いいへんじ『われわれなりのロマンティック』│中島梓織 インタビュー

『ままごと』『iaku』『劇団普通』『マームとジプシー』『小松台東』『ぱぷりか』『劇団アンパサンド』——
小劇場界の次世代を担う劇団が数多く選ばれてきた、若手の登竜門「MITAKA“Next”Selection」。
第26回となる今年は、「いいへんじ」と「東京にこにこちゃん」の2劇団がラインナップされている。

今回は、今年の3月末に三鷹市芸術文化センターを退職するまで、出演劇団の選出に関わってきた演劇ジャーナリスト・森元隆樹が、「いいへんじ」主宰・中島梓織にインタビュー。
創作の原点から今回の作品に込めた想いまで、率直に語られたその言葉から、劇団の現在地と未来が見えてくる。

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中島さんとは何度もお会いしていますが、なかなかじっくりお話しをする機会がなかったので、今日は、今回の作品の話に加えて、中島さんの昔の話も聞いてみたいなと思っています。

中島:よろしくお願いします。

出身は茨城県なんですね。

中島:生まれも育ちも、茨城です。18歳で上京するまでずっと茨城にいました。

私が三鷹時代にお世話になった「劇団普通」の石黒麻衣さんも茨城出身で、最近は茨城弁で作劇されていますが、ご覧になったことはありますか?

中島:はい、あります。三鷹での上演も拝見しています。演劇を観ているというよりは、実家に帰ったみたいな感じで観てましたね。聞いたことのある会話を、ずっと聞いてるみたいな。内容もそうですし、イントネーションも。多分、同じ茨城県でも、石黒さんとは少し地域が違うと思うんですけど、訛りとかはほとんど一緒なので、繰り広げられる物語を、すごく複雑な気持ちになりながら観たりしていました。

「私も茨城弁で作品を書いてみようかな」とか、思ったりしました?

中島:実は今回の作品、ちょっとだけ茨城弁が出てくるシーンがあるんです。

おお、それはそれは!(笑)。

中島:舞台の基本設定は東京なんですけど、主人公を茨城出身の設定にしたので、実家に帰るシーンがあったりして、ちょっと出てきます。

なるほど!9月4日のマチネ公演のアフタートーク、石黒さんのご出演ですものね。楽しみだなあ。

中島:そうなんです。「茨城トーク」もできたらと思っています(笑)。

小さい頃からずっと茨城で過ごしていたとのことですが、結構東京に遊びに行くことが多かった感じですか?それとも、滅多に行かない感じでしたか?

中島:大学に入るまでずっと茨城だったんですが、ほとんど東京に行ったことは無かったです。しっかり自分の意思で東京に行ったのは、高校生の時に、演劇部の先輩が下北沢のスズナリ劇場に連れてってくれた時が最初ですね。劇団「渡辺源四郎商店」の舞台で、東京で芝居を観たのはそれが初めてでした。それまでは、本当に茨城の田んぼと畑の中で育っていたので、演劇みたいなものに触れることはほとんど無くて。

茨城もいろいろな場所があると思うけど、中島さんの周りは、田んぼと畑だったのですね。

中島:ええ、高校生までは、本当に田んぼと畑の中で暮らしていました。だから、高校で演劇部に入るまでは、たまに学校に来てくれた鑑賞会みたいなもので見ただけで、演劇を能動的に観たことは全くなかったです。

それで、高校生になって演劇部に入ったのは、何か理由があるんですか?

中島:中学生の頃に、自分が志望校と考えていた高校があったんですけど、私が入学する前の年に新校舎になって、その新校舎のお披露目会みたいな催しがあったんです。「受験を考えている人も見に来てください」みたいな感じだったので行ってみたら、たまたま演劇部が公演をやっていて、それを観て、「あ、これやりたい」と思ったんですね。

それは、演劇に少し興味あったから?それとも雛が孵って最初に見た親鳥に付いていく感じ?

