マームとジプシー『Curtain Call』│藤田貴大 インタビュー

5月8日(木)より東京・LUMINE0にて上演されるマームとジプシーの最新作『Curtain Call』。「演劇」という営みそのものをモチーフに、登場人物たちが劇場に到着してからとある演目が開演するまでの、“演劇のバックヤード”を描き出す作品だ。

作・演出を務める藤田貴大はこれまで、特定の土地や人物の持つ記憶をモチーフとした演劇作品を数多く発表してきた。そんな彼が今作では、もっとも身近な「演劇」をモチーフにするのだという。なぜいま描くのが「演劇」なのか。マームとジプシーの主宰であり演劇作家である藤田に話を聞いた。

──本作の構想が生まれたきっかけについて聞かせください

2024年に『equal』という作品を発表しましたが、『Curtain Call』の構想が浮かんだのはそのツアー中のこと。三重での公演の場当たり中でした。それぞれの劇場で空間の環境が異なるので、本番に向けて照明や音響などを微調整していく必要がある。劇場内の場をつくっていく、つくり直していく作業のことを場当たりと言います。その場当たり中に、『equal』とは別の作品の構想が、ふいに見えてきたんですよね。ざっくりとしたストーリーもその時点で生まれて、タイトルも『Curtain Call』がいいとその場で思いつきました。場当たりが終わったときにはすでにもう、制作スタッフにこの構想について話していましたね。

──ひとつの作品に取り組んでいる最中にほかの作品の構想が生まれるのは珍しいことですか?

どうなんでしょう。僕が未来に制作する作品は、3年くらい先までスケジュールと劇場がなんとなく決まっています。上演する作品の内容が決まっていなくて、「ここで何かつくりましょう」みたいなレベルでも。そのとき生きているかも分からないから、不思議な話ではあるのだけど。そういうふうに演劇の上演は決まっていったりもするんです。その中でやっぱりつねに“次の作品”のことを考えているのは、もう20代の頃から癖になっていて。『Curtain Call』をこのタイミングで思いつくことができたのは、マームとジプシーの場合は制作スタッフの存在が僕とすごく身近なので、それも大きいですね。作家である僕がいま一番気になっていることや、描こうとしていることを尊重してくれるので。

──『Curtain Call』のモチーフになっているのは「演劇」ですね

ここ数年の僕の作品は、たとえば『cocoon』だったら沖縄戦について、『equal』では僕の故郷である北海道の伊達市界隈の歴史についてリサーチして、史実をベースに演劇作品を立ち上げていきました。『cocoon』や『equal』のあとに自分は何を描けるか、描くべきモチーフは何が残されているかと考えたときに、「演劇」だと思ったんです。演劇しかやってこなかった人生なのに、演劇自体についてはあまり語ってこなかったな、と。

──ある種の原点に立ち返るような感覚でしょうか?

今年、40歳になるのも少し意識しているのかもしれない。いろんな面で、転換期みたいな感覚があって。これからマームとジプシーがどういうことと向き合って、描いていくのか。どんな人と出会うのか。最近ますます、現実的なことも含めていろいろ考えていたのもあって、ここで演劇そのものについて描いてみることにしました。

──キャスティングに関してもうかがえますか?

今回は渋谷采郁さんと長谷川七虹さんがマームとジプシーにはじめて出演します。渋谷さんは「ひび」のメンバーで、長谷川さんは京都の大学でのワークショップ公演で出会いました。キャスティングについてはいつも深く悩むのですが、今回は今回でけっこう時間をかけましたね。最近の『equal』や『Dream a Dream』は、共通言語の多い出演者と制作した感覚があります。僕らにとって当たり前になってしまっていた言語が、それでは通じない人と『Curtain Call』ではリハーサルを共にしたかったのもあるんですよね。そもそも「リフレインって何?」みたいな。18歳の頃から時間を過ごしてきたメンバーと一緒にやる強さとは別の強さが、今回のメンバーとは生まれつつあります。

──藤田さんはこれまで、特定の土地や人物の持つ記憶をモチーフに作品をつくられてきましたよね。日常的に触れている「演劇」をモチーフに創作をするのは、これまでとは何が大きく変わってきますか?

史実をベースに描いていると、自分の勝手な想像で何かを描いてはいけないというルールがどうしても生まれます。沖縄にまつわる『cocoon』も『Light house』もそうですが、実際に沖縄で生活をしたことのない僕がその土地について描くわけだから、それなりの準備や姿勢が必要になってくる。本当のことも舞台のうえに上がってしまったとたん、フィクションになってしまって、そしてそのフィクションというのは、ときに誰かを傷つけてしまう可能性があるという自覚を持たなくては、という。でも、扱うモチーフが「演劇」となると、それらと感覚が少し違うんですよね。良くも悪くも、自由というか。僕らがここまで見てきたものが演劇で、歩んできた道が演劇なので。

──モチーフが身近だと、作品との距離感もまるで変わってくるのですね

そうなんです。作品として「演劇」というものに向き合ってみることで、気づいたこともありましたね。近すぎた分、見えていなかったこととか、気がつくことができていなかったことがあったとか。

──というと、具体的にどんなことでしょうか?

