小栗旬インタビュー|彩の国シェイクスピア・シリーズ『ジョン王』

小栗旬が、彩の国シェイクスピア・シリーズ『ジョン王』リベンジ公演に挑む。本来は2020年6月に上演予定だったが、緊急事態宣言の影響で中止に。期せずして、大好評放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を経ての上演になった。同シリーズは、1998年のスタート以来、芸術監督・蜷川幸雄のもとでシェイクスピア全37戯曲の完全上演を目指し上演を続けてきた。蜷川から受け継ぎ、シリーズ2代目芸術監督に就任した俳優・吉田鋼太郎は、2021年5月に上演された第37弾『終わりよければすべてよし』でいったんのシリーズ完結を迎えたが、『ジョン王』を上演しないことにはシリーズは終われないという吉田の強い想いから、改めて2022年12月~2023年2月の上演が決定した。小栗にとって、同シリーズへの出演は2007年喜劇『お気に召すまま』以来となり、舞台出演自体5年ぶりの出演となる。20代は蜷川の元で数々の舞台に立ち、吉田とは『お気に召すまま』をはじめ、俳優としての共演を通して信頼を重ねた間柄だ。名実共に第一線の役者となった小栗は、久しぶりの舞台でどんなことを感じているのか。

 

――改めて2年越しの上演が決定しましたが、今の心境をお聞かせください。

単純にやりたかったので嬉しいです。僕はしばらく舞台から離れていて、5年振りの舞台なので、戻れるのかなと緊張はありました。間違いなく自分の中で演劇は筋肉だと思っていて、その筋肉を失いたくないから、最低でも1年から1年半に1本演劇をやりたいと思ってずっと生活してきたのですが、5年やっていないとなると、その筋肉を呼び戻すのにだいぶ時間がかかるだろうなと心配している部分もありました。

 

――稽古が始まって感覚が戻ってきましたか? 手応えなどはいかがですか?

意外と筋肉が記憶してくれているものだなと実感していますが、手応えというレベルにも達しないくらい、シーンをさらいながら段取りを付けている段階なので、まだみんな自分の役に手一杯の状態で進んでいます。「段取りだから」と言いつつ、鋼太郎さんがどんどん芝居を付けていくので、気が付いたら段取りじゃなくなっているんですが。

 

――その5年前の最後の舞台が、ミュージカル『ヤングフランケンシュタイン』、その前は、劇団☆新感線『髑髏城の七人 season花』。『ジョン王』とは違うジャンルの舞台かと思いますが、差異は感じていますか?

細かいことを言い始めると、違いはいろいろありますし、シェイクスピアと、ある種のショーみたいなものとは、全然違うなと思います。シェイクスピア作品自体は、16年振りです。

 

――シェイクスピアの台詞はいかがですか?

やっぱり面白いですね。本当にどうしてひとつのことをこんなに滔々と言わなければならないのかと思う瞬間はありますが、僕自身が20代前半の頃に比べたら、言葉に対する理解もありますし、逆に「このことを言いために、こいつはこんなにも言葉を尽くしたいんだ」と楽しめるようになっているかもしれません。

 

――シェイクスピア作品から離れた時間で、積み重ねた経験を経たからこそ感じたことですか?

そうですね。20代前半の頃は、言葉の意味や、この言葉がどういうことで誰にかかっているんだろうとあまり考えず、エネルギーでやっているようなところがあったので。「俺の台詞は、こんなところで、あの人にかかっているんだな」とか、「あの人のこの台詞が、この後の自分の台詞にかかっているんだな」とか、ひとつひとつピックアップしながらやっていくのは、やはり楽しいです。自分ひとりで台本を読んでいた時は「面白いかな?」と思いましたが、いざ蓋を開けて、キャストみんながそれぞれに声を出して作品が転がり始めると、意外と面白いんですよね。鋼太郎さんが目指そうとしている演出プランに、上手く全部がはまっていけば、ここ最近の中で言えば、飛びぬけてパワフルな芝居になるんじゃないかと感じます。もちろん全ての演劇を観ているわけではないのですけどね。

――「意外に面白い」というのは、役者が声に出すことによって、どんな違いを感じているのでしょうか?

