タカハ劇団 第20回公演「他者の国」|平埜生成×高羽彩インタビュー

2月20日(木)より下北沢・本多劇場にて上演される『他者の国』。タカハ劇団の最新作にして第20回公演となる本作は、1936年の日本のある大学の解剖学教室を舞台とした作品だ。とある死刑囚の遺体の解剖をめぐって、6名の医者をはじめ、さまざまな人々の思惑が交錯していくさまがスリリングに描かれる。

本作のテーマのひとつになっているのが「優生思想」だ。タカハ劇団の主宰にして本作の作・演出を務める高羽彩は、なぜこのテーマを描こうと思ったのか。そしてこのテーマを持った作品に、主演を務める平埜生成はどのような想いで臨んでいるのか。ふたりに話を聞いた。

──『他者の国』はタカハ劇団の第20回公演ですね。どのような経緯でこの作品が生まれたのでしょうか?

高羽 2023年に『ヒトラーを画家にする話』を上演したのですが、あれはヒトラーという歴史的な人物や現象をモチーフにしているものの、作品のスタイルとしては青春群像劇でした。若者たちがみんなで踊ったり、とにかく若いなりに一生懸命に頑張る、みたいな。いうなれば“光属性”の作品で、すごく評判も良かった。そこで私はちょっと天邪鬼な気持ちになって、今度は“闇属性”のお話を書こうと思ったんです。そんなところ、身近に倫理学の先生がいるのですが、その方から「優生思想をテーマにした作品を書いてみてほしい」と言われたんですよ。タカハ劇団はアクセシビリティの向上に力を入れていて、観劇が難しい方々向けに、鑑賞サポートサービスを数年前から取り入れています。そんなタカハ劇団だからこそ、優生思想をテーマにした作品を描いて上演するのは、非常にチャレンジングなことになるだろうと。もともと私の作品は死を題材にしたものがとても多いですし、『ヒトラーを画家にする話』ではユダヤ人差別を扱ってもいます。そこで、死刑囚の遺体を解剖しようとする医者たちの話を思いついたんです。

──解剖学や倫理学など、取り入れなければならない知識が相当なものになりそうですね。

高羽 そうですね、すごく大変です。戯曲を書くためにあたっている資料の量が、おそらく過去最大です。ただ、昨年は時間があったので、いろいろと学びつつ少しずつ書き進めることができました。稽古が始まったタイミングで俳優のみなさんから「資料を共有してほしい」という声が上がったので共有したにはしたのですが、さすがに本番までに読み切れる量ではないですね……(笑)。

──平埜さんは脚本を読んでみて、率直にどんな印象を抱きましたか?

平埜 純粋に面白かったです。出演のお話をお引き受けした段階でプロットはいただいていたので、いったいどんなテーマを持った物語が展開するのかは覚悟していました。感触としてはエンターテインメント作品ですが、センシティブな題材を扱っていますから、出演を決める前にはマネージャーさんと話し合いました。きちんとこの作品に向き合えるのかどうか。優生思想というものについては高羽さんともお話ししていましたから、構想段階でお聞きしていた“大どんでん返し”のある展開には興奮しましたね。プロットからこんなふうにして戯曲が立ち上がってくるのかと。

──後半の怒涛の展開は非常にスリリングですね。

平埜 そうですよね。この作品にかぎらずですが、僕が役者として演技をするうえでは、自分自身の思想や社会的意義はいったん置いておいて、とにかくエンターテインメントを届けることを考えています。本作は専門用語が多く出てくるので、ある種の難しさを感じる方がいるかもしれません。それを突破するために、主人公の岡本三郎をどう演じようか、この世界観をどう体現していこうかと、ドキドキワクワクしながら読みました。とはいえ、本作の読み物としての面白さに浸ってはいられない。セリフ量がとんでもないんですよ(笑)。演じる役どころについてはネタバレに繋がってしまう恐れがあるので、あまり話せないのが辛いところです……。

高羽 オファー時点でお渡ししたプロットには、大まかな設定と、ある仕掛けが用意されていることくらいしか記していませんでした。なので、実際に物語がどのように展開していくのかまでは、私自身にも分からない。出演を決断するのは不安だったと思います。いろいろとお話しをする中で、この作品の持つテーマに対する繊細な感性を持った俳優さんなのだと分かりました。より参加していただきたい気持ちが強くなりましたね。

──そもそも高羽さんはなぜ、平埜さんに本作の主演のオファーをされたのでしょうか?

