“今日もまた起こる。
電車の中で無闇に刃物を振り回し無関係な老婆が亡くなった。
捕まった無職の男は、誰かを殺して自分も死刑になりたかったと言う。
雑居ビルにガソリンを撒き火を放った老年の男は、天罰だと叫んだそうだ。
路上で煙草を吸っていたサラリーマンの背中をいきなり傘で突き刺した若い男は、ルールは守れと幾度も呟く。
ビルの屋上から若い女が飛び降り、スーパーでマグロの刺身を万引きした老婆は、淋しかったと涙を零した。
鈍色の空を見上げると、名前の知らない大きな鳥が飛んでいた。
奴らの足音が聞こえる。いよいよやって来た。”
舞台『ケダモノ』には、そんな不穏なイントロダクションが綴られている。
脚本・演出は、些細な日常の軋みや綻びから人間の暗部に迫る赤堀雅秋。俳優陣には、大森南朋、田中哲司というなじみのメンバーに加え、門脇麦が赤堀作品に初出演。さらに、荒川良々が独特の存在感で爪を立てる。
舞台となるのは、山に囲まれた閉塞的な田舎町。「できれば普遍的な話を描きたいと思っている」と言う赤堀が、あえてコロナ禍を題材に瑣末な人間模様を描く。この『ケダモノ』というタイトルは、どんな物語を暗示しているのだろうか。
今の世の中に漂う虚無感とか諦念を描きたい
――昨今の世相を反映したようなイントロダクションのテキストが印象的でした。みなさんはこのイントロダクションをお読みになってどんなことを感じましたか。
田中 ここに並んでいる事件は全部実際にあったようなの?
赤堀 適当に雰囲気で書きました。だから、実際にあったことばかりではないですけど。
田中 まさに赤堀くんの世界を表しているというか。これを読んだだけで満足できるくらいのいい文章ですよね。
赤堀 まあきっとこれを読んで来ない人もいっぱいいるでしょうけど(笑)。
田中 そこで線引きができてね。
赤堀 北海道の人とか、これ読んでわざわざ観に来なさそうな(笑)。
大森 東京怖いですね、って。
荒川 でも今、テレビをつけたら流れるニュースが嫌なことばっかりじゃないですか?大変ですよね。
大森 これだけ読むと嫌な世の中だなと思いますよね。事件の裏側にはそれぞれいろんな事情があるんでしょうけど。
門脇 なんだかなとは思いますよね。ただ、観劇することは体験することだと私は思っているので。こういう時代の中で、劇場という場所で来てくださったみなさんと何か共有するものを探せればなと思います。
赤堀 あんまり書くことが浮かばなくて、はじめは『はじめ人間ギャートルズ』の『やつらの足音のバラード』の歌詞をそのまんま書いたんですよ。ただべらぼうな金がかかると(笑)。それでこれになったんですけど。
田中 『ギャートルズ』、好きなの?
赤堀 いや、放送当時はまだ小さすぎて、内容自体はあんまり覚えてない。
田中 大好きなんですよ。今もそれだけは捨てられずに漫画も全部持ってる。
荒川 哲さんの中にそんな優しい一面があるんですね。
田中 いや、あるよ(笑)。
赤堀 要はあの歌詞にある「なんにもないなんにもない」というような、今の世の中に漂う虚無感とか諦念を描きたくて。それを露悪的に描くのではなく、その中で一縷でも希望を見出せたらいいんですが。今はコロナ禍で、さらに戦争も起こっていて。日本人の中で鬱積しているもの、言語化できない塊みたいなものが内側にたまっていると思うんですよね。それをこの作品で描いてみたい。その象徴として昨今起こっているような事件をなんとなく羅列してみたという感じです。
赤堀作品では、自分の中にあるヤバい匂いを吐き出せる
――みなさんは赤堀作品のどんなところに魅力を感じていますか。
田中 下手したら全員クズと言っていいくらい、ダメな人たちが登場する。これだけクズたちが出てくるのって赤堀くんの舞台しかないと思うんです。俳優にとっては全身全霊でダメな人を演じられる場。他の作品だと悪い人でも本当はちょっといいところがあるんですよということが多いけど、赤堀くんの舞台はいい人の要素がまったくない役がやれる。それがストレス発散になるというか、演じる側としては楽しいんですよね。