ひとりで台本を読んでいた時は、戦争の中で人々がぶつくさ言っているばかりで、自分が演じるキャラクター・私生児も、なんでこいつは前半こんな感じだったのに、後半は急にまっすぐな男というか、しっかりした人間になっているんだろう、一幕と二幕で人が入れ替わったんじゃないか、なんて感じていましたが、「実は私生児の成長物語なんだな」と分かってきて、すごく面白くなってきました。斜に構えているところもまっすぐな役としても中途半端な人物だなと思っていましたが、いざみんなで本読み稽古をしてみると、戦争を望む人間たちのある種の緊張感をそれぞれが持ち込むことで急激に熱を帯びた作品になっていくと感じていて、そこがやっぱり面白いですね。

 

――その私生児役を、どういうところを手がかりに、役として構築していますか?

鋼太郎さんが「ひねた感じの私生児でやったら面白くないから、すごくまっすぐで、いろんなことをどんどん発見していって、気が付いたら本当に立派な人物になろうとしていく人ととらえると、面白くなると思う」とおっしゃっていたので、当初は違う考え方もしていましたが、切り替えたところです。

 

――演出を受けてみて、演出家としての吉田鋼太郎さんは、どういう人ですか?

熱い人ですね。僕らは蜷川さんの稽古場を知っているから、鋼太郎さんが蜷川さんを意識されて演出しているとは思いませんが、蜷川さんの稽古場でこういうことがよく起こっていたなと思い出すことも多いです。おふたりとも、まずは段取りから始めますが、役者の芝居が気に入らないとだんだん違うところに熱を持っていって、全然先に進まない。結構熱くなっていきそうだなと感じています。

――今回の座組みは、オールメール(男性俳優のみ)ですが、お芝居されていかがですか?

今のところは一回ある程度見てみようみたいな段階なので、まだそんなに熱を持ってやっていないですが、今日は玉置玲央君が死んじゃうんじゃないかなと思うくらい、大きな声で何度も何度も同じシーンをやらされていました(笑)。やっぱり男だけとなるとすごく気は楽です。部活みたいな感じなんですよ。どうしても女優さんがいると、僕も気を遣ってしまうタイプではあるので。逆に言うと、女性を演じなければいけない男優さんたちはすごく大変だと思います。ただでさえシェイクスピアは言葉や、いろんなことが大変な中、女性として見せなければいけないでしし、かと言って、男性がやっている面白味も出さなければいけない。僕らが男として男の役をやっている苦労よりも、しなければならない苦労がたくさんあると思います。挑戦している仲間がいるのも面白いですし、ひとつの勇気にもなりますね。

 

――彩の国シェイクスピア・シリーズの翻訳をご担当されている、松岡和子さんのシェイクスピア全集32『ジョン王』(ちくま文庫)あとがきに、「シェイクスピアは独白は特別な人物にしか語らせていない」と書いていらっしゃいました。小栗さんは独白の部分をどのように思っていますか?

自分の今回の独白みたいなものは、そこにちゃんと怒りの対象があるというか、基本的にシェイクスピアの独白は全部そうだと思いますが、ひとりでしゃべっているみたいなことではなく、必ず対象があって、それに対して怒りをぶつけているところが意外とあります。当時のシェイクスピアは、面倒くさい貴族などに何か言われたり、庶民の意見を聞いたりして台本を書き直したり、すごく気に入らない公爵とか誰かをモデルにして書いていたりして、この作品になっていると思うんです。例えば戯曲二幕の終わりにある私生児の独白みたいな、私利私欲というものに毒を吐くことに関しては、「800年くらい経っても人間って本当に変わんねえんだな」と思わされます。シェイクスピアは、そんなにいろんな考えがあって書いているわけじゃないだろうと、自分の中では思っているところがあります。ですが、作品が今の時代まで残って、上演され続けているということは、やはりそういう議論を産むことにはなるんだろうなと。本当にドラえもんがいたら、シェイクスピアを見に行きたいですね(笑)。

 

――現代に生きる私たちと変わらないと実感されているんですね。

シェイクスピアの場合は、登場する人たちが偉大な存在なのでどこか自分たちとは遠い話だと受け取ってしまいますが、人間の本質みたいなものを捉えて書かれているので、僕が言う独白も、ものすごくよく理解できるんです。自分の欲望に忠実だったり、自己嫌悪に陥るのは何なんだろうとか、現代と何ら変わらないというか。それを思い切り独白で毒づけるのは、なかなか気持ちがいいことです。

 

――思いがけず大河ドラマを経ての『ジョン王』になりましたが、改めて大河ドラマの経験が今回に生かされるようなことはありますか?