やっぱり劇場が大きくなればなるほど、物理的な力仕事も増えて女性のスタッフには厳しい場面があるとか。単純なパワーの話だけではなくて、そうなると声の大きい男性のスタッフにこういうことを言われたとか。マームとジプシーに関わる人たちは、キャストもそうだけど、舞台監督やテクニカルスタッフも、どうしても女性が多いんですね。性別を引き合いに出して関わる人を選んでいるだなんてことはまったくなくて、“この人と演劇をつくりたい”を突き詰めていった結果、自然と優秀な人たちが集まっているだけなんですけど。ただ今回のクリエイションの過程で、僕が気づいていなかった周りで起こっていたそういうネガティブなシチュエーションを改めて知って、目が行き届いてなかったなあ、と反省もしましたね。

──それで、「演劇」の見え方が変わってきたと?

作品をつくるというのは、ある意味モチーフに対して解像度を上げていく作業だと思うんですよ。だから今回は「演劇」への眼差しの解像度を上げていくわけですけど。昨今の演劇界に影を落としているハラスメントにまつわる諸問題をテーマに扱いたいわけではないにしても、やはりそれらも無視はできないわけで。ただ僕が今回描きたいのは、「演劇」という営みの根源的な美しさです。たとえば、映画という表現では朝日のシーンを撮りたかったら、実際に朝日を捉えたらいいと思うんだけど、演劇の場合は照明でその朝日を再現、もしくはゼロからつくらなくてはいけない。そこに無いものを、在ることにしなくてはいけない。世界を構成している原理的なさまざまな要素を、演劇では創出させるんですよね。

──それは演劇の醍醐味であり、とても地道な作業の積み重ねによって生まれるものですね

当たり前のことのようにも思うし、演劇に限らずなんだってそうしているとも思うけど、演劇もすべて一つひとつ時間をかけて準備をしているんですよね。上演に向けて、地味に。上演時間内の舞台上だけ見ると、煌びやかな世界だと目に映るかもしれません。でも、洋食屋さんのシェフがランチタイムに向けて何時間も前から仕込みをしているように、僕らも観客のみなさんが客席に座るまでの時間、そして開演時間ギリギリまでずっと仕込み続けています。コロナ禍で、舞台芸術は不要不急だとされましたが、僕は食事をする、衣服を着る、眠りにつく、と同列かそれ以上に演劇に時間を費やし大切にしてきたし、演劇に救われた人間なので、なんていうか不要不急という言葉はあんまりじゃないか、と思いました。衣食住と何が違うのだろう、と。

──幕が上がるのは当たり前のことではないのだと、コロナ禍を経て多くの観客が痛感したと思います。一つひとつの上演は、本当にいろんな奇跡の積み重ねによって実現しているのだなと

そうですね。コロナ禍以降、現実的に演劇を続けることの大変さについては周りにいるみんなと本当にたくさん話し合ってきました。自分たちの営みがいとも簡単に無くなってしまいそうな瞬間に、何度も立ち会ってきました。コロナ禍を経て、演劇はますますアクセスしづらいものになっているのかもしれない、と現在も話し合い続けています。でもいっぽうでコロナ禍以前と比べて、一つひとつの上演が特別なものになっているような実感があるんですよね。貴重な時間だ、というふうな。当たり前のように演劇がつくられて、簡単に消費されていた時代とは、一緒につくっているメンバーも劇場さんも、そして観客も眼差しが違う気がしています。そもそも、何ヶ月か先の公演のチケットを予約する行為って、すごいことだと思いませんか。

──というと?

5,000円とか6,000円もする公演のチケットを、2ヶ月とか3ヶ月も前にみなさん予約してくださるじゃないですか。レストランの6,000円のコースの予約を2ヶ月前にする人が、どれくらいいるでしょうか。わざわざ劇場に足を運んでくださって、2時間も客席に座って舞台を見つめてくれるんですよ。すごいことだなあ、と思って。高級なコース料理をつくる感覚で、演劇はいつもつくっていますね。こうやってお金と時間を費やしてくれる人たちがいるんだから、演劇をはじめとするライブパフォーマンスはまだまだ死んでいない。やはり、よりよい演劇という場をつくり続けなくちゃいけないと思います。

取材・文/折田侑駿