
一つの舞台が完成するまでには、様々なセクションの“プロ”が携わっている。この連載企画では、舞台を裏側から支え、第一線で活躍しているクリエイターにロングインタビューを敢行。遍歴や創作のエピソード、仕事観などを聞き、作り手側の素顔に迫る。
今回登場いただくのは、『エリザベート』『マリー・アントワネット』をはじめとした数々の大作ミュージカルの衣装を手掛ける生澤美子。会社員を経ての留学経験、独立から舞台衣装の制作へ携わるまでのヒストリーや制作への想いをじっくり聞いた。
画家志望から服飾の道へ
――幼少の頃から身近に“ものづくり”の環境があったのでしょうか。
祖父が画家で、蝋結染で仏像などの絵を描く仕事をしていたので、身近に絵の道具がたくさんある環境で育ちました。なので、子供の頃は漠然と「将来は画家になる」と思っていたんです。また、祖母は百貨店の外商として白洲正子(随筆家)さんのプライベートのお洋服のお仕立てをしたり、母は染色家として活動していたので、そういった境遇は今の職業にも影響しているかもしれません。
――クリエイティビティに溢れる環境ですね。
ところが、祖父が亡くなってからは祖母も母も創作の仕事から離れ、父の転職もあり生計を立てるための商売として突然お弁当屋さんを始めたんです。実家がお弁当屋さんになってからは、一家総出でお店を切り盛りして、私自身もお店を手伝う日々で、アートを身近に感じるような環境には全くありませんでした。
――そこからまた一転してアートの道を志すことになられたのは?
高校生になって進路について考える時期になり、幼馴染の子に初めて真剣に「本当にやりたいことは何なの?」って言われたんですよ。その時に何か心が打たれたような感じがあって、自分でもびっくりしたのですが、「私、もしかしたら絵をやりたいかも」、と。そこから芸大(東京藝術大学)を目指すと決心して、稼業を手伝いながら朝から美大のアトリエに通い、学校が終わったらまたアトリエに行って夜遅くまでデッサンして、という日々を送っていました。
――難関の芸大を目指す受験生に。
芸大受験を何度かチャレンジする中で、アトリエの先生から「将来芸大に行って本当に画家になりたいの?“一生できるアートの仕事”について、もう一回真剣に考え直した方がいいと思うよ」と言われまして。その先生と本気で進路について話し合った時に、「衣装とか服飾の道もいいんじゃない?あなたは人体や生地を描くのが上手だから、向いてるんじゃない?」と言ってくださったんですね。その先生の助言もあって、「自分は絵ではないのかもしれない」と思い、文化服装学院に進学しました。
――服飾・ファッションの専門学校の代名詞とも言える文化服装学院へ。
文化に通いながら芸大受験は続けていたのですが、ある時、文化で知りあった人から「友人の妹がモダンバレエをやっているんだけど、今度コンクール用の衣装に絵を描いてくれないか」と頼まれて。そうしたら、その衣装を着た妹さんがコンクールに入賞したんです。それがきっかけで、その子の先生から「今度はうちのバレエ団の衣装をデザインしてほしい」と言われて、アルバイトのような形でお衣装をつくるようになりました。就職先を考える時期になり、その先生から「バレエの衣装をやるんだったらチャコット(バレエ総合メーカー)じゃない?」と提案いただいて、採用試験を受けて入社しました。
チャコットで過ごした会社員時代
――チャコットに入社されて、どのような業務を担当されたのでしょうか。
新入社員はまず店頭スタッフを経験するのですが、これがとても面白くて。というのも、接客相手のお客さまが、「コスプレイヤー」の方々だったんです。私が入社した頃はまだコスプレが今のようにポピュラーではなく、ひっそりやる趣味として一部の方が楽しんでいるような時代でした。店舗の地下にオーダーする場所があって、そこの売り場を担当することになり、「こんな世界があるんだ!」と最初はびっくりしましたね。ちなみに、私の第1号のお客さまは“セーラームーン”のコスプレイヤーさんでした。
店頭スタッフの後は、国体の競技で着るユニフォームのデザインをしている方のアシスタントに就き、そのあとにバレエの衣装の担当になり、アシスタント、制作、デザイナーと段階を踏んでいきました。仕事を任される様になった頃に、会社で大きな某テーマパークの衣装をやることになり、そこからずっとテーマパークの衣装制作を担当しました。
――衣装制作の中でも、様々なジャンルがあるのですね。
そうですね。テーマパークの仕事をしていたら、今度は大ブレイク前の浜崎あゆみさんのコンサートの衣装のお仕事が舞い込んできたり。そのお仕事をやり始めたら、浜崎さん関連のアーティストさんたちの依頼が相次ぐようになって、すごく忙しい時期でした。徹夜してずっとスワロフスキーを付けたりしていましたが、あれは当時だったからできた働き方ですね(笑)。
――会社員時代、印象に残っている、影響を受けた出来事はありますか?
