
8月7日(木)より座・高円寺 1にて上演される『帰還の虹』。タカハ劇団の第21回目の公演となる本作は、第二次世界大戦中に「戦意高揚画」を描いた画家たちの物語を紡いでいくもの。2014年に下北沢・駅前劇場にて初演され、終戦から80年を迎える今年の夏に、約11年ぶりの再演となる。
本作の作・演出を務める高羽彩は、どのような想いからこの作品を生み出し、そしてなぜいま再演しようとしているのか。これからともにクリエイションに取り組んでいくことになる古河耕史、護あさな、高羽の3人に、現在の心境などについて語ってもらった。
──まずはこの並びが実現した経緯についてお聞きしたいです。今回はオーディションを開かれたそうですね。
高羽:今回の『帰還の虹』は、2014年に上演したものの再演です。なのでつまりは台本がすでにあるということ。この状態だと、オーディションを受けてくださる俳優さんたちに対して、ある程度の作品の方向性を示すことができます。タカハ劇団はプロデュースユニットなので、気になる俳優さんにお声がけをし、集まっていただくのが通常のやり方です。でももう少し、俳優さんとの出会いの機会を増やしたいという思いがありました。そのチャンスが、このタイミングでやってきたんです。
──古河さんと護さんはどのような経緯でこの作品にたどり着いたのでしょうか?

古河:僕はつねに舞台に立ちたいと思っている人間なので、気になるオーディション情報があれば掴んでいきたいと考えています。なので今回も情報に目を通して、これはぜひ受けてみたいなと。そしてオーディションの場に行けば、これから作品を生み出そうとしている方に会えます。僕はそこではじめて高羽さんとお会いしました。あの場で、いろいろと納得できたりするんですよね。これから何が生まれようとしていて、そこで自分はいったい何をすべきなのか。
護:私もとにかく舞台に立ちたくて、オーディション情報にはつねにアンテナを張っています。でも私ひとりですべてをカバーすることはできません。今回のオーディションの情報を教えてくれたマネージャーは、とても演劇愛に溢れていて、丁寧にアテンドしてくれたので、私はただ全力でトライするだけ。厚い信頼関係があったからこそ、この作品にたどり着くことができました。それに私の母は画家で、なおかつ父がカンボジア人なんです。私は海の向こうの戦争の話を聞き、絵の具に囲まれて育ちました。この特異なルーツを持っていることもあって、私は何が何でも本作に参加したかったんです。
──オーディションを経て、高羽さんがおふたりに出演依頼をすることになったポイントはどこですか?
高羽:古河さんに関しては、ひとりだけズバ抜けていました。オーディションとはいえ、まずは書類審査がありますし、参加してくださった方のほとんどが豊かな経験を持っている。そんな中でも古河さんの技術がズバ抜けていたんですよ。替えの効かない方だと思うので、画家である主人公の藤澤役を古河さんにお願いした理由はシンプルですね。
古河:これ、面と向かって言われるの、ちょっと恥ずかしいですね(苦笑)。
高羽:護さんに演じていただくキヨ子は、藤澤の妻です。この役は本作において非常に重要で、個人的には演じるのがすごく難しい役どころだと思っています。時代的に抑圧された立場にあるけれども、海外での生活を経験していることもあって、本人の心はものすごく自由。内面の自由さと、社会的な不自由さをどちらも抱えているキャラクターです。現代と当時とでは女性を取り巻く環境がまるで違います。いまの時代、誰もが自由でいられるかというと、もちろんそんなことはありません。でも戦時下とは大きく違うはず。だから現代を生きる女性が演じるには、役を掴むのにかなり高いハードルがあるだろうと考えていたんです。しかもキヨ子は藤澤の妻として、芸術家の特殊な心の動きを感じ取りながら、自分自身の我も通したい人物。すごく複雑なんです。でもオーディションの時点で護さんは、これを成立させていたんですよ。自然な説得力がありました。育った環境が大きく影響しているのでしょうね。
護:オーディション時にそこまで見てくださっていたんですね。嬉しいです。
高羽:古河さんも護さんも、役のもっとも難しい部分をオーディションの時点で掴んでいた印象があります。藤澤もキヨ子も特有のワガママさというか、自己中心的なところがあるのですが、それを的確に捉えていました。役者さんって割と協調性のある方が多くて、いくらお芝居とはいえ、その中でワガママに振る舞うのって難しいことだと思うんですよね。おふたりの持っている社会の枠に収まらない感じが、それぞれの役に合っていたのかもしれませんね。やっぱりオーディションをやってよかったです。
──おふたりは台本を読んでみて、どのような印象を抱きましたか?

