1993年に『インタラクティブテクノ活劇 予定外』で旗揚げ公演を行ってから四半世紀。2018年はナイロン100℃結成から25周年にあたる。この記念すべき1年に、彼らは4月には『百年の秘密』の再演を、7月には新作『睾丸』(仮題)を上演する予定だ。主宰で、作・演出を手がけるケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下KERA)に、この25年間のこと、そして『百年の秘密』のことをたっぷりと語ってもらった。
映画よりテレビより、舞台のほうが痛切に自由度の高さを感じる
――そもそもを振り返ると、先に劇団健康(1985~1992年)としての活動があってから、1993年に改めてナイロン100℃として旗揚げしたことになるわけですが。その当時のKERAさんの想いというのは。
KERA「もう、ハッキリとは覚えていないんですよね。劇団健康時代は演劇をやりたかったわけではなくて、ただ「笑い」をやりたかったんです。明確な指針としてモンティ・パイソンがあった。だから、ナンセンスコメディばかりやっていたんです。それで、ある日限界を感じたんですね。その時ふと、笑い以外のものもやってみていいんじゃないか、と思ってしまったのが運のツキです。」
――では、いろいろなジャンルの作品を手がけていきたいので、というのがナイロン100℃起ち上げのきっかけ。
KERA「そういうことになりますね。健康を始めたころはそんなに長くやるつもりではなかった。でも8年間健康を続けるうちに、よその劇団の公演を観たりして、まあ、知ってしまったんですかね、演劇の面白さを。」
――それで1993年『インタラクティブテクノ活劇 予定外』で旗揚げして。その後の25年間で、KERAさんにとって特に印象深かった作品や、節目になったものはありますか。
KERA「いっぱいありますよ。節目だらけです。うまくいかなかったことで印象深いものもあるし、思いの他よくできたことで憶えている作品もあるし、お客さんがいっぱい入ったというのもあるしその逆もある。」
――ひとつひとつに、思い出がありそうですね。
KERA「ありますね。どれかを選べと言われても、ちょっと困っちゃうな。」
――25年の間には、大量の作品を上演されていますし。
KERA「しかも、ある時期まで本当に多作でしたから。今はめっきり減りましたけど。旗揚げから10年弱は本公演に加えてSide SESSIONも入れると、年間7本やっている年があったくらいです。」
――ちょっと信じられない本数ですよね。その最初の10年間にものすごい勢いで次から次へと公演を重ねていたのは、憑りつかれたかのようにどんどん書きたいものが生まれてきたから、なんですか?
KERA「いや、そんな立派な理由ではありません。あの多作期は自分のやっていたバンド活動が暇になったからというのが一番の要因です。時間ができた。健康末期からナイロン最初の二、三年は僕とみのすけと中野テルヲって人で組んでたLONG VACATIONがナイロンの劇伴音楽を担当していて、作品によっては出演もしていたんですよ。『1979』(1994年)や『ウチハソバヤジャナイ』(1995年)の頃。そのユニットが活動を休止して、急に暇になってしまった。すぐにケラ&シンセサイザーズというバンドを組んで、当初そこでは三宅が弾けないキーボードを弾いたりしてたんですけど、そちらは趣味程度のものになっていたので、そこから改めて演劇に本腰が入った。ともかく、何もしない時間があるのが不安でしょうがなかったんです。」
――それはKERAさんの性質として。
KERA「完全なワーカホリックなんですよ。」
――暇なのが嫌なんですね。
KERA「今は暇なの大歓迎ですけどね(笑)。当時は嫌だった。」
――そして、劇団健康時代からやられていたナンセンスコメディがあれば、物語が中心の作品もあり、岸田國士さんなど他の方の戯曲を使ったオマージュものがあったりと、公演ごとにいろいろなジャンル、カラーが存在するというのもKERAさんの作品の面白いところなのかなと思うのですが。
KERA「そうですね。そのせいで、この劇団がどういう芝居をやっているのかがわかりにくかったかもしれない。初めてウチの公演を観て「いいな」と思ってもらえても、次の作品を観に来てみたら「この前観たのと全然違って好きになれない」と思う人もいたでしょうし。」
――どうしても、好みというものもありますからね。
KERA「しかも、その振り幅がものすごかったから。」
――でもずっとそういうペースでやってきたからこそ、今ではすっかり定着して。
