浅野祥 三味線 ”響”|浅野祥 インタビュー

2004年、14歳のときに津軽三味線全国大会A級にて最年少で優勝し、2007年に17歳でメジャー・デビューを果たした津軽三味線奏者、浅野祥。国内外での演奏活動に加えて、NHKラジオ第1の長寿番組「民謡をどうぞ」の放送作家を務め、2024年4月スタートのNHK-FM「出会いは!みんようび」に番組パーソナリティとして出演するなど、民謡や伝統音楽、三味線音楽の魅力を様々な角度から発信し続けている。

かねてより、ジャンルの枠にとらわれない多彩な活動を展開している浅野は、今年9月7日(土)に、東京・浜離宮朝日ホールにて「三味線 “響”」と題したコンサートに出演。ピアノとトランペットの「二刀流」で知られるジャズ・ピアニスト曽根真央や、新日本フィルハーモニー交響楽団コンサートマスターの西江辰郎をはじめとする4人の弦楽器奏者とともに《北千島女工節》や《Miss my Home》などの楽曲を演奏する予定だ。幅広い世代の人々に三味線音楽の魅力を伝えるべく積極果敢な挑戦を続ける浅野に、楽器へのこだわりや民謡にかける想いについて、じっくりと話を聞いた。

津軽三味線の魅力と楽器へのこだわり

――まずは、浅野さんの考える津軽三味線の魅力について教えてください

まず私が魅力に感じているのは「音色」ですね。三味線には「サワリ」というあえて雑音を含ませるための機構がついています。弦を共鳴させて、響きに「雑味」を加えることができるんです。私はこの独特の「雑味」が大好きなんですよね。
それから、三味線はメロディーを奏でながら、同時にリズムも打ち出していく楽器なんです。旋律楽器とリズム・セクションの役割を半々でこなしていく、そういったところが津軽三味線ならではの面白い魅力だと感じています。

――楽器は三絃工房の「滋丹」を愛用されているとのこと。楽器へのこだわりについて教えていただけますか?

他の楽器の場合と同様に、やはり奏者それぞれに音色の好みがありまして、津軽三味線の場合はその振れ幅がとくに大きいように感じます。私の楽器は、基本的にはカラッとした音色が出るように調整しています。三味線の皮は、緩く張ると「ぼーん」という柔らかい音になり、逆に強く張ると「パーン」というちょっと痛い音になるのですが、私はそのカンカンに張った音を、撥の厚さ・重さの違いや、自分の手もとの脱力によって、聞き心地のいい音色に整えていくという方向性で演奏しているんです。そのため、私の楽器の皮はあと1ミリ伸ばしたら割れて、張り直しになってしまうくらいのテンションで張ってあるので、日頃から「皮が割れているのでは」という恐怖感とともに暮らしています(笑)。
楽器の皮は職人さんが手作業で張り替えるので、機械のように毎回一定に揃えることはできないのですが、そこは職人さんと演奏者が歩み寄ることで理想の音を出していきたいと考えています。どんな張り上がりのものがきたとしても対応できるように、駒や撥も色々と取り揃えているんです。高さや素材の違う駒や、べっ甲の厚さの違う撥を臨機応変に使い分けることによって、常に自分の理想の音に近づけられるようにこだわっています。

ジャンルの垣根を超えて

――9月7日の公演では、ジャズやクラシックを主戦場に活躍する5人のアーティストと共演予定ですね

「津軽三味線のいろんな一面を凝縮したコンサートにしたい」と思い、プロデューサーと相談を重ねた結果、弦楽四重奏とやってみよう、そしてジャズ・ピアノも編成に加えよう、という話になったんです。素晴らしいメンバーにお集まりいただき、大変嬉しく感じています。

――共演者のひとり、曽根真央さんはトランペットとピアノを同時に演奏する「ジャズ二刀流」で有名です

もちろん「二刀流」は今回の演奏会でも絶対にやっていただきたいと思っています。
曽根さんはちょうど今年の5月に、富山県の古代民謡《こきりこ節》をモティーフとしたシングル曲《Expressions on the Melody of Kokiriko》をリリースされたところなんです。アメリカに渡ってジャズに身を捧げてきた同世代のミュージシャンが、自国の音楽、とくに私がずっと取り組んできた「民謡」を取り入れて演奏してくださっているところにシンクロニシティを感じます。

曽根真央

――加えて、演奏会にはヴァイオリンの西江辰郎さん、ビルマン聡平さん、ヴィオラの生野正樹さん、チェロの富岡廉太郎さんが出演されます。4人とは今回が初共演とのことですが、そもそも弦楽四重奏と一緒に演奏されたご経験はあるのですか?

デビューしたての頃に2、3回一緒に演奏したことがあるのですが、当時は私が三味線音楽しか知らないような状態でしたので、しっかり音楽的なコミュニケーションをとりながら共演できるのは今回が初めてです。クァルテットの皆さんと音を重ねていくことで、単音楽器の三味線だけでは表現できないハーモニーを生みだせるのではと楽しみにしています。

――クァルテットとの共演に際して、何か工夫しようと考えていらっしゃることなどはありますか?