高羽 彼が劇団プレステージに所属していた頃からお芝居を観ていて、いつかご一緒したいとずっと思っていたんです。でも、小劇場の作品に出るイメージはなかったので、なかなかお声がけできずにいました。けれども昨年、『兵卒タナカ』に出ているのを観て頼もしく思って、そろそろかなと。それにあの作品も『他者の国』と同じような時代背景と社会的なテーマを扱ったものだったので、今作ならお声がけできると思ったんです。

平埜 僕もまったく同じような感じで。高羽さんの作品に先輩が出ていたりしたので、身近な存在だと感じていましたし、作品を観ていつかご一緒したいと思っていました。でも本当にご縁とタイミングしだいなので、『他者の国』でようやくチャンスが巡ってきて嬉しいです。

──このインタビュー時点では、稽古が始まってからまだ一週間というところですよね。高羽さんがつくる稽古場の印象はいかがですか?

平埜 立ち稽古に入る前の本読みの時間が、僕にとってすごく新鮮な体験になりました。僕のこれまでの経験だと、本読みの段階では台本に何が描かれているのかをみんなで読み解いていく作業になることが多かったんです。翻訳劇だったら原文にあたって、翻訳家の方が訳した意図を探ってみたり。そこから話し合いを重ねたり。でも高羽さんの場合はご自身で書かれていますし、描き出そうとしている世界観がすでに明確にある。この作品は1936年が舞台の物語なのですが、どのような歴史の流れがあってこの時代に至ったのか、そしてここからどのような時代に繋がり、人々の考えや価値観がどう変化していくのか。そういったお話を丁寧にしてくださいます。本読みの時間が4時間あったとしたら、半分くらいは世界史の授業なんです。それに対して僕たちも、現代人の感覚で話し合い、考えを深めていく。作品の内側からではなく、その外側をみんなで理解することによって、物語の中身やテーマがよりくっきりと浮かび上がってくるんです。いつもこのやり方なんですか?

高羽 作品によりますね。それこそ『ヒトラーを画家にする話』もそうでしたが、歴史を扱う場合は、まず物語の背景を理解する必要があると思います。物語の内容やキャラクターの解釈だけでは太刀打ちできない領域に足を踏み入れていますからね。

平埜 純粋に脚本を読んでいたときといまとでは、この作品の見え方がやはり変わってきました。歴史を深く知ることによって、物語の理解度も登場人物たちに対する理解度もまったく変わってきます。するとしだいに個々のキャラクターの色も濃くなってくる。面白いですね。

高羽 本読みのたびにキャラクターが変わっていきましたよね。私が演出家としてディレクションしたわけではなくて、すごく自然な流れでシーンがガラッと変わっていく。面白いですよね。登場人物たちがどのような社会で生きている人間なのかが分からなければ、私は脚本を書き進めることができません。社会背景をよく理解したうえでセリフを書き出すのがいつものスタイルです。それを今回は俳優さんたちにもやっていただきました。

平埜 だから高羽さんは、すごく明確にゴールが見えている方なのだと思いました。あとは先輩たちと一緒に、この船に乗っていればいい。楽しむだけ。いま感じているのはそんなことです。

──俳優の肉体と声を得て、具体的にキャラクターが立ち上がってくるからこそ、見えてくるものもあるのでしょうか?

高羽 俳優さんたちが演じてくださることで、私自身が一人ひとりのキャラクターのことを好きになっていくんですよね。好きになっていくからこそ、彼ら彼女らに嘘をつかせたくはない。作劇の都合でセリフを言わせたりはしたくない。そんなことを思っています。この作品に出てくる人たちは、みんなうっすら酷い人間なんです。でもそれは現代の価値観から見てそう思うわけであって、彼ら彼女らにはそれぞれの正義や大切にしているものがある。それを批判的に書いてはいますが、この批判的な視点とは別に、やはり一人ひとりの人生に対して誠実に寄り添いたい。私の好きな俳優さんたちが演じていますしね。そんな気持ちがどんどん強くなってきているところです。

──平埜さんは立ち稽古に入ってみていかがですか?