KERA「だけど、今でもそうですけど、なんでもできるからなんでもやっているわけではないんです。毎回、できるかどうかはわからないんだけどやってみてるんですよね。だから毎回が挑戦なんです。まあ、いずれにせよ、こんなにいろいろなジャンルのものを書いている劇作家って、他にいないとは思います。」
――確かに、いないと思います(笑)。でもKERAさんとしてもそうやっていろいろなベクトルの作品に取り組むほうが飽きないからなのかもと、勝手に想像していました。
KERA「それもありますね。映画監督って、普通にいろいろなジャンルの作品を撮る人が多いじゃないですか。でも劇作家の方はみなさん、意外とそうでもないみたいで。逆に僕にはそっちのほうがちょっと不思議。もうちょっといろいろなものをやる人がいても、いいんじゃないかなって思うんですけど。」
――どうしてもそれぞれのカラー、個性ってひとつの方向性で決まってしまいがちです。
KERA「一度うまくいった路線を継承していくパターンが多い。役者にしても、一度ウケたキャラクターを毎回のように繰り返し演じるような劇団て少なくなかった。もったいないですよね、人生の時間は限られているのに。舞台の上ではなにをやってもいいんですよ。法律に触れない限りは(笑)。映画やテレビの仕事をやると、舞台のほうが痛切に自由度の高さを感じる。やはり舞台が一番自由。将来的にはわかりませんけどね。」
――それで10年たって。後半少しペースが落ち着いてきたというのは。
KERA「今は、劇団公演は本当に少ないですよ。2018年は25周年なので2本やりますけど、年間7本もやることは二度と無いでしょうね。その分、外部公演を引き受けているからということなんですけど。」
――では関わっている舞台の本数自体は、減っているというわけではなくむしろ増えてる?
kERA「いや、新作も、書いてもせいぜい年に3本ですし、1本しか書かない年もあるし。」
――それでも多作の印象です。
KERA「ブロードウェイの劇作家だったら1本の芝居がそこそこ当たれば3年食えるらしいですよ。大ヒットしてロングランすれば何十年もそれだけで高水準の生活が保障されるみたい。いい家に住めて。アーサー・ミラーとかテネシー・ウィリアムスみたいな名匠と呼ばれる人も、そんなに本数は書いていないでしょ?」
――名作が生まれれば、それを何回も上演するので。
KERA「そうそう。なんて言いながら、自分はまったくそういうのは性に合わないんですけど。」
――やはり、どんどん新しいものを作っていきたい。
KERA「演劇の面白さは創作過程が一番ですからね。十本やれば十回、百本やれば百回、その醍醐味を味わえる。うまくいくものもあればいかないものもある。次々と新しいものを作っていくからこそ、たまに再演をやる時に、その意味が出てくる。めったに再演をやらない人がやると「この作品はよっぽどやりたかったんだな」って思うでしょう。実際、僕もそういうものしか再演しないですからね。」
これだけ続いてきた劇団だけが持つ力は圧倒的、だけど癪にさわる(笑)
――この25年の間に、所属する役者さんも、ずっと在籍している方もいれば。
KERA「健康時代からの33年間に辞めていった人たちはおそらく100人以上いると思いますよ。」
――100人!
KERA「たぶん、そのくらいはいるはずです。1本しか出なかった人もいるし。」
――30年以上もやっていればそうなりますか。
KERA「大倉(孝二)たちの代に、どっと20何人くらい入ってきていたので。」
――最近、新人さんというのは。
KERA「ここ9年間、新人は入れていませんね。もはや一番若い世代も30歳前後になりましたから。大倉たちの代が入った頃は本番が年に何本もあったんで、おのずと場数を踏むことになって、それがトレーニングになってどんどんうまくなっていけたんだけど、今は公演が少ないし、たまに公演があっても全員が出るわけではないし。2、3年に1回一緒に仕事をするだけなので、かわいそうな思いをさせているなという気持ちはあります。公演に出なければ、実力もなかなか伸びないんでね。」
――やはり場数は大事。
KERA「場数がなによりですよ。」
――それもあって、新しい人はとらないのですか。
KERA「今から若い人をとっても、彼らには何の未来も約束してあげられないですし。って、昔も約束はできなかったですけど。だから今のところ、新規募集は考えていません。何か新しくプランが見えれば、そういうこともあるかもしれないですがね。でも、ちなみに大石(将弘)って一番最近に入ってきたヤツは“ままごと”という劇団と兼任なんですよ。村岡(希美)もこの間、阿佐ヶ谷スパイダースに入団しましたし。別によその劇団に所属してもいいとなれば、そういう形で今後も新しい人が入る可能性はあるかもしれません。というのはこのままでは、客演を呼ばないと高校生や大学生の役が書けなくなってしまうから。そのたびに毎回、一回限りのオーディションをするのもどうかと思うし。若い人で常に戦力になってくれる劇団員がいてくれるといいなとは思っているんです。じゃないといずれ、本当に年寄りばかりが出てくるような、設定の限られたお芝居しか劇団には書けなくなってしまいますから。」