大森 そういう凶暴的な匂いや狂気って自分にも絶対あると思っていて。僕の中にあるヤバい匂いを赤堀くんの現場では存分に吐き出せる。それは確かに気持ちいいものがあります。お客さんとして赤堀くんの芝居を観に行ったときも、そういう匂いを引きずって持って帰ることになるんだけど、それが不思議と嫌な感じでもないのが面白いんです。
門脇 日頃からみんなが見たくないような感情とか、忘れちゃいたいから忘れていることとかいっぱいあると思うんですけど、赤堀さんの舞台にはそういうものがひとつひとつ丁寧につまっている。だから、凶暴というところもあるかもしれないけど、私はいつも優しい舞台だなと感じています。
荒川 笑いのツボみたいなのが似ているんですよね。赤堀さんはどんなに社会的な地位のある職に就いている人が出てきても、だから偉いという描き方はしない。お医者さんも、カンカン集めをしている人もみんな一緒の人間。そういうところが好きです。
――赤堀さんは今回ご一緒する役者さんのどんなところに魅力を感じていますか。
赤堀 語弊がある言い方ですけど、お芝居が上手いとかそういうことよりも、佇まいが生々しいというか、市井の人をリアリティをもって演じてくれそうな人というのが、僕が魅力を感じる俳優さんの共通点で、ここにいる俳優さんはみんなそういう人たちですよね。クズとかゴミと呼ばれるような人間をリアリティをもって演じてくれそうだなと思って、今回キャスティングしました。
自分が美しいと思う瞬間もまた疑っていかなきゃいけない
――今回のタイトルは『ケダモノ』。また先ほどからクズといったワードが何度か出ていますが、みなさんは人間を美しいと思いますか。それとも醜いと思いますか。
赤堀 やっぱりそこは両面を孕んでいるものですよね。僕は人間を美しい存在として見ていたいから、こういう仕事をやっているんですけど。でも、ニュースで流れてくる戦争とか見ていると、ゲンナリしますよね。美しいとはとても言えない。こんな地球なくなってしまえばいいのにという乱暴な思いもこのタイトルに込められています。
荒川 この間、ガソリンスタンドで一生懸命働いている人を見て美しいなと思いました。人が一生懸命頑張っている瞬間は美しいですよね。もちろんその頑張りがうまくいけばいいんですけど、実際にはうまくいかないことの方が多くて。でもたとえうまくいかなくても一生懸命頑張っている姿は美しいなと傍目から見ていて思います。
門脇 最近、『進撃の巨人』にハマッているんですけど、あれも結局みんなが美しくあろうとした結果、戦争が始まって。で、途中でお話が一回転して、敵だと思っていた方が逆に攻められたり、主人公が殺す方になったりする。でもそれってみんなが美しくあろうとするがゆえなんですよね。美しくあろうとすることは難しいし、自分が美しく思うものも別の誰かからすれば醜いことかもしれない。だから、自分が美しいなと思う瞬間というのも疑っていかなきゃいけないんだろうなと思います。ただ、それでも美しくありたいなとは思いますけど。
赤堀 南朋ちゃんも哲さんも小さいお子さんがいるじゃない?子どもを見ると美しいって思う?
大森 思う。曇りがないというか、俺たちがなくしたものがそこにあるじゃない?だから美しいとは思うけど、子どもが遊んでいる横で、テレビでは戦争のニュースが流れてて。「これ、何?」って子どもに聞かれたら何て言えばいいんだろうってすごく考える。そうですよね?哲司さん。
田中 そうだね。すごく難しい。
大森 人間の中に美しい部分ももちろんあると思います。でも、ある芸術家がつくった素晴らしい作品があるとして、たとえばそれが中世につくられたものだとしたら、その時代にもいろんな殺しがあったり、負の歴史というのは確実にあるわけで。常にどの時代にもそういう醜い人間の一面がありながら、同時に人間にしか生み出せない美しいものがつくられて、それを共有して人は生きてきた。僕たちも今その歴史の只中にいるということなんですよね。だから、あとは自分の問題だと思う。美しいものも醜いものも自分の目で見た上で、いいかどうかをその都度自分で決める。その判断を時には失敗することもあるだろうし。でもそれが人というものだと思うんですよ。すごい、いいこと言いましたよ(笑)。
田中 見事に締まりましたね(笑)。
取材・文/横川良明