まず「ガード下のオイディプス」というタイトルに惹かれてしまう。何とも魅力的でちょっぴり怪しげでフシギな響き、そこで繰り広げられるのは 2500 年も前の「オイディプス」という、ギリシャ悲劇の中でももっともポピュラーな物語。
宿命により知らずして父王を殺し、実母を妻とし 4 児の父となるが、事の真相を知るにおよんで自ら両眼をえぐり諸国を流浪の末、世を去ったオイディプス──。
が、フライングシアター自由劇場版では、前作『あの夏至の晩 生き残りのホモサピエンスは終わらない夢を見た』がそうであったように、一筋縄では行かないのは承知というか、その仕掛けだけでも、観る側の心をそそる。
今回の執筆にあたり、串田和美のなかによぎったのはいまから 58 年前に上演された『イスメネ・地下鉄』という芝居。六本木に自前の地下劇場を作り、劇団自由劇場を旗揚げ、こけら落とし公演として盟友佐藤信が書き下ろした記念碑的な作品だ。
ここで吉田日出子のイスメネの父役(つまりオイディプス)を演じたのが串田。思い入れもひとしおかと想像するが、今回は 8 人でめまぐるしく展開される舞台。
串田はサングラスに、物乞い用の空き缶を首からさげ盲目の老人として登場。ハーモニカを吹き、『イスメネ・地下鉄』でも歌われた『ギリシアの海岸』(佐藤信作詞・林光作曲)を歌う。すると、列車の轟音のなか 7 人の演者たちが開け放たれたままの正面戸口の向こうから賑やかに登場、舞台をつくり、物語は始まる、といつもながらの鮮やかな幕開き。得体の知れぬ彼らはここで「オイディプス」を上演するという趣向。
キャストは、出自、年齢層、キャリアも見事にばらばらの 7 人+串田、基本7人はつねに舞台上にいて、舞台の進行に合わせ、役も早がわり、七人七色ならぬ、七人ン十色、その奮闘ぶりは全員殊勲甲。
大空ゆうひは妃メロベやイオカステ、美しい女神、腰の曲がった老婆から車輪まで!もちろんソロでの歌唱に、長ぜりふのモノローグもありで、妖艶さも眼福。大森博史は“バンスキング”時代を思い起こさせるサックスの演奏つき、りりしくも歌う悲劇の王を演じる串田十二夜、キャリアを感じさせる飄々と
した持ち味のさとうこうじ、藝大声楽科卒業後、数々のミュージカルの舞台に立つ山野靖博の堂々の歌声と小気味いいセリフまわし、持ち前の柔軟な肢体を生かして、役レパートリーも広い大野明香音、そして、様々な楽器を演奏し、串田作品に欠かせないミュージシャン Dr.kyOn の俳優としてのセンスも光る……と多士済々のメンバーを観てるだけで時間はあっという間。
もちろんオイディプスの物語がきちんとしているから大丈夫、ついでにいえばギリシャ悲劇を知らなくても十二分に楽しめる。むしろ、音楽シーンが多く、エンターテインメントとして楽しめる側面もある。
演出上のことで言えば、いまや死語といっていいが、かつて流行ったブレヒトが発明した異化効果、叙事的演劇のメソッド(今や当たり前になった手法)がそこかしこに見られるのも嬉しい。予定調和ではなく、思いもよらぬところで観客の予想を裏切り、
芝居の流れを中断することで、オイディプスに感情移入して舞台の世界に没入、同化してしまうことで、先入観で観てしまうのではく、パターン化したものの見方と捉え方に刺激をあたえ、これまで気付かなかった新しい発見や認識をする芝居の見方があっていいということで、『ガード下のオイディプス』でも“目からウロコ”のシーンが随所にあることにも注目。
終幕近くに初めての暗転、やがて暗がりのなかから聞こえる《ガード下のコロス》の合唱、そして「イオカステが首を吊った!」の叫び声。イオカステ(大空ゆうひ)の「自分の生涯と、この世に存在することのやりきれない“面倒臭さ”について。」の長いモノローグに続く《GREEK PUNK》の激しい音楽。そしてオイディプスのモノローグ、「・・・ワタシは生きて、世界を感じ取り、この世のシンジツを知らなければならない。これからは鳥の言葉を聴こう。神秘の風の囁きを感じ取ろう。そして出来うる限りの真実を見極めよう。この潰れた目で精一杯。」
そこに何千年か先の人間の姿が見えるのか、進化とは何か?
鳴りやまぬお客様の拍手に支えられての初日。舞台狭しとシャウトし、飛び回った俳優に熱い拍手、手拍子が会場に響いて幕がおりた。
文/佐藤 優
写真/串田明緒