大河ドラマの経験が今回に活きることは、あまりないと思いますが、どちらも12世紀の同じ時代で、イギリスと日本で起きている史実という点で言うと、やっぱりこの時代の人間は野蛮で、そういう部分はつながっているなと思います。北条義時は鎌倉のために生きた人、私生児はイギリスのために生きた人なんですよね。

 

――ご自身には、大河ドラマは役者としてどういう成長をもたらしてくれたと思いますか?

撮影が終わってまだ少ししか経っていないので、すぐに自分の中で血となり骨となった実感はしていないですが、やっぱり1年5か月の期間を経て、いろんな方たちとお芝居をしてきて、最後まで迎えて、ある意味タフさみたいなものは付いたんじゃないかなと思います。

――『ジョン王』の公演初日に40歳のお誕生日を迎えられますが、改めて40歳という節目に向けての役者としての展望を、どんな風に考えていますか?

今はまったくないですね。しばらく休みたいです。『ジョン王』が終わる2月末からが、改めて自分の人生を考えていくタイミングかなと思っています。それ以降の仕事は、全て終わってからどうしたいか考えていきたいです。

 

――大河ドラマを拝見していて、ドラマだけれど、リアルなドキュメンタリーを見ているようというか、改めて演じるって何なのだろうと考えてしまったのですが、小栗さんにとって「演じる」とは何でしょうか?

1年5ヶ月間ひとつの役を演じさせてもらって、演じることの大変さをものすごく痛感しました。本来、ああいうテンションというか、役の深度みたいなものを、2ヶ月で撮る作品であろうと、1ヶ月で撮る作品であろうと、事前に準備しなければいけないと感じ、それは初めての経験でした。役が憑依するという言い方があまり好きじゃないですが、培ってきたものと、時間と、自分の中で積み上げられたその役に対する想いと、そしてその周辺にいる役たちへの想いみたいなものが、「人間の人生ってこういうことだよな」と感じられた1年5か月間を過ごさせていただきました。次から仕事を選ぶ時にも、自分がそのテンションでひとつの役を持っていけるだけの時間と、役に対するアプローチができると思ったものでないと、やってはいけないんじゃないかと思い始めています。そうなると、1年に1本くらいしかやらない人になってしまうかもしれませんが、徐々にできていけたらと思っていますし、本当の自分の欲を言えば、昔から言っていますが、映像よりも演劇のほうが圧倒的に好きなので、できれば演劇をやっていたいなぁと思います(笑)。

 

――舞台をやってくださるのは嬉しいです。そうすると、『ジョン王』の私生児も、その深度をこの稽古期間で深めていくことになりますか?

そうですね。でも、時代背景や彼の生い立ちなど、今回はそこの表現とはちょっと違うかもしれないと思っているところもあります。鋼太郎さんの望む世界観の中で、どういう立ち位置で振る舞うことが、一番の存在する意義なのか、見つけながらやっていきたいと思います。この『ジョン王』は、“戦争”に対しての、ある種の代弁者みたいなところがあったりするので、そういうことをひとつひとつ紐解きながら作っていけたらと思っています。

 

――改めて舞台での時間をどういう時間としてお届けできたらと思っていますか?

この作品、変な芝居だと思うんですよね。これがシェイクスピアなのかと言ったら、それもちょっとどうか分かりません。でも、人間がこういう特殊な環境に置かれてしまった時に平静を保つことの難しさや、自分というものを保つ難しさ、そういうものが渦巻いている空間になるのではないかと思っています。それがある意味、観に来てくださったお客様に、「あれは何だったんだろう?」と考えさせることのできる芝居になりそうだと感じていますので、お客様にとってのひとつのいい演劇体験になったらいいなと思っています。

 

取材・文・撮影:岩村美佳