東京芸術劇場 Presents 木ノ下歌舞伎『三人吉三廓初買』監修・補綴 木ノ下裕一 インタビュー

歴史的な文脈と現代の視点をかけ合わせ、歌舞伎作品を上演する木ノ下歌舞伎。公演ごとに異なる演出家を迎えるが、なかでも多くの作品を手掛けてきた杉原邦生が演出を務める『三人吉三廓初買』(さんにんきちさくるわのはつがい)が9月に上演される。河竹黙阿弥の最高傑作であり、いまなお愛され続けるこの演目。木ノ下歌舞伎では、現代では省略されることの多い、廓を舞台とした部分も含め全幕を、およそ5時間強をかけて上演する。なぜこの演目を?全幕上演に込められた意味とは?監修・補綴を務める木ノ下裕一に聞いた。

ふだん上演されない部分も含めて全幕上演する意義

──木ノ下歌舞伎では2014年に京都で、2015年に東京で『三人吉三』が上演されています。それらをブラシュアップしたものを2020年に東京芸術劇場で上演する予定だったのですがコロナで中止となりました

木ノ下 2020年に中止になったとき、杉原さんとも、東京芸術劇場さんとも「いつかリベンジしたい」と言っていたので、満を持しての上演ですね。

──『三人吉三廓初買』というタイトルでは初上演となりますね

木ノ下 はい、正式な外題(タイトル)に改めました。2014年の公演の際、最初は歌舞伎でもよくやられている三人の吉三郎たちの物語だけを『三人吉三』として上演しようということで企画が立ち上がったんです。でも杉原さんと議論を重ねていくなかで、原作にはあるけれども現代ではあまり上演されていない、俗に言う「廓噺」の部分も含めて全幕上演がいいのではないかという話になりました。

──それで、2014、2015年はタイトルは『三人吉三』でありながら、「廓噺」部分も含めて5時間にわたり上演されたわけですね

木ノ下 はい。我々としては、廓噺も三人吉三を構成するもうひとつの重要なストーリーなので、この2つをちゃんと上演しますと。そして今回は、2つの物語が対等にある1本の作品ですという覚悟の現れで、タイトルから変えてしまおうということになりました。

──「廓噺」も含め全幕上演がいいと判断したポイントは、どんなところですか?

木ノ下 「三人吉三」だけだと、無頼派のアナーキーな3人が、自分の道を突っ走ったうえに最後は3人とも死んでしまう。ある意味かっこいい物語なんです。それはそれで意義がある。でも「廓初買」のほうでは「でも人ってそんなにかっこよく生きられるわけじゃないし、食べていかないといけないし、そのためにはお金も必要」というシビアな現実が見えてくる。だからやっぱりこれは表裏一体なんだろうと思うんですね。

──かっこよさと現実を、両方見せるということですか

木ノ下 はい。でもね、あたたかみを感じるのは実は廓噺のほうなんです。こちらは人情話ですから。ふるきよき江戸の人情が廓(吉原)を背景に描かれている。いっぽう『三人吉三』は疫病や迷子、捨て子など、初演当時の“現代”が反映されている。つまり、当時の現代的なものと、失われつつある江戸情緒が並走しているのが『三人吉三廓初買』なんですね。
同時に廓って一種の虚構空間ですよね。本当は苦界なんですけど華やかに飾り立てている場所。虚構空間で等身大の人物たちが織りなす人情劇「廓初買」と、殺伐としたリアルな世界に颯爽と生きるヒーローたちを描いた「三人吉三」、虚実が入れ子になっている点も面白いですね。

「いま」を映し出す変革の芝居

──今回の上演において、前回から大きく変わる部分はありそうですか?

木ノ下 基本的には2014、2015年の『三人吉三』のスピリッツは継承しています。けれどもこの作品は、上演する時代によって意味合いが変わってくるものなので、前回と同じようにはいかないところがあります。なぜかというと、これが「変革の芝居」だからなんです。

──「変革の芝居」ですか?

