は何が登場するのだろうと思わせる、演劇的な仕掛けである。
さて、最初に現れたのは、食卓やソファなどが並ぶトゥルビン家のセットだった。そこに登場するのは、次男ニコライ(村井良大)、長女エレーナ(前田亜季)、長男アレクセイ(大場泰正)のトゥルビン家の三兄弟だ。家の外には銃声が聞こえ、砲兵大佐の兄と士官候補生の弟も、明朝戦いに向かうことが会話からわかる。だが、その緊迫感はありながらも、ギターを弾きながら歌う弟に兄が下手だとツッコんだり、どこかユーモラスな空気が漂っている。このあとトゥルビン家には次々と来客が訪れるがその雰囲気は変わらない。凍傷を負った砲兵二等大佐のヴィクトル(石橋徹郎)は、どうやら酒飲みのよう。三兄弟のいとこのラリオン(池岡亮介)は、自分が何者であるか伝えないという登場の仕方からして喜劇的だ。参謀本部大佐でありながらドイツに逃げると告げるエレーナの夫・タリベルク(小林大介)などは、逃亡ではなく出張と言い張るのがまさしく滑稽。極めつけは、今は兄弟とは別の所属で、歌が得意なレオニード(上山竜治)。タリベルクが去ったあとに登場してエレーナに言い寄り、歌い上げる。そう。戦争のなかにも恋はあるのだ。そして彼らは酒を酌み交わし、語り、歌って、その夜を過ごす。
ここまでだけでも、ドイツに逃げるというタリベルクの行動から、トゥルビン家の人々が危機的状況にあることはわかるが、これ以降、さらに悲劇的要素が強まっていく。
では、彼らの戦争とはどんなものなのか。その詳細を知らずとも、登場人物たちが巻き込まれ翻弄されていく姿に十分に惹き込まれてはいく。が、どこと戦っているのかといった基本は少し押さえておきたい。革命でロシア帝国が崩壊して民衆が力を持つこととなったが、キーウでは、その革命に抗う「白衛軍」、キーウでのソヴィエト政権樹立を目指す「ボリシェヴィキ」、ウクライナ独立を宣言したウクライナ人民共和国勢力「ペトリューラ軍」の三つ巴の戦いが起こっていた。そのなかで、ロシア帝国の士官であることに誇りを持っていたトゥルビン家は「白衛軍」側にいる。しかし、「白衛軍」を支援していたドイツ軍によるウクライナ傀儡政権の元首ゲトマンがドイツに逃亡。「白衛軍」は「ペトリューラ軍」の攻撃にどんどん押されることになる。
舞台では、二幕第一場の傀儡政府の軍司令部でゲトマンのドイツへの逃亡の顛末が、二幕第二場の「ペトリューラ軍」の司令部で彼らの恐ろしいほどの強さが、第三幕のトゥルビン家きょうだいの急ごしらえの司令部で「白衛軍」が撃ち込まれる様が、まざまざと描かれていく。「白衛軍」として戦場にいる一人ひとりを一幕で知っている我々は、過去の遠い国のこの出来事を、もう人ごととしては観られない。トゥルビン家に集まった彼らを、時間をかけて微細に描いたのはこのためだったのかもしれないと思わせる。
また、「白衛軍」が負けるとわかっていて自身は逃亡するにもかかわらず、兵士たちには最後まで戦えと命令するゲトマン(釆澤靖起)、脱走兵を粛清し、ただの靴屋にもスパイと疑う容赦のない「ペトリューラ軍」の大隊長・ボルボトゥン(小林大介)など、彼らの姿には戦争となればどんなことでもしてしまう人間のおぞましさが表れる。悲しいのは、ゲトマン宮殿の従僕としてどんなことにも忠実に従うフョードル(大鷹明良)だ。ゲトマンもドイツ軍も逃げたあとたったひとり残される。戦争で犠牲になるのは誰かということを突きつけてくるようだ。
三幕第二場は、再びトゥルビン家に戻り、エレーナとラリオンが迎えるなか、戦いに負けた人々が帰ってくる。皆が集えばやはりどこかコミカルな空気にもなる。ゲトマンの逃亡を目の前で見ていたレオニードに、ヴィクトルがその様子を聞き始める場面などは、人間として嘘のない会話が繰り広げられ、土壇場でのレオニードの様子に思わずクスッとしてしまう。それでも、誰もが報われない思いでいることは間違いない。大尉のアレクサンドル(内田健介)は、自分が命令を聞かなかったせいで最悪の事態を招いたと、いつまでも後悔している。さらには、それから2か月後を描く四幕で、結局、「ペトリューラ」に勝った「ボリシェヴィキ」がキーウを支配することになったとわかる。何のために「ペトリューラ」と戦ったのか、これからは「ボリシェヴィキ」として生きていかなければならないのか。彼らの逡巡の会話は続いていく。そんななかにあって、勝ち負けのことよりも、ただひたすら誰も死なないでと命のことを思ってきたエレーナ。戦争はしてはならないものであると、エレーナの存在が訴える。そのエレーナがいち早く新しい道に踏み出すことは、この物語の希望だろう。戦場を遠くに感じながらいきさつを見つめていたラリオンが語る詩にも、安らぎを覚える。しかし、舞台はそれで幕引きとはならない。ラストシーンを担うのは、負傷したニコライ。その姿が戦争は終わっても悲劇は続くことを見せつける。
緩急のある上村の演出が観客の集中力を引き出して、3時間10分の上演時間もあっという間だった。そしてやはりどうしても、目の前のことが今世界で起こっている悲劇につながっていく。今は過去の地続きでしかない。演劇はその過去を今に刻みつけてくれるのである。
文=大内弓子
舞台写真撮影=宮川舞子