――それこそ他劇団との兼任でも、声をかけやすい若い人がいたら助かる、と。
KERA「そうですねぇ…。ただ、さっき言ったように、何も約束はしてあげられないし。若手公演的なものを、先行投資と割り切って、採算度外視で定期的にやれればいいんですけどね。毎年でなくとも、二年に一本ぐらい。たまーにはやっているんだけど、4、5年に1本程度なので積み重なっていかないんですよ。大倉たちにとってみれば彼らが出ていた初期のナイロンの公演は全部若手公演みたいな側面があったと思うんです。そうやってある程度の責任をまかせられないとなかなか伸びない。わかってるんだけどなかなかそれをしてあげられない状況なのがもどかしいですね。プロデューサーは僕じゃないので。」
――では、若手の人たちが自主的にやるのもありなのでは。
KERA「ありですけど、演出が僕じゃないとあまり意味がないですよね、つまり僕の言葉をどうやって共有できるかということが目的でもあるので。この演出家にとって何が大切で何がそうではないのか、とか、何を面白がれば有効なのか、とかが共有できないと、少なくとも劇団にとっての戦力にはならない。そういうことって何度も一緒に芝居をやっていくうちにわかってくるんだと思うんですよ。今では僕も、犬山(イヌコ)やみのすけや三宅(弘城)や峯村(リエ)とやってた時代よりははるかにわかりやすくしゃべれるようにはなったと思いますけど、昔はどう説明したらいいかもわからなかった。彼ら、彼女らが役者として未熟だったのと同様に、僕も演出家として未熟だったから。一緒に育ってきてたと思うんですね、彼らとは。そのあと松永(玲子)たちが入ってきたあたりから、「俺たちのやってることを学んでくれ」という要素が少しずつ増えていって。で、今や一番下の代とはもう親子みたいな年齢差ですから。やっぱり、劇団員同士の関係も全然違いますもんね。」
――それまでの歴史もありますし。
KERA「劇団って難しい。つくづく変なものだなと思いますね。作品を支えている力というのはなんなのか。もちろん公演ていうのは、資本力失くしては成立しないものだし、スキルも必要。けれども、資本力とスキルだけでは絶対になし得ないものでもあって。こうして積み重ねてきた得体のしれない力を“劇団力”と、ひっくるめて乱暴に言っちゃいますけれども、これだけ継続してきた劇団だけが持つ力というのは、どんなに無視しようと思っても圧倒的なんですよ。そして、それがちょっと癪にさわったりもするんです。」
――癪に?そうなんですか?
KERA「たまに劇団外で芝居を作っていると様々な意味で「なんでこんなにうまくいかないんだろう」って思ってしまうことがあるので。劇団公演でならスッとできるのにな、って。外部で劇団公演と同じクオリティで公演を打つにはたった1カ月間の稽古では無理なんです。あ、これは「ナイロンに書いているような難易度の高い台本を上演するには」という意味です。3、4カ月くらい稽古すれば、スッとできるようになるんだろうけど。」
――でも、3、4カ月稽古できる環境ではない。
KERA「ここは外国じゃないからね(笑)。1カ月で、しかも僕の場合は台本を書きながらの稽古になってしまうから。実質、少ない時は俳優たちと本番までの稽古で20回くらいしか会っていないんですよ。多くても30回弱。それで、あれだけのって言っちゃうのもかなり傲慢ですけれども、言っちゃいますけど、ここ10年くらいは、あそこまでのものが毎回作れているのは、やっぱり劇団だからだとも思います。」
――劇団員さんたちには、KERAさんの言葉を噛み砕く力があるから。
KERA「それもあるし…うーん、僕にもわからないですね、劇団力の正体は。スキルも高いし、少なくとも僕の作品においては秀でた、とても高い技術をもった人達なのは間違いないけど、それだけではないんですよ…。それはスタッフもそうなんですけど…いや、つくづくありがたいですよ…。なんだろう、彼らが磁場のようなものを創り上げるんでしょうかね。きっと客演に来てくれた人達も、その磁場に巻き込まれて相乗効果が生まれる。客演ではいつも素晴らしい俳優さんが出てくれてますが、客演者に頼りきりの公演は無かったと思います。まさに劇団員とスタッフと客演の相乗効果なんですよ。
インタビュー・文/田中里津子