木ノ下 この作品が初めて上演されたのが安政七(1860)年1月。安政年間には大地震があり、疫病(コレラ)が大流行してたくさんの死者を出しました。さらに上演の2カ月後には桜田門外の変が起こる。7年前には黒船も来ていて、すでに開国も始まっている。つまり、江戸と明治の変革期のお話なんです。様々な意味で時代が大きく変わろうとしている、人々の気持ちも変化していく時期に作られた作品で、内容にもそれが反映されている。

──激動の時代ですね

木ノ下 それを現代で上演すると、作品がいまの変革とリンクしていくわけです。たとえば2014、2015年はいまほど絶望的な空気が蔓延していなかった感じがするんです。2020年はオリンピック開催地が東京に決まった直後で、なんとなく浮かれている部分もあった。だから、当時は江戸が東京に変わる大きな転換期を意識させるような演出プランになりました。オリンピックに向けた開発によって土地の歴史、負の歴史が都合よく上書きされていく、そのカウンターとして『三人吉三』を上演しようとしたわけです。

──まさに2010年代中盤の雰囲気に呼応した演出にしたということですね

木ノ下 そして2020年は、コロナですよね。初演の2年前、安政5年のコレラの大流行が起こり、たくさんの方が亡くなっているんです。だから、作品にもコロリが出てくる。そのさらに前、安政2年には江戸でも大地震がありました。そんな時期に書かれたものですから、作中に出てくる、地獄で宴会をするとても楽しい場面も、単に箸休め的に描かれたものではないんですね。おそらくは近しい人を亡くした観客に対して、「亡くなったあの人たちも、地獄で案外楽しく暮らしているかもよ」という黙阿弥からのメッセージが込められている。……このシーンは、レクイエムのような気さえするんです。ですから、2020年は上演には至りませんでしたが、書き上げていた上演台本では疫病や震災の表現をくっきりさせたりしてました。

──そうやって、再演するたびにその時代が反映され、物語にリンクしていくわけですね

木ノ下 いまがリンクすることこそ、現代で上演する意味だとも思います。

──そして、いよいよ今回がどうなるかですが……

木ノ下 2024年の変革とは何なのか。これは今から稽古までの間に、あるいは稽古しながら見つけていかないといけない。いま考えているのは、安政の頃は社会の、外側の変革に人々が翻弄されていたわけですよね。2024年は、各々が立ち向かう敵が違うというか、あれが悪いとかこれが敵とか、はっきりと言いづらくなっている。現代で暮らしているなかで、「この感覚って昔の価値観?」「この発言って大丈夫?」と気になったり、一方で自分の中にある過去の価値観をばっさり切り捨てていいのかと葛藤したりするわけです。だからいまは、変革というものが、内側に侵入してきている感覚があります。いちばん変革を求められているのは自分たちなのではないかと。

──では、今回は「内側の変革」という視点で物語が編み直されるかもしれませんね

木ノ下 はい。たとえばお嬢吉三って、元々男性でありながら女性の格好をして、自分のジェンダーにも揺らぎのようなものが生じるなど、葛藤を持った人です。和尚吉三は家族の近親相姦の中で、その原因は自分がこんな行いをしたからではないかと、まさに因果応報の考えを背負ってしまっている。社会的な問題がぜんぶ自分の心の中に還元される……。2024年の『三人吉三』は、もしかするとそこに光がもっと当たるものになるかもしれません。これから改めて見つめ直していくなかでどうなるかはわかりませんが。

「完コピ稽古」が作品にもたらすもの

──木ノ下歌舞伎といえば、まず俳優たちが歌舞伎をそのまま演じてみる「完コピ稽古」を行うことも知られています。このプロセスにはどんな効果があるんでしょう?

木ノ下 最初は2010年に『勧進帳』というお芝居を作るとき、杉原さんが提案してくれたのがはじまりでした。『勧進帳』はすごく様式的な作品なので、まず完コピしてみないと、ということだったと思います。でも、やってみたらすごく手応えがあったんです。歌舞伎といっても俳優さんによってイメージのばらつきがありますよね。いろんな作品を思い浮かべる人もいれば、超歌舞伎のようなものをイメージする方もいるし、イメージすら浮かばない方もいらっしゃる。そんなバラバラの状態で稽古に入っても、土台が違いすぎて同じ空間に入れない。そのときに、「私たちはひとまず、立ち向かうべき歌舞伎の土台をつくりましょう、共通のイメージを持ちましょう」とやってみたら、ずいぶん作りやすくなったという経緯があって。

