“メラメラと魂が燃えているみたいな作品に魅かれる”/『月の獣』栗山民也インタビュー

アメリカ・ウィスコンシン州出身のリチャード・カリノスキ―が、第一次世界大戦中に起きたアルメニア人迫害の実話に基づいて描いた『月の獣(Beast on the Moon)』は、1995年の初演から今日まで19か国語に翻訳、20か国以上で上演され、2001年にはフランス演劇界で最も権威ある「モリエール賞」を受賞した。
日本での初演は2015年。その際にも演出を手掛けた日本を代表する演出家・栗山民也が、映画、ドラマ、舞台と幅広いフィールドで活躍する眞島秀和と、早くから実力派女優として注目されていた岸井ゆきのをはじめ力強く魅力的なキャストを迎え再び演出する。
時代、国、民族、社会・・・状況は変われども、ふれあい、繋がり、絆に飢えて愛を渇望する人の姿は不変だ。お互いの苦しい過去を受け入れ、真の夫婦、そして家族になっていく―人間の本質を描いた本作品に再び向き合うこととなった栗山民也に話を聞いた。

 

――再演のきっかけとなったことはあったのでしょうか?

ヨーロッパだとシーズン制とか、長くて1年くらい上演しているでしょう。そうすると演劇作品は生きものだから上演するほど強く美しくなっていく。日本の場合はいろんな条件でどうしても限界があるから、もっと上演したいと思っても難しい。だから心残りというか、ずっとこの作品は僕の中で生きていて何か機会があったらって思っていたんです。今年『チャイメリカ』を上演したときに眞島秀和と出会って「あぁ、彼なんかいいなぁ」って。それと昨今の状況から、文化の持つ力をもう一度僕らは確かな形で確認していかなければという思いもあって。演劇は確かにエンターテインメントでもあるんだけど、真正面から人間をもう一度見つめ直すというか、世界の在り方をみんなで学ぶっていうことがまず必要なんだと思う。日本の今はどうしても分かりやすい方へ楽しい方へと流れていく傾向がある。エンターテインメントがいけないというわけではないんだけど。『月の獣』の何に惹かれるかっていうと、登場人物の小さな声がお互い容赦なく突き刺ささっているし、その言葉の力が観ている僕たちにも痛く響いてくるっていうところ。人間って楽な方に逃げようとするから、この暴力の連鎖が今も続く時代に、確かにあった歴史の痛みを消し去ってはいけないと強く思うんですね。

 

――初演時は本作のどこに惹かれていたのでしょう?

パリに親友がいて、もう亡くなっちゃったんだけど、よくパリに出掛けていたんです。その時に出会ったフランスの多くの演劇は、今も僕の中に残るすごく貴重な時間で、その彼から面白いという戯曲を何本か貰っていて本作はその中の一本でした。それでパリで『月の獣』が上演されたときの主演俳優が、太陽劇団(テアトル・デュ・ソレイユ)の俳優であるシモンだったんです。彼はアルメニア出身なんですね。だからとても大事にしていた戯曲だったし、読むたびにシモンの少ししゃがれた声が聞こえてくるようだった。『月の獣』はアルメニアからアメリカに移民した男と女の話なんだけど、そこに陰惨な過去の事実がリアルに語られる。ずっと15年くらい温めていたかな。どこかで上演できないかって。
演劇って時代と向き合うことで意味を持つものだから、「今、これを」って思った時に上演したい。2015年はアルメニアの迫害が起こった年からちょうど100年にあたる年で、もっともっと多く公演をしたかったんだけど、その時は無理だった。でも今回再び向き合っても、現在のために書かれた現代劇のようなラジカルな作品に思える。「演劇は、歴史の記憶装置」。これは、パリの演劇学校で聞いた言葉なんだけど、今のこの時代、特に大事にしなくちゃね。

 

――眞島秀和さんと『チャイメリカ』で会われてどういうところに魅かれましたか?また、岸井ゆきのさんについては?

「ひとのことなんて、どうでもいいよ」っていう風で、自分だけの飾らない個性で情熱的なんだけど、自然にそこにいるって感じなんですね。本作のアラムという男の、なんかまっすぐで一つのことをじっと見つめている姿ととても重なる。今のこの国の印象が、どうもみんなのっぺりした同じ顔で、みんな同じ方向をぼんやりと向いているようで。人間関係でも自分が傷つきたくないから、誰が決めたのかもわからない標準のラインに必死になってしがみついている。だから彼の自然な居方が、面白い。それと岸井ゆきのさんとは最近飲みながら初めてお話ししたんだけど、あの声と、ある時は柔らかで、またある時はしっかりとした鋭い目線をくるくると変える表情に、正直すっかり見惚れてしまったね。このドラマのセタという妻の、少女から女へと成長する過程を稽古場で一緒に創れるのが、とても楽しみ。

 

――キャストも変わるということで演出も変えるところはあるんでしょうか?