以前『Believe』(VICL-63535)というアルバムを録音した際に、ダウランド《流れよ、わが涙》をリュートと一緒に演奏したことがありました。フランスにある石造りのお城で録音したのですが、そこでは、普段通りに三味線の皮に撥を当てて演奏すると「バシッ」というアタック音だけが反響してしまって、メロディーがよく聞こえないという状況に陥ったんです。そのときに、撥を皮に当てずに弦だけを叩く、あるいは棹の部分を指ではじいて演奏するという方法を考え出しました。そういった経験も活かしながら演奏できればと思っています。

人生をともに歩む1曲――《津軽じょんから節》

――公演では《津軽じょんから節》や《北千島女工節》を演奏されますね。こうした民謡の魅力や、伝統音楽と向き合うときに心掛けていることについて教えてください

《津軽じょんから節》は、私が三味線を始めてからほぼ毎日弾いている曲です。この曲がなかったら、今の自分はこれほど三味線を好きになっていなかったと思います。
私はこの曲を、必ずコンサートの最後に弾くことにしているんです。会場の皆さんと構築してきた時間、雰囲気、90分演奏してきたなかでの皮の弛み――そういったものをすべて加味して、最後に思いの丈をこの《じょんから節》に乗せて、誰にも媚びずに演奏するというのが私のモットーです。
《じょんから節》は、今日では津軽三味線のソロ曲としても親しまれていますが、もともとは150年以上の歴史がある「うた」でした。最近の流行りの歌詞は「お国自慢のじょんから節よ」と声高らかに歌うものなのですが、ルーツをたどってみると、この曲は現在の青森県西部、かつての津軽藩の名誉を守った和尚さんに対する鎮魂歌なんですよね。ですから、そういった歴史も忘れないよう意識しつつ、いつも大切に演奏するよう心掛けています。

――浅野さんは2007年のデビュー・アルバム『祥風』(VICC-60565)以来、折に触れて《津軽じょんから節》を演奏・録音してきましたね。今振り返ってみて、ご自身の演奏にはどんな変化がありましたか?

よい意味で音数が減ってきましたね。2007年のCDは私が16歳のときに吹き込んだものでして、ちょうど津軽三味線の全国大会を3連覇・殿堂入りした頃のイケイケな、今思えばちょっとよくないマインドで演奏していました。その頃に比べて、今はもっと根本的な部分で《じょんから節》を表現したい、という気持ちが強くなっていると思います。もちろん自分なりのテクニックも詰め込んで演奏するのですが、気張りすぎずに、脱力して演奏するようになりました。結局のところ「ガーン」と思い切り楽器を叩いても、脱力して「パン」と叩いても、音量はさほど変わらないんです。それならば力を抜いて、常に冷静に、今この瞬間に自分がどんな音を紡いでいくのかを意識しながら演奏した方がよいと思いまして。
《じょんから節》は、演奏者のそのときの気持ち次第でいかようにでも変わる曲で、その意味では「人生をともに歩む1曲」だと感じています。私の演奏も年々変化していますから、この先どうなっていくのか自分でも楽しみです。

偶然の出会いを機に――《北千島女工節》

――北海道民謡《北千島女工節》は昨年4月に素敵なMVも公開されていますね。この曲とはどのようにして出会ったのですか?

10年以上も前の話なのですが、北海道の稚内から少し南に行ったところにある小さな町でコンサートを開いたことがありました。そのとき、終演後のサイン会に90歳くらいのおばあさんが来てくださって、「この歌知ってる?」とその場で1曲歌ってくださったんです。それが《北千島女工節》でした。慌てて「ちょっと待ってください」と伝えて、iPhoneで録音させていただきました。あまりに深く感動してしまって……。この歌を私が歌わなかったら、きっと埋もれていってしまう――そう感じて、私も《北千島女工節》を歌うようになったんです。
《北千島女工節》は千島列島の最北端が舞台となっている民謡です。若い女性が北千島に出稼ぎに送られて、故郷に帰りたくても、親に会いたくても帰れない。そんな哀愁を感じさせる曲なんです。もしかしたら、私に曲を教えてくれたおばあさんも、そういった歌が無かったら生きていけないような辛い経験をされた方だったのかもしれない……そんなことも感じました。《北千島女工節》を歌っている人は全国でもほとんどいませんから、私が歌い継いでいきたいと思っています。

――こうした「民謡」などの文化・伝統を今後も絶やさず守っていくためには、どんなことが必要だと思いますか?

まずは、いっそう学びを深めていく必要があると思っています。そうした「古典」についての知識を蓄えて、曲についての理解を深めて――その上で実際に演奏することが大切だと考えています。
それから、現代に寄り添った新作をつくって歌っていくことも必要だと感じています。やはり100年前に生まれた音楽を、そのままのかたちで今の人たちに共感してもらおうとしても難しいところがあると思うのですよね。例えば「草刈唄」といっても現代では電動の草刈り機が使われているわけですし、最近の子どもたちはTikTokの15秒動画の世界で生きているわけです。そういった人たちの心に響かせるには、どんな歌詞を歌えばいいのか、ということも考えなくてはならないと思っています。

――最後に、今後の目標や夢についてお聞かせください

「和楽器でクラシックが演奏できてすごいよね」とか「和楽器なのにジャズミュージシャンと一緒に演奏できてすごいよね」というような次元を超えて、他のジャンルのアーティストの皆さんと肩を並べて、一緒に音楽をつくれる音楽家になれるよう頑張りたいです。
じつは今、「津軽三味線コンチェルト」の作曲にも取り組んでいるところなんです。おそらく今度の演奏会には間に合わないのですが、その次の機会には発表できたらと考えています。そしてゆくゆくは、アメリカの民族楽器バンジョーと同じように、世界中の人々が三味線に親しんで、自身の音楽に取り入れてくれるようになると嬉しいですね。私もそうしたきっかけをつくったり、橋渡しをしていけたらと思っています。

インタビュー・文/本田裕暉