中島:中学の頃はバスケ部だったんですけど、体育会系みたいなのに自分は合ってないなあと思っていて。文章を書いたり、表現したりするようなことをやってみたいなという気持ちが、その頃なんとなくあって。でも中学まではそういう機会が全く無くて、高校に入ったら、運動部じゃなくて、何かしら文化部に入ろうかなと、漠然と考えていて。

なるほど。

中島:その演劇部の公演を観た時に「あ、自分たちで作れるんだ」みたいな。演劇って鑑賞するものってイメージがあったんですけど、「高校生たちで、それを作れるんだ」って。演技もそうだし、台本書いたりとかも、なんとなく興味があったので、そこにぴったりはまった感じですね。

中学の頃はバスケをやってたけど、本を読むのも好きだったとか?

中島:実は私、あまり本を読まないんです。書きたいことはあったけど、読むほうには、あまりいかなかったですね。

じゃあ「何かを表現したい」と思った原風景は、どのあたりに感じてますか?

中島:原風景で言えば、幼稚園か保育園のころ、自分で絵本を書いてました。

すごいですね!その絵本って、まだあるんですか?

中島:うわあ、どうだろう(笑)。実家に帰ったらあるのかな?(笑)。童話の「北風と太陽」のオマージュみたいな、太陽と雲が出てくるような、そういうものを書いた覚えがあります。

絵を描くのも好きだったってことかな?

中島:全然上手くはないんですけど、小さい頃は絵も好きで。だからみんな外で遊んでいるけど、私は室内で絵本を書いているという感じで。そしたら先生がこう、ちょっと本みたいにしてくれて。

すごいなあ。絵を描くのが好きで漫画を描いてる子はいたような気がするけど、絵本は記憶にないなあ。結構褒められたりしたのかな?

中島:周りに同じようなことをしている子がいなかったので、書いたこと自体にびっくりされたみたいな感じだったかもしれません(笑)。「絵本書いたの!?」みたいな。

幼稚園や保育園の頃だもんね。本を読むことが好きだったり、読み聞かせしてもらうのが好きだったりはあっても、自分で書こうっていうのはね。

中島:具体的にこの表現がいいみたいなのは、演劇に出会ってからなんですけど、それまでも、自分が考えてることを、表現したいみたいなことは、その頃からずっとあったのかもしれません。

そんな原風景も経て、高校で演劇部に入部することになりますが、活気のある演劇部だったの?

中島:そうですね、県内ではいわゆる強豪校、みたいな。顧問の先生も、早稲田大学で演劇をやってた先生で、熱心でした。ただ、精力的に活動してはいるんだけど、なかなか県大会から関東大会へは進めなくて、という感じでした。

じゃあ、高校時代は、かなり演劇に打ち込んだ感じ?

中島:結構頑張っていました。自分が入学した次の年が、ちょうど茨城県で高校演劇の全国大会がある年で。通常は、関東大会に進んで、そこで上位にならないと全国大会まで行けないんですけど、前の年の茨城県大会で最優秀賞を取れたら、開催県枠で(翌年の全国大会に)出られるという仕組みでした。「よし!そこを目指すぞ!」って、先生たちも気合が入ってたんです。

なるほど!

中島:そうしたら顧問の先生が、「今年は生徒の創作した作品でやってみようと思うんだけど、誰か書いてみたい人いる?」と提案してくれたので、手を挙げて、人生で最初の戯曲を書きました。

おお、高校一年で。それでその作品は?

中島:ありがたいことに県大会で最優秀賞を取りまして、そのまま全国大会に出させていただいたんです。

すごいなあ。その作品、今でも自分で振り返ることはありますか?

中島:ちょっと恥ずかしくて読み返せないですけど(笑)。ただ、この感情ってなんなんだろうとか、自分が抱えている気持ちってなんなんだろうって考えちゃう感じとかは、その時からあったなあって、思い出すことがありますね。多分、そこにずっと興味があって、それが書きたいんだなあと。それは、高校時代から変わってないなって思います。

観てみたいなあ。いつか、特別に上演とかどうですか?

中島:ちょっと恥ずかしすぎます(笑)。

期待してます(笑)。で、演劇を結構頑張っていた高校時代を経て、早稲田大学に進学する訳ですが、早稲田で演劇をやりたいという気持ちが大きかった?

