撮影/平岩享
自身に起きた出来事を演劇化し、本人を中心に演じる。そんなコンセプトでかれこれ15年、俳優のみならず様々な人々と交点を持ちながらワークショップや上演を重ねてきたハイバイの『ワレワレのモロモロ』シリーズ。その待望の最新作『ワレワレのモロモロ2024 札幌東京編』がこの夏上演される。本企画は北海道・札幌市に新たに誕生したジョブキタ北八劇場での3週間の滞在制作を経て8月8日(木)に同劇場のオープニング企画として開幕、その後、東京・下北沢のザ・スズナリにて凱旋という二都市を巡る公演だ。
北から南へ、過去・現在・未来へとますますの拡がりを見せるワレモロの魅力、これまでとはまた違った題材が揃い踏む最新作の見どころ、そして、ワレモロを通して見つめる社会や今後の展望とは?ハイバイ代表で、構成・演出・脚色を手がける岩井秀人に話を聞いた。
芸術監督も自ら参戦!
新たに扱う題材への思い
――『ワレワレのモロモロ 名古屋編』から10ヶ月ぶりのシリーズ最新作。今回は北海道札幌市に新たに開館したジョブキタ北八劇場のオープニング企画として上演されますが、その企画の経緯からお聞かせ下さい
ジョブキタ北八劇場の芸術監督を務める納谷真大さんがワレワレのモロモロ(以下ワレモロ)に興味を持って下さったことが最初のきっかけでした。ワレモロは色んな人が仕切れるワークショップや公演の形式だと思うので、ゆくゆくは僕がいなくても納谷さん主導でやってもらえたらいいなと思っていて…。そんな大きな流れの入り口として「まずは一緒にやってみましょう」というのが今回の公演です。
――芸術監督自らも台本執筆、出演をするオープニング企画なのですね。上演に向けたコメントでは「宗教」や「資本主義」というワードも目を引きましたが、今回はどんなモロモロが観られそうでしょうか?
昨年のワレモロのワークショップで宗教に関連した人生の話をしてくれた方がいたんです。僕も含め、その場にいたみんなが「そういう人がどこかにいる」という感覚は持っていたのですが、本人からしてみたら、生まれつきの家の文化で朝御飯が出てくるのと同じようにお祈りの時間があったりするわけですよね。そんな中、仲のいい友達に”ある一言”を言われて、その時に初めて、外の世界で「宗教」がどのように受け止められているかを知ったと。その話を聞いてすぐさま「これは絶対みんなでやってみなくては」と思いました。その痛みを1回でもみんなで共有しておくことが、長いスパンでみた時にそれぞれにとって圧倒的な救いになる。そんな風に思ったんですよね。それで、みんなで本人の役を代わる代わるやって…。そのワークショップは出演者募集の名目ではなかったのですが、その人にはお声がけをして公演にも出てもらうことになりました。
――本人の役をやってみること=痛みの共有。ワークショップの意義深さを感じるエピソードです
自分はつい「笑い」に走ってしまうのですが、この題材をやるってなった時に「笑い」は気にしないでやろうと思いました。今までは「演劇の敷居を下げなきゃ」という意識が強かったのですが、今回はそれよりもみんながちょっとだけ聞きづらかったり、話しづらかったりすることを共有する時間にしたいと思っています。「資本主義」もその一つ。演劇ではなかなか語られにくいトピックなので、あえてそういう話を扱うのがいいかなと思ったんですよね。単身でアメリカに渡って企業したっていう大変珍しい方がオーディションを受けに来てくれて、文字通り『アメリカで起業したら大変だった件』という作品を上演します(笑)。
――たしかに、アメリカでの企業話を演劇で観ることはそうなさそうです…
『ワレワレのモロモロ 名古屋編』を上演した時に聞いたのですが、メニコンシアターAoiの柿落とし公演である歌劇『あしたの瞳』のストーリーはメニコンの創業秘話だったと聞きまして。なんでも、日本にまだコンタクトレンズがなかった当時に初代社長がアメリカのコンタクトレンズ工場に行ったら門前払いされて、日本に帰ってガラスを削る機械を買って自分たちで作り出した…っていう一連のヒストリーをなんとオペラでやったって聞いて、観ていないけどめちゃくちゃ面白いなって思ったんです。そういうきっかけもあり、「資本主義」っていう演劇界隈の人が漠然と毛嫌いしてしまう部分を少し具体的にみてみましょう、という演目があると面白いかもと思ったんですよね。
――今のお話を聞いて、ワレモロシリーズはワークショップ含めて多様な人々と出会える機会でもあるのだとつくづく感じますね
そうですね。基本は演劇の人が多いけど、一般の人も20,30%くらいの割合で来てくれています。演劇をちょこちょこ観る銀行員の方やハイバイを観ていた専業主婦の方、ごく少数ではありますが、過去の出来事を引きずってやりたいことができないという人もいます。その内の一人はワレモロへの参加をきっかけに、さらに別のエッセイレッスンにも参加して同じ題材でエッセイまで書いたんです。そんな風にどんどん客観的になって自分の「作品」にしていく人もいますね。