護:まずは自分の演じるキヨ子の視点ではなく作品の全体像を掴もうとしているところです。戦争を扱っている作品だからなのか、読むたびにつまづきがありますね。物語の流れもそうですが、登場人物同士の関係性や、彼ら彼女らの日常の背景に関してもそう。そもそも高羽さんがどの視点から書いたのか、本作の着想は何なのか、お聞きしたいことがたくさんありますね。特定の登場人物だけに焦点が当たっているわけではなく、戦時下において一人ひとりが考えていることも違いますし。
古河:僕は個人的にそこが本作のすごいところだと思っています。高羽さんの作家としての力量の大きさを感じますよね。
護:そうですよね。高羽さんの言葉選びも好きですし、何度も何度も読み返したくなります。
古河:僕は逆で、途中で読めなくなるんですよ(苦笑)。高羽さんの書くものは、それぞれの人物がちゃんとそこに存在しているから。僕自身が登場人物のことをよく分かっていないと、読むのが止まっちゃうんですよね。これは普段からそうなのですが、上演を観ていない場合、自分の脳内で登場人物にセリフを喋らせなければならない。でも僕がその登場人物のことを理解できていないと、喋ってくれなくなるんですよ。これってつまり、各登場人物が表面的ではなく、ちゃんと生きている証だと思います。僕はこのインタビューの少し前に、ようやく最後まで読むことができました。
高羽:え、それは大変ですね。その読み方って、すごく珍しいタイプじゃないですか。ただ文字情報を追うだけじゃなくて、一人ひとりのキャラクターを古河さんなりに役づくりしながら読むってことですよね?
古河:そう。ちょっと声に出して読む感じです。
高羽:大変だ……。登場人物が多いとさらに大変ですね。
古河:そうなんですよね。とはいえ、作品の核になっているシーンを読むのが大変なだけで、どれだけ登場人物が多くてもすんなり読めるものだってありますよ。それがたとえ、古今東西の大家が書いたものだったとしてもです。この作品は核となるシーンだらけだということですね。
護:自分が演じる役以外に対しても高い理解度がなければ、この作品を成立させるのは難しいのだろうと感じています。でも、それでいて私としては、すらすらと読めるから不思議なんですよね。
──おふたりの戯曲との向き合い方の違いが面白いです。とはいえお話を聞いていると、すでに掴んでいる重要なポイントは同じようですね。
古河:じつは僕、初演を観ているんですよ。
高羽:え、そうなんですか。
古河:はい。でも、いただいている台本はあの頃と同じものですが、印象はまったく違いますね。月日を経て自分が歳を取ったというのもあるけれども、やっぱり大きいのは時代の空気の変化ですかね。一口に「戦争」といっても、初演時といまとでは、上演する我々も観客のみなさんも受け取り方が違う。だから正直なところ、初演がどんなものだったのかは、あんまり意味をなさないのかなと。これも個人的にワクワクしているポイントです。
高羽:『帰還の虹』は10年以上も前に書いた作品で、じつは当時の資料がまったく残っていないんですよね……。タカハ劇団の制作体制もいまほどではなかったこともあって、映像どころか写真すら残ってないんです。記録を残さなきゃいけないとは、誰も考えていなかったという(苦笑)。なので今回もスタッフは当時のメンバーで、まずは思い出すところからはじめています。まさかそれを古河さんが観ていたとは。
──そもそも高羽さんはどういった想いから『帰還の虹』を書き、この2025年に再演することになったのでしょうか?