平埜 いや、もう、先輩たちがすごいんですよ。これは実際に舞台に立つ人間にしか分からないことかもしれませんが、みなさんが舞台上の空気を動かしているのを実感しています。自分がどこに立てば誰がどう動くのか、俳優同士の間で完全に共有されている。先輩の誰かがある動きをしたら、自然と僕もそれに合わせた動きになる。感動しています。これは舞台でしか味わうことのできないものなので、贅沢な時間を過ごさせていただいていると感じていますね。

──高羽さんの手がける作品において、今作ならではの取り組みは何かありますか?

高羽 これまでは稽古をしながら執筆するというスタイルでやってきたので、稽古初日の時点で作品の全体像が見えていたのは、恥ずかしながら今回が初めてです。今作では初の試みとして、プロデューサーの半田桃子さん、制作の村田紫音さんと定期的に本読みを行い、進捗状況を確認し合いながら執筆に取り組みました。そうすることで、作家である私にはプレッシャーがかかりますし、サポートしてくれる存在があることで精神的な負担も減る。いろいろな視点からの意見を取り入れられるし、この会がマイルストーンにもなります。映像の制作現場と違って演劇の場合は、「稽古初日までに書き上げてください」というのが普通です。でもこれってよく考えてみたら、すごくリスキーなことなんですよね。執筆は孤独ですし。

──おっしゃるとおりだと思います。

高羽 半田さんと村田さんの貴重なお時間をいただいているので、これで間に合わなかったら申し訳ないどころじゃ済まない……。結果として有意義な取り組みになりました。今作はテーマ的なところも勘案して、倫理学の先生や、昭和史に詳しい方のご意見もいただきたいと思っています。私以外の複数の視点が入った状態でゴールできたらいいなと。俳優さん一人ひとりの視点ももちろんそうです。よくよく考えてみると酷いセリフがたくさんあるので、それを口にすることで生じるストレスもあるはずですから。ここは稽古が本格化していく中で、今後の課題になってくるかと思います。

──本作はナマモノの演劇だからこそ、この社会に強くメッセージを訴えることのできる作品になるのではないかと思います。おふたりは「演劇」という表現手法で社会に問題提起したり、問いを投げかけたりすることについて、どのように考えていますか?

高羽 これは演劇にかぎらずですが、いわゆるフィクションには、この社会において果たす大きな役割というものがあると考えています。ニュース的に事実を伝えるのではなく、演劇として“物語”の体裁を取ることで、その場に居合わせた人々の人生にまで触れることができる。作家としては、中心人物だけでなく、その周辺にいる人たちの生活や性格まで描くことができる。そうすることによって観客は、そこで扱っている問題をより自分ごととして捉えられるのではないでしょうか。これがフィクションの強みだと思います。エンタメ性の強い作品においてもそうです。どんな作品にもいまの社会が反映されるはずなので、劇場に集まって問題を共有し、悩みながら考え続けることを促せればなと。

平埜 テレビやネットのニュースだと、そこで扱われている問題と自分との距離がありますよね。だからこそ、声を上げて批判したりすることができるのではないかと僕は思います。でも演劇の空間の場合は、この距離というものがすごく近い。もう目の前にある。だから舞台上で生まれた何かは、観客にダイレクトに伝わる。演劇とは、そんなエンターテインメントなのだと思います。登場人物の感情や行為の面についてもそう。普通に考えたら倫理的に問題のあることや、現代の価値観で判断したらマズいことでも、同じ空間にいたら共感したり賛同したりしてしまうかもしれない。つまり、観客のみなさんの中にある善と悪とがひっくり返る瞬間だって生まれるかもしれないわけです。

──より観客をダイレクトに揺さぶるのが演劇だと。

平埜 はい。だからこそ、危ういエンターテインメントだとも思います。事実、プロパガンダに利用されてきた歴史もあるわけですしね。良くも悪くも価値観の転換が起こるのが演劇なのではないでしょうか。観客のみなさんは激しく揺さぶられた末に、新しい自分を発見することになるかもしれない。『他者の国』には、まさにこの力があると感じています。

取材・文:折田侑駿

写真:塚田史香