――様々な観劇アクセシビリティ向上の取り組みがありますが、俳優以外の方が演劇創作の立場に立つ機会は少ないので、演劇を身近に感じる貴重な機会だとも感じます
あともう15〜20%くらいお客さん側が一回は演劇を経験したことあるという割合になってくると、客席の雰囲気や反応もちょっと変わってきそうですよね。そういう意味でも、俳優向けにワークショップをやっているだけだと会えない人に会える機会は大切にしたいです。
ワークショップと公演の違い
「過去の体感」と「現在の創作」の拮抗
――ワークショップのお話も出たところで、ワレモロシリーズならではの創作の特徴や、ワークショップと公演でのアプローチの違いなどがありましたらお聞かせ下さい
過去の出来事やその時の気持ちを文字化することや自分の役を誰かに演じてもらうこと、出来事の外側に立って自らを客観的に見ることによる「救い」は絶対あって、そこは間違いないと思っているんです。ただ、それがワークショップではなく公演になってくると、お客さんに見せるためのパッケージにしたり、表現を面白くするために少しフィクションを混ぜたりとかが入っていくんですよ。つまり、「本当にその時に思っていたこと」だけじゃ演劇としては成立しづらくなったりもするから、そのことで演者さんが悩むこともあるし、僕自身が迷うこともあります。本人は「過去」っていう体感が残っているから、やっぱりそこに引っ張られちゃう。それは当たり前のことですよね。でも、僕はそれを外に出さなくちゃいけない立場なので、そういう両方の視点からの引っ張り合いが生まれたりもする。それがいいのか悪いのかわからないまま続けている、というのが正直なところかもしれません。
――事実を演劇にする上での葛藤、現場での苦心が伺えるお話です。そんな中で岩井さんが特に大切にしていること、工夫していることはどんなことでしょうか?
やはり本人の気持ちでしょうか。「そこはどうしても触られたら嫌だ」っていうところはもちろん触らないように気をつけています。自分の実体験を外に出す、ということだけでも神経と労力を存分に使うので、本人は余裕がなくなって当然。同時に、その事情や背景、本人のパーソナリティをお客さんが知らないのも当然のことなので、演出・構成としてはその前提に立っていなくてはと思います。本人と同じ体験をお客さんにしてもらえるように間口を広げなきゃいけないし、演劇のことを知らない人や本人を知らない人にも伝わりやすく、ひらけているものにしなくてはいけないと思っています。
――バランスを保つことが非常に重要なのですね
そうですね。相反することを同時に試みているのだと感じます。ひらいていかなくてはいけないけど、大事なところには手を触れない。それでいて誰にでも楽しめるように意識を持って創作していく。あとは、自分が初めて話を聞いた時の衝撃を忘れないように本番まで持っていくこと。演劇って、稽古を進めていく中で、気づかずに題材に対する新鮮さを失って、表現の工夫だけに注目がいっちゃって「元々なんだったっけ?」っていうミスを起こしがちだと思っているので、気をつけるようにしています。
――ワレモロで浴びる驚きを裏打ちするお話です。いち観客としては、エピソード間の継ぎ目のシームレスさや美術の使い方などにも心を惹かれるのですが、そのあたりの演出の工夫はどうされているのでしょう?
最低限のことしかしていないつもりですが、シンプルな舞台美術が置いてあるまま次に繋がっている、というのが大きいかもしれませんね。なんというか、そのことでシャッターが落ちずに済んでいるというか…。ハイバイの劇団公演もですが、僕自身が今のシーンから次のシーンに行くところでシャッターを一回閉めることはしたくないんです。前の人がいるうちから次の人が話を始めるみたいなことをずっとしてきているのですが、それもそういうことなのだと思います。無駄な時間を無くしたいのもあるけど、世界がつながっている感じを常に持っておきたいなって思っているんですよね。
――シャッターとはなるほど!たしかにハイバイの公演でも、誰も何も終わらず繋がっていることで得る余韻みたいなものをすごく感じていました
シャッターを下ろされたら、当然観ている人はシャッターを下ろされたって思うんですよ。暗転も同じで、暗転したところでなかったことにはならない。お客さんは「暗くしてなんかしているんだな」って思っていて、でも、やっている側は「暗転している間はどうか無意識でいて下さい」みたいな暗黙の了解的なものがあって…っていうのが僕はすごく無理なんです。誰も無意識じゃないから。だったらいっそ見えるところでやった方がいいし、俳優さんが必要な情報を出せるなら出した方がいい。俳優さんの存在でなんとかできると信じている部分も大きいかもしれませんね。
――俳優さんの個性豊かな存在感や表現も大きな見どころですよね。今回も滞在制作ですが、その強みはどんなところにあるでしょうか?