高羽:初演時の2014年というと、集団的自衛権の閣議決定をするかどうかということが国会で議論されていました。大きなデモが起こり、それまで政治的な運動に参加したことのなかった人々が積極的に動いているのを目の当たりにしていました。芸能人の中にも、名前を出して声を上げる人が多くいましたね。それで私もはじめてデモに参加したのですが、結果として閣議決定されてしまいました。そのときに、ものすごく強い危機感を持ったんですよ。あの当時は東北の震災からまだ数年というところで、世論も大きく揺れていました。原発に関する議論などが活発に交わされていましたよね。
──世の中が動いているのを肌で感じていたので、よく覚えています。
高羽:あの頃ってSNSの隆盛期で、私も含めた多くの演劇人が、Twitter(現:X)で個々の意見や政治的な考えを発信するようになっていく頃でした。そんなところ、当時のマネージャーさんに「やめてくれ」って言われたんですよ。政治の話も、原発の話も、SNSで発信しないでくれって。それに対して私はめちゃくちゃ腹が立ったんです。彼の言い分も分かるには分かりますよ。テレビ局をはじめ、さまざまな媒体には大きなスポンサーが関わっていますから。彼の考えとしては、社会に対して訴えたいメッセージがあるのなら、作品に込めればいいじゃないか、というものでした。
──とても難しい問題ですね。
高羽:彼の言いたいことは分かります。だから一度は引き下がったのですが、本当にこれでいいのだろうかと思ったんですよね。世の中が大きく動いているときに、私はただ黙って見過ごしていて、あとで作品を通して世に訴える。果たしてそれでいいのか。そんなのんびりとしていられる事態なのだろうか。あのとき私の中に生じた憤りが、『帰還の虹』につながりました。
古河:なるほど。そうだったんですね。
高羽:この作品に登場するのは画家たちですが、私も脚本を書いたり演出をしたり、俳優として演じたり、つまりは表現する側の人間です。この表現する側の人間が黙っていることの責任の有無や、政治の動きに迎合することによって及ぼす影響について、もう少しちゃんと考えるべきだと思いました。それはこの2025年により強くなっています。
──いまではアーティストの方々など、政治的な発言がフランクに交わされるようになった印象があります。
高羽:そうですね。誰もが発信できるようになったのは素晴らしいことだと思います。でもそのいっぽうで、それがさらなる混沌を生み出してもいる。人間社会のいかんともしがたいところですよね。2025年は戦後80年なので、戦争について改めて考えるための作品を上演したいと思っていました。2月に上演した『他者の国』では、二・二六事件が起きた日のある一幕を描きました。戦争がはじまる頃のお話です。私としては『他者の国』と『帰還の虹』は二本立ての上演で、劇場という場で戦争についてみなさんと考えたいと思っています。
──『他者の国』もそうでしたが、ライブ空間だからこそ、非常に生々しい作品が立ち上がってくるのだろうなと思います。古河さんと護さんは俳優として、演劇という表現で戦争について語ることにどのような考えや想いを持っていますか?
護:私は演劇の自由なところがいいなと思っています。昨日たまたま『ザ・シンプソンズ』を観ていたのですが、それはバートという男の子がいじめっ子にいじめられて、みんなを率いて戦争ごっこをするエピソードを描いたものでした。1989年にアメリカで放送がはじまって、その後に日本でも視聴できるようになったので、私も幼い頃に観ていました。アメリカは戦勝国で、情操教育としてこのようなアニメがあって、それが普通に日本でも流れていた。勝者だから自由なのか、それとも表現というのは誰にとっても自由なものなのか。ふと考えさせられました。演劇はアニメ以上に、もっとずっと自由なものだと思います。しかもライブだからこそ、喜びも悲しみも友人同士のように共有し合うことができる。一緒に考えることができる。情報過多のこの時代に、『帰還の虹』を通して戦争や表現というものについてみなさんと考えられたらと思います。
古河:僕はとにかく演劇が好きなので、世の中のいろんなことを演劇を通して学んだり考えたりしてきました。ひとつの作品、ひとつの演劇体験とはいえ、観客ごとに捉え方は違ってくるものですよね。たとえば今回の作品でいえば、“虹”って何色なんでしょうか。みんな「七色」だって言いますけど、あれは光のプリズムじゃないですか。だから同じ虹を目にしていたとしても、どのように認識するのかは一人ひとり違うはず。それぞれの立場も考え方も違いますしね。演劇の面白いところは、この“違い”を持った人々が同じ空間で同じ時間を過ごし、やがて交わっていくところです。そのうち、考えの相違によって議論がヒートアップするかもしれないし、作品に触れたことで考え方が変わってしまうかもしれない。だから演劇というのは、一部の人々にとって非常にとっつきにくいものであったり、ときには危険なものになったりもする。僕は演劇だからこそできること、演劇にしかできないことがあると思っています。白黒はっきりさせたり結論を急ぐことなく、戦後80年のいま、劇場という場で議論を交わせたらいいですね。

取材・文:折田侑駿
写真:金山フヒト