テーマパークのお衣装をやらせていただいた時にご一緒した、アメリカのデザイナーのリン・フォードさんという方との出会いはとても大きかったです。本当に素晴らしい方で、その方に出会えたから今の自分がある、と言えるくらい大きなものでした。リンさんには、「(デザイナーが描いた)絵を形にする」とはどういうことか、そのいろはを教えていただいて。リンさんはご自身の絵を「設計図」と言っていて、その設計図がそのまま出てきたかのようにつくることができたときは、大きなやりがいや達成感を感じましたね。それを見てリンさんが喜んでくださるのが、また自分の喜びでもありました。
憧れの師匠のもとへ―。転機となったアメリカ留学
――会社で様々なご経験をされたあと、アメリカへ留学されます。留学への経緯を教えていただけますか。
海にちなんだ某テーマパークが新たに日本にできることになり、そのプロジェクトのメンバーになったのですが、海外からいろんなスタッフの方がいらっしゃったんですね。そのときに出会った日本人デザイナーのShigeru Yaji氏のデザインが大変素晴らしく、お人柄にも魅了されて、「この方に学びたい」と思ったのがきっかけでした。会社にYajiさんがいるアメリカへ学びに行きたいと伝えて、引継ぎなどもあったので1年待ってほしいと言われ、準備期間を経て退社後に留学しました。
――アメリカ留学時代の暮らしはいかがでしたか?
まず最初にニューヨークに語学留学したのですが、「他よりも安い!」という単純な理由でブロンクスという街を選んだところ、そこが全米で一番治安が悪いところだったんです(笑)。だけど、来てしまった以上は嘆いてはいられないと思って、毎日バスと地下鉄で42ndの方まで通っていました。学校が終わったらすぐに好きなシアターに行って、安く観れる学生チケットで毎日観劇して。でもやはり治安が悪かったので、「ここは長く住む場所じゃない」と思い、Yajiさんが住むカリフォルニアの方のランゲージセンターに変えてもらい、そちらで修行させていただくことになったんです。ロサンゼルス郊外のオレンジカウンティという街だったのですが、今度はそこが全米一治安のいい街だったんですよ(笑)。
―― 一番治安が悪い街から、一番治安のいい街へ(笑)。
もう見事に真逆で、みんな頭にお花を挿してスタバ持ってチョコ食べてる、みたいな平和な街で驚きました(笑)
――Shigeru Yaji氏の元での修行時代は、具体的にどんなご経験を積まれたのでしょうか。
学生ビザなので仕事ではなく、Yajiさんが手掛ける現場の制作にお手伝いとして入らせていただきました。当時のYajiさんは、『シラノ』や『マクベス』など、時代物の舞台作品をメインに担当されていました。
サウスコーストラパトリーという、大劇場、中劇場など合わせて5つのシアターが入っている大きな劇場があって、その劇場で上演される衣装は、劇場に所属されているスタッフの縫い手さんがすべて手掛けるというシステムで、制作場が劇場の地下にあって、皆さんそこに出勤するんです。大勢いるYajiさんの生徒さんたちの中には有名な方もいらして、Yajiさんご自身の演目がないときは、そういった教え子さんたちのカンパニーを紹介してくださって、その方々からも様々なチャンスや繋がりをいただきました。いろんなものを観させていただいて、楽しい時間でしたね。
――その頃に携わった制作で思い出深い作品はありますか?
ブロードウェイミュージカルの『ピーター・パン』(2004-2005年に行われたツアー公演)ですね。この衣装制作が一番緊張しました。その公演は、かつてピーターを演じられたレジェンドであるキャシー・リグビーさんが久しぶりにピーター役を演じられるという、スペシャルな公演だったんです。その方のお衣装を担当することになって…。
――プレッシャーがかかりますね。
言語の壁もあったので、必死にメモを取って、「絶対に間違えてはなるまい」という一心で制作に向き合っていました。『ピーター・パン』には有名なフライングのシーンがありますが