中島:そうですね。最初は芸大とかも考えていたんですけど、演劇部の顧問が早稲田出身でしたから「早稲田はどうだ」って言われてたので、学部を調べてたら、早稲田の文化構想学部が割と自分と親和性が高いかなと。文学部もあるんですけど、文学部はどちらかというと、いろんなメディアを研究していくって感じかなと思って。それに対して文化構想学部は、表現する方法を学べそうな気がしたので。

で、文化構想学部に合格して、早稲田の学内サークル「演劇倶楽部」に入るわけですね。

中島:いくつか演劇サークルを見に行って、他は結構、劇団っぽい感じというか、そのサークル全体で作品を作るみたいなところが多かったんですけど、エンクラ(=演劇倶楽部の略称)は、「新人公演までは面倒みるけど、そこからは自由にやっていいよ」というスタンスだったので、自分で劇団を立ち上げたり、自分が書いて演出する場を作れたらいいなと思って。

私は観劇するだけの、外から見ているだけの人でしたが、確かにエンクラには自由な雰囲気を感じましたね。

中島:その他の演劇サークルに比べると、もう何をやってもいいよっていう感じだったので、自分には合っていましたね。

同期は何人だったのですか?

中島:私を含めて6人でした。その頃の演劇倶楽部は、人数も少なくて、私の上の代は4人でした。でも私が新人担当だった大学3年の時には、13人入ってくれて。その中に、後に構成員になり、今回の公演にも出演する飯尾朋花と小澤南穂子もいたんです。

「いいへんじ」自体は、中島さんが大学一年の時に結成されたんですよね。

中島:そうですね。結成した年の秋に早稲田祭(=学園祭)があって、プレ公演のような感じで、短編を上演しました。そしてその後、旗揚げ公演と銘打って上演したのは2017年6月ですね。

旗揚げ公演は、どんな作品でしたか?

中島:人生で一番尖ってた時期で(笑)。早稲田の学生会館の演劇練習室という場所で、舞台セットを作らずに、観客用の椅子を大きな三角形の空間ができるように配置するんだけど、すべて外向きに置いて、役者はその三角形の中で演技するみたいな三人芝居でしたね。だからお客さんは、芝居を観ようと思ったら体を後ろに捩じって観る感じで、(体を捩じらない場合は)背中越しに声や音だけを聞いて観劇するという。だから物語を上演するっていうよりは、そういう実験的なことをいろいろやって、みたいな作品でしたね。

中島さんも出演してたんですか?

中島:私も出ていました。

出演しながら演出するのが、なかなか難しそうな舞台ですね。

中島:そうなんです。自分も出演しながら演出してみたら、全然客観的に舞台を観られなくて。だから終演後「私はもう出ない。出ない方がいい」って、皆に伝えました。

その舞台の再演は、いかがですか?

中島:舞台構成の方法論的にはいけると思うのですが、内容が、普段自分たちが実際に喋っていることなどを、文字起こしして再構成して作るみたいな感じだったので、やるとしたら、もう全く違うセリフになるように思いますね。

なるほど。作品の作り方としては同じかもしれないけど、単語が変わるということですね。

中島:今上演するとしたら、そうなりますね。

ちなみに、「いいへんじ」って劇団名は、すんなり決まったんですか?それとも難産の末に決定したんですか?

中島:劇団名の案を、私が50個、そして一緒に結成した松浦みるが50個作って、合わせて100個の案の中から、2人それぞれが3個ずつ「これがいい」っていうのを選んだところ、私も松浦も二人ともが挙げたのが「いいへんじ」だったので、すんなり決まりましたね。

「いいへんじ」は、どちらの案だったのですか?

中島:確か・・・私ですね。

「いいへんじ」に込めた思いは?

中島:いや、もう全然無くて(笑)。とにかく候補を50個作るのが大変で(笑)。それぞれの案を出し合う前は「ひらがながいいね」「略したりできないのがいいね」とか言っていましたが、実際に候補を作る時は意味とか全く何も考えてなくて。で、「いいへんじ」に決まってから、「応答みたいなこと」とか、「コミュニケーションの中で何か考える」みたいなところを、ちょっと後付けでというか、名前についてきたみたいな感じですね。

付けることができそうで、意外と付けられない劇団名に感じます。

中島:確かに、意味から考えていくと、なかなか出なかったかもしれないですね。

ほかの候補名、覚えてますか?