作品には全てを費やして作っているから、自分の視点の根っこみたいなものは基本的には変わらないですね。でも上演のたびに全然ちがったものが自然と見えてくるもので、俳優も変わるから、その変化を楽しみながら対応して作っていく。白を黒にはできないけど(笑)。

 

――4年経って社会的にも変わってきている中で作品にも影響されるところはありますか

やっぱり聞こえてくるそれぞれの言葉の音がちがって聞こえてくる時がありますね。前やったときにはスーっと綺麗に流れていたことが、その時代には危険なぐらい鋭角的にゴツゴツと聞こえてきたりね。戯曲は、綺麗に仕上がったものよりも、構成的にたとえ少々破綻があったとしても、なんだか物語の中でキラキラと魂が燃えているみたいな作品に、僕は魅かれるんです。

 

――物語の中に考える余地があるというか

昔はもっとこうやったら楽しくなるかなとか、色んな事をベタベタとくっつけてやっていた。だけど最近はそれを出し切ったところで、その後余計と思うものを一つひとつ取り除いていく。最後に残ったものだけがそこに存在しているっていうのが好きになって。年のせいかな。僕の入り口は「能」だったんですよ。だからそこにまた戻ってきたみたいな感じがして。俳優がそこにただ立って言葉を自分の魂から発している、そんな嘘のない瞬間に出会いたいんですね。でも、それは何の説明もないからとても分かりにくい。けれど見る人によっての想像力でそこには多様な色彩の風景が必ずや見えてくるはず。そんなぎりぎり最後まで残った表現がすごく大事に思えて。だから観客には少し親切ではないかもしれない。でもそれは嘘じゃないから、ちゃんと見てくれて、ちゃんとした俳優との出会いがそこにあれば、何かがきっと生まれるだろうって信じています。

 

――本作をご覧になるお客様にメッセージを

幸せを作るのも人間だし、悲劇を招くのも人間。だから悲劇を生んでしまったその事実を見つめ、考える必要がある、歴史から忘却された人たちの声をもう一度しっかりと再生するのが僕たちの仕事。命半ばで絶たれた人たちに劇作家が言葉を与えることで、もう一度生きられる。それを現代の俳優の肉体に宿す、そのことが演劇の仕事だと思う。今世の中で失われているものを見つめていくために、演劇を通して観客と語り合いたいですね。

 

プロフィール
演出 栗山民也
東京都出身。早稲田大学文学部卒業後、1980年『ゴドーを待ちながら』で演出家デビュー。その後、『日本人のへそ』『國語元年』『闇に咲く花』『黙阿彌オペラ』などを演出し、注目を集める。1996年『GHETTO ゲットー』の演出で紀伊國屋演劇賞、読売演劇大賞最優秀演出家賞、芸術選奨新人賞を受賞。1998年新国立劇場芸術参与、1999年『エヴァ・帰りのない旅』で毎日芸術賞第1回千田是也賞、読売演劇大賞最優秀演出家賞受賞。以降、朝日舞台芸術賞、芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章、菊田一夫演劇賞など受賞。また新国立劇場演劇部門芸術監督を2000年より7シーズン務めた。近年の演出作に『トロイ戦争は起こらない』『フェードル』『デスノートTHE MUSICAL』『チャイメリカ』など。2019年『母と暮らせば』『チルドレン』で読売演劇大賞 大賞・最優秀演出家賞受賞。

 

ストーリー
第一次世界大戦の終戦から3年が経った1921年、アメリカ・ミルウォーキー。
生まれ育ったオスマン帝国(現・トルコ)の迫害により家族を失い、一人アメリカへと亡命した青年・アラムは、写真だけで選んだ同じアルメニア人の孤児の少女・セタを妻として自分の元に呼び寄せる。新たな生活を始めるため、理想の家族を強制するアラム。だが、まだ幼く、心に深い闇を抱えるセタは期待に応えることができなかった・・・。
二人の間に新しい家族ができぬまま年月が経ったある日、彼らの前に孤児の少年が現れる。少年との出会いにより、少しずつ変わっていくアラム。
やがて彼が大切に飾る穴の開いた家族写真に対する思いが明らかになっていく。