東京での稽古と最も違うところは、物理的にも精神的にもごく自然な形で日常から創作に入って行ける点だと思います。例えば東京では、僕の家からだと大抵の稽古場まで1時間〜1時間半かかるのですが、その道中の全ての視界に看板や吊革広告があって様々なものを見せてくるんですよね。頼んでもいない情報がこっちを向いてすごいエネルギーを発していることから受ける精神的コストや消耗。それをやりたいことをやる手前に浴びなくてはいけないのが結構なダメージだったりするんです。滞在制作はそれが全くないので、すごくいい。「昨日何時に寝た?」とか話しているうちにいつの間にか「昨日のあのシーンはさ」って作品の話に入っていく。そういう地続きさがすごくいいなと感じています。
ワレモロ=演劇の基本形
その活用を社会へ拡げていくフェーズへ
――「ワレモロは色んな人が仕切れるワークショップや公演の形式」というお話も冒頭にありましたが、岩井さんの考えるワレモロの今後のビジョンについてお聞かせ下さい
これまでワレモロでやれることはやり切ったし、この先、自分1人だけでやっていくつもりもないので、今後は業種や世代を問わず色んな人が取り入れてくれたらいいなと思っています。この間上田市でやった時も「ファシリテーターの講座を開いてほしい」とお声がけをもらったのですが、その方は精神障害を持っている方に向けた就労継続支援を行なっている施設の方だったんですよね。その時に、これまでは一般の方や俳優に向けてやっていたけど、立場交換をして効果が高い業界に応用もできる試みなのかもしれないと思ったんです。障害を持つ方とサポートするスタッフさんもですが、例えば、立場や見えている景色の違う医者と患者とかにも応用できるかも。そういった異業種での需要も高いかもしれないと感じています。
――なるほど。福祉・医療の世界での応用とは考えもしなかったですが、とても興味深いですね
つまりはインフォームド・コンセントですよね。ハイバイの『夫婦』でも描いたのですが、成功確率の高い手術を医者から患者へ説明する時に、危険度合いを伝える意味合いで「2000人に1人しか死なないから大丈夫です」みたいな話になってくるんですよね。医療業界からしたら1999人が助かる神の手術なんだろうけど、2000人の1人になる可能性のある患者の心中的には「それはそうだとしても言わんでくれよ」という思いもある。そのあたりは立場交換をしてみなくちゃわからないので、そういう意味でもワレモロのシステムが有効活用されるんじゃないかなと思います。現実のロールプレイとして演劇の機能を導入しているところは他にもありますよね。例えば保育園でも「バカっていう言葉を言われたらどんな気持ちになると思う?」ということを伝える時に、実際に言う/言われてみるみたいなこともある。現実で大きく傷つく前にゆるい現実として体験してみるという意味でも演劇の機能は有効なのだと思います。
――ワレモロに限らず、6月には「いきなり本読み」が多摩美術大学出身の若手団体・さるさるさる松井絵里主宰で開催されていましたね。企画が世代や業界を越え、形を変えて世の中に浸透する意義深さを感じます
いきなり本読みは、僕だけがやっているのは明らかにもったいないんですよ。小劇場は公演を打つ=赤字を作るみたいなことをやっているので、公演1回に向けて3回位「いきなり本読み!」をやることで資金を貯めるとか、関係ないバイトではなく、演劇によって演劇の資金を貯められたらいいなと思うんですよね。公演前の台本のブラッシュアップにもなるし、劇団の俳優を知ってもらう機会にもなる。だからどんどんいろんな団体にやってほしいと思っています。
――企画や演劇が社会へと拡がっていくことを痛感するインタビューでした。今回は劇場のオープニング企画ということもあり、ワレモロを機に初めて演劇を観る人もいるかもしれませんね
ワレモロは演劇の基本形です。何もしない、必要なものだけを集めたらこの形になった。それがワレモロですし、本人が自分の身に起きたことを話すだけなので、難しそうだなんてことは全く思わず、気軽に観に来ていただけたらと思います。あと、人生の悲劇って、客観的にみたらすごく喜劇性があったりすることも見てもらえたらと思っています。その先の人生を生きていく上ではひどい目に遭うことはあるかもしれないですが、その時にただ痛手を負うだけではなく、「これ、ワレモロの時のあの人と同じじゃん!」みたいに、自分の人生を少し俯瞰に喜劇的に捉えられたりする瞬間もあるかもしれない。そうなったらうれしいなと思っています。ワレモロでの演劇デビューをきっかけに他の難解な演劇を観に行ってもいいし、難解で疲れたら、またワレモロに戻ってきてもらえたらいい。そんな気持ちでやっていきたいと思っています。
取材・文/丘田ミイ子