中島:何があったかなあ・・・私自身50個適当に書いたんで(笑)。ただの擬音みたいなのがあったような気がします。「ぐるぐる」とか「もふもふ」みたいな(笑)。擬態語みたいなのも多かったですね。

その結成当時、こんな集団にしたいねとか、話し合っていた思いはありましたか?

中島:結成メンバーの松浦と私が二人とも、劇団「贅沢貧乏」がすごく好きで、自分たちの実感に即した会話劇というか、自分たちが生きていて感じていることが、何かしらベースになっている作品を作りたいみたいな。当時は上手く言語化できてなかったんですけど、なんとなく「贅沢貧乏」に自分たちが感じていたような、「ちょっとへんてこな会話劇とか楽しそうだよね」とは話していましたね。

で、活動していく中で、やがて飯尾さんと小澤さんが劇団員になられて。

中島:最初はエンクラの後輩として関わる中で、「一緒にやらない?」って声をかけたのが2020年でした。ちょうど私が卒業の年でした。卒業しても演劇を続けるぞという思いが固まり始めたタイミングで声を掛けて、加入してくれました。

2020年と言えば、コロナの時期と重なりますね。

中島:そうなんです。2人が入ったので、宣材写真を撮り直そうということになったんですが、それが3月の末とか4月の頭ぐらいのコロナが心配され始めた時期で、「大丈夫かな?やめとく?でも、野外なら大丈夫かな?」と言って調整して、横浜で、風に吹かれながら撮ったのを、すごく覚えています。

大学卒業しても演劇を続けていこうかなっていうのは、いつ頃から思い始めたの?

中島:多分きっと演劇を続けていくんだろうなというか、自分にはこれなんだろうなみたい気持ちが、周りが就職活動のことを口にし始めた大学三年生ぐらいからあったと思います。

そしていよいよ、大学も卒業して演劇の世界に本腰をと思った頃に、コロナがやってきて困ったぞと。

中島:はい、困りました。本当に。

普通に演劇の道に進んでも、卒業してすぐの頃は大変なのに、その行く手にコロナがいると、ちょっとね。公演自体が打ちにくいからね。

中島:もともと2020年の10月に早稲田小劇場どらま館で公演をやることになっていました。でもやはり観客を入れての上演は難しいということになり、無観客で上演して配信しました。その時にやった作品『器』を、2022年にこまばアゴラ劇場で、完全版として上演することになりました。コロナの時期ではあったけど、その時なりに、手を動かしてはいました。大変でしたけど。

中島さんが脚本を書く時は、どういう風に進めていくんですか?

中島:結構変化してきたんですけど、大学入った頃から「いいへんじ」を始めて2、3年目ぐらいまでは、もう「思うがままに」みたいな感じで、若さというか、「自分が考えてることをバーって書く」みたいな感じでした。それから演出でやりたいこととか、コンセプト的にやりたいこともあったので、そちらの側面から内容をついてこさせるみたいな書き方もしていました。

というと、今は書き方に変化が?

中島:『薬をもらいにいく薬』(フルバージョンは2022年/こまばアゴラ劇場)あたりから、物語を書きたいというか、自分が書きたいこととか、表現したいことをやるために、物語の形にしようっていうふうに決めて、プロットとか人物の設定とかをきちんと決めてから書くようになりました。

書き上げた台本は、稽古場で結構変えますか?

中島:あまり変えないです。

脚本の段階で、演出家としての中島さんに渡す『シーンの絵』が出来ている感じ?

中島:演出はもう本当に、俳優さんの力を借りて一緒に絵を作っていく感じです。一旦劇作家の私が書いて、稽古場に持っていって、それを演出家の私が、俳優さんと一緒に立ち上げるという感じです。

なるほど。で、そこに舞台美術が加わると、美術によってこうも動けるとか、そういうことも加わっていく感じですか?

中島:そうですね。だから「自分の中で絵とかイメージがあって、それをやってもらう」っていうよりは、「スタッフさんも含めて一緒に作っていく」ことが多いし、そっちの方が好きですね。俳優さんやスタッフさんとの積み上げが楽しいというか、「完成に向かって進む」というよりは、「いろいろ試行錯誤をする」というのが好きだし、性に合っているんだと思います。

さて、今回のタイトル『われわれなりのロマンティック』ですが、すっと浮かんだ感じですか?