──それは歌舞伎という「お手本」があるジャンルならではのやり方ですね

木ノ下 それ以外にも完コピの効能はいろいろあります。なかでも、歌舞伎の様式の裏側にある心情や解釈がわかることは大きいですね。これは何時間講座を開いても難しいと思います。役の気持ちとその理由を、身体で理解できるんですよ。

──頭ではなく、身体で役を理解するわけですね

木ノ下 もちろん、すべて歌舞伎のために書かれた台本ですから、当然歌舞伎で上演するのがいちばん強いわけです。それをあえて現代劇の手法と演技体で乗り越えなければならない。その畏怖みたいなものも同時に生まれるのも、完コピのいいところだと思います。

──畏怖、ですか

木ノ下 代々多くの俳優が受け継いでいって、歌舞伎ファンの方はそれぞれ「私の吉三」を持っていたりもする。そんなお客さんにも見てもらうことを思うと、上澄みだけをすくい取って作るようなことはできないですよ。完コピをするほど一度は作品に没頭して、その重みのようなものを全員で受け止めることが、やはり必要なんですよね。

──そうやって一度全員が歌舞伎を体感するからこそ、上演に現代的なラップさえも取り入れられる。完コピは、思い切り反対側に飛ぶための手段というか……

木ノ下 そうそう。一度身体で知っておくと、「このシーンは、このポイントさえ押さえられたらラップにしても大丈夫」と思える。自由になるために完コピしているところはあります。

密な人間関係のなかで巡る物語の面白さ

──常に歴史的な文脈を踏まえて作品に向き合っている木ノ下さんに伺うのは失礼かもしれませんが、『三人吉三』はなぜこれほど愛されているのでしょう。文脈や世相を引き剥がしてなおある『三人吉三』という物語の魅力は何だと思いますか?

木ノ下 うーん、難しいですが……人間関係が密なんですよね。全員が親子だったり兄弟だったり、どこかで繋がっていたりする。敵同士、恋人同士が団子のようになっていて、そのなかで因果が巡る。その密な人間関係は、現代の演劇ではなかなか見られない気がしますね。現代って孤独とか、孤立がテーマになることが多いじゃないですか。それと真逆の「切りたくても切れない」縁だらけなところが、現代から見ると斬新なのではないかなと思います。

──たしかにその点は現代と真逆ですね

木ノ下 その密な人間関係の中で奪い合いの対象になるのが、『三人吉三』の場合、お金なんですよ。これが作劇のうまさです。お宝をみんなで取り合うのは歌舞伎の常套手段で、香炉とか刀とか巻物とかであることが多い。でも『三人吉三』では庚申丸という刀、この宝を、100両に置き換えてしまうわけです。庚申丸のままだと、ある人にとっては大事でも、別の人にとってはガラクタだったりする。でも100両なら、「このお金があればあれに使える」と、それぞれの欲望が浮き彫りになるんですよ。自分の汚い欲望であったり、誰かのためにという献身的な思いであったり、その人の本性みたいなものが、100両だから浮かび上がってくる。それも、他の歌舞伎作品にはあまりない人間の切り取り方だなと思います。

──現代と違う面白さも、共通する魅力もある物語を、改めて「いま」の目で見つめ直して上演することになるわけですね

木ノ下 「いま」の捉え方が浅いと作品も浅くなってしまいますから、頑張っていまをとらえないといけないですね。特に『三人吉三』は過去2回上演していて、もう1回は稽古直前までいきましたから、そうなると自分の中でも見方が固まってきてしまうところがある。それを、新しい目で読み直すところから、まずは始めたいと思います。

初演時に発刊された、『三人吉三』の物語を記した書物。「歌舞伎とはまた違った視点で作品を見直したい」と購入。「例えば、この絵では和尚吉三の目にシワが入っていますよね。これは初演した市川小団次という俳優の特徴だったようです。現代では発散型の人物という印象の強い和尚吉三ですが、初演時はさまざまな業を背負いこらえる“辛抱立役”だったことがよくわかる、と既存のイメージをはがし、別の可能性を探るのに使っています」(木ノ下)

インタビュー・文/釣木文恵
撮影/ローチケ演劇部