Nana Produce Vol.23「ラストシーンを探して」| 寺十吾×田中美里インタビュー

演出の寺十吾から声がかかった作家の関戸哲也は、今回のNana Produce vol.23に向けていくつかのプロットを用意したそうだ。それを、主人公を演じる田中美里をはじめとするキャストも含めた座組で検討。結果、ラストシーンが書けない脚本家の話と、2020年の渋谷・幡ヶ谷のバス停での女性ホームレスの殺害事件をもとにした話の、2つのプロットをくっつけた『ラストシーンを探して』が誕生した。みんなで選び、みんなで模索しながら立ち上げているこの芝居。寺十と田中が、苦しくともものづくりの醍醐味にあふれる現場を語ってくれた。

──まずは稽古が進んだ今どんなことを感じておられるのかお聞きできればと思います。

田中 寺十さんが求めているものをなかなか自分の中から引っ張り出してこられなくて(苦笑)、稽古を重ねるたびに自分の引き出しのなさを痛感しています。

寺十 これはリアルと不条理が混ざったようなお芝居なので、理解したり解釈したりするのに手こずるのは確かなんです。だから、引き出しの問題ではなく、この作品が手強いと言ったほうが正しいと思います(笑)。

田中 はい、手強いです(笑)。同じようなシーンが繰り返しあって、「え?」とか「は?」とか「ん?」っていうセリフも本当に多いので、「今はどこの『は?』だっけ。『は?』じゃなく『え?』だっけ」となるんです(笑)。

──田中さんが演じられるのは脚本家の早苗で、お芝居には、早苗の現実の部分と、早苗が書いている脚本の部分が入り混じります。しかも、何度も書き直してその度にその物語が演じられるので、確かに、どこをやっているのかわからなくなってきそうです。

田中 ここはリアルなのか物語なのかというのも混乱してくるくらいなんです(笑)。本当に難しい。今までやってきた作品の中でも一番難しいかもしれないなと感じています。

寺十 ただ、第5稿くらいまで脚本の関戸くんには書き直してもらっていて、それこそ『ラストシーンを探して』というタイトル通り、あれでもないこれでもないと模索しながら進んできて、これでもわかりやすくはなっているんです(笑)。でも、ラストの2、3行がまだ決まっていなくて。作家と演出家がそこまで探しているなら、みんなで探そうかということになり、わざと空白にしておいて、アイデアを出し合いながら今稽古をしているんですけど。その作業が演劇的で面白いなと思いますし、そのもがき苦しんでいる様子が舞台で面白おかしく出ればなと思っています。

田中 そのもがいている今の自分と、早苗が脚本のラストシーンを探している姿が、すごく重なるんです。おまけに、早苗の中でもいろんなことが起こるので、「今私は誰なんだろう」とわからなくこともあります。

寺十 だから、役作りをするというものでもないんですよね。前に「少年王者館」の天野天街さんと「KUDAN Project」というのを立ち上げて二人芝居で世界を回ったことがあるんですけど。「この人は誰で何をしている人でどこから来て何を目的としているのか」ということが一切書かれていなくて、セリフのやりとりがあるだけの台本だったんです。それこそ解釈するなんていうことがまったく機能しない。演じていても面白いのかどうかもわからない。でも、台北での初演が終わったら、スタンディングオベーションだったんですよ。それがどんな舞台だったかって言うと……って話し出すと長くなるんですけど(笑)。

田中 聞きたいです(笑)。

寺十 まずドーンと音楽が鳴って、世界で大惨事が起こっている、ピサの斜塔も倒れたというような話があった最後に、「ただし、俺んちを除いては」と言うんです。そのあとパッと舞台に明かりが入って、カウンターのある部屋が見える。そこに僕がお中元のスイカを持って入ってくるんですけど、部屋にいる男が足の爪をハサミで切ってはコップに入れていて、飛んできた爪を僕が拾って匂いを嗅いで元に戻すんです。で、僕が来たことに気づいた男が「いらっしゃいませ。何にいたしましょう」と言う。僕は「爪の入っていないコップをください」と答える。そういう、どう解釈していいかわからないやりとりが延々続くんですよ。だから、そこで鍛えられてわかりました。不条理なものを深く考えるのは無駄だと(笑)。とにかく泳いでみて、振り返ったらどんな波をくぐり抜けてきたのかわかるというか。セリフやシチュエーションが連れて行ってくれるから、自分で行こうとか作ろうとかしないで、探したり見つけたりするほうがいいんじゃないかなと。

田中 「早苗を探して」ですね(笑)。

寺十 そうそう。それに、リアルな部分もちゃんとあるから。

田中 そうですね。早苗が言う言葉には、私自身に突き刺さるものもあるんです。「キャリアばっかり上がっちゃって」なんていうのは、まさに今の私だなって思ったり(笑)。でも、不条理の部分も、寺十さんの世界に入って、そこに自分がちゃんと乗っかれば、違うところへ連れて行ってくれるという安心感はあるんです。だから、この作品を乗り越えた先には何かあると思っています。

──早苗が書いている脚本は、幡ヶ谷のバス停でホームレスの女性が撲殺された事件をもとにした『キリちゃん』というドラマ。劇団員だったキリちゃんが日の目を見ない存在だったこともあり、セリフの中に、「主役・チョイ役」、「見えている人・見えていない人」といった言葉も出てきます。今の社会にとってもキーワードとなりそうですが、この言葉についてどんな思いをお持ちになっていますか。

田中 チョイ役も自分の物語では主役であって、誰かに必要とされているんだというようなことを早苗が言います。その意味では、この『ラストシーンを探して』という作品自体も、全員が主役という気持ちがこもった物語になっている気がします。

寺十 誰もとりこぼさず、みんなそれぞれにいいシーンがあるんですよ。それがどんなタイミングでどんなふうに観ている人を引き込むか。演劇っぽい配置になっていると思います。あと、芝居の中ではキリちゃんが、自分の影が薄いという意味で言っている言葉ですが、僕自身は今、人が周りを見なくなっていて、自ずと自分以外がチョイ役みたいな状態になっている気がしていて。例えば、電車内で目の前にヘルプマークを付けた人が立っていても気づかない。電車で化粧をしている人にとっての周りはチョイ役どころかコロス(※)でしょう。それはちょっと寂しいことだなと。だから、作品の楽しみ方はもちろんそれぞれでいいんですけど、観終わったときに少しでも、忘れていた誰かのことに思いを馳せてもらえたらいいなと思うんです。過去、今、そしてこれから先の、自分の周りの人のことを見よう、見直してみようと思う。そんな作品になったら嬉しいです。

インタビュー・文/大内弓子

※演劇用語のひとつで、 映像作品のエキストラのような、明確な役名が無い役割のこと。