中島:タイトルって一番最初に決めることが多いんですけど、いつもあまり苦しまないです。今回も、なんとなく書きたいなと思ってた「ロマンティックオリエンテーション(=恋愛的指向)について」というところから膨らませていって、だんだんこう「そこに何がつくかな?」みたいな。「ロマンティックって言葉を使いたい」っていうところから、どんな言葉がつくとよいかっていうのを考えていました。自分の中で「あ、これかもしれない」ってなってからは、すぐに決められました。。

脚本の進み具合はどうでしたか?

中島:大変でした(笑)。プロットを考えるのに、めちゃくちゃ時間がかかりましたね。今回は、設定や物語の運び方で、自分が感じていることだけでなく、自分とは違うさまざまな属性を持った人のことも書いたりしたので、文献を読んだり、作品の土台を作るのにかなり時間がかかって、二ヶ月ぐらいかけて書きました。

中島さんは、全く筆が進まなくなった時って、どういう状況になるんですか?いろんな劇作家の人に話を聞いたら、「町を徘徊する」人もいれば、「トイレの前で気絶するように寝ていた」なんて人もいらっしゃいましたけど。

中島:泣いちゃいますね(笑)。あー、みたいな感じで(笑)。

0を1にする作業って、筆が進まなくなったら、もうほんとに1行どころか1文字も進まない時がありますからね。心中お察し申し上げます。

中島:今回は、進まないっていうよりかは、書いていて納得いかないみたいなことが結構多くて。一応書いたけど、なにか足りないとか、なにかこういうことじゃないみたいなところで、泣いちゃうみたいな。

なかなかジャストの表現が導けないことで涙が出てきてしまう。

中島:今回は自分と制作で脚本の締め切りを一旦決めていて、「完成稿ではなくても、とりあえずの初稿を4月に」という話をしていて、私自身、演出家の自分のためにも早く書き上げるぞって思っていたんですけど。(劇作家の自分と演出家の自分を)切り分けようと思っていたので、劇作家の自分が書き切らないと演出家の自分に悪いみたいなところがあって・・・泣いてました。

そういう時は、どうやって解消していくの?

中島:とりあえず寝ます。ただ、どうこう言おうが、書こうとしないと書けないから、とりあえず手を動かそうと自分に言い聞かせて、また書くみたいな感じでした。

そんな苦しんだ時期もあった今回の作品『われわれなりのロマンティック』。どんな作品に仕上がりましたか?

中島:「クワロマンティック」という、恋愛感情と友情の区別をしない人、またはできなかったり、恋愛感情っていう枠組み自体があまり自分にしっくりこないという恋愛的指向を持った2人が主人公で、その2人を軸にして、その他にもいろんなパートナーシップのあり方を描いている作品です。

手応えはいかがですか?

中島:この間、荒通し(=舞台セットや照明なども無い状態で、取り合えず最初から最後まで通して演じてみること)をしました。いろんな人が対話を重ねて、だんだん、ちょっとでも進むみたいな。いろんなところをぐるぐるした上で、やっぱり対話に戻ってくるみたいなところが、1対1の対話だけじゃなくて、いろんなところで起こったり、そういう世界があるということが希望になったりしたらいいなっていうのが、なんとなく見えてきたので、ここからちょっと密度を上げていきたいなっていう感じです。

粘れるだけ粘って、いい作品に仕上げてもらえたらと思います。中島さんは去年、三鷹市芸術文化センター星のホールに役者として出演(かるがも団地『三ノ輪の三姉妹』2024年8月31日~9月8日)していただきましたが、空間を把握するという部分では、大きい経験でしたかね。

中島:舞台に立つのと客席で観るのとでは、また違うと思うんですけど、実際に舞台に立った時に、意外と(客席まで)遠く感じたり、高さがあることで舞台に立っている感覚が今までと違ったりしたので、それを(キャストやスタッフに)シェアしながら、チューニングを合わせていく感じになったりするのかなと思っています。

なるほど。では今回、三鷹市芸術文化センター星のホールでの『われわれなりのロマンティック』楽しみにしております。

中島:もう本当にいつの間にか初日が近づいてきてしまいました。頑張ります。

今日はありがとうございました。

中島:ありがとうございました。

(8月12日収録)

インタビュー・文/森元隆樹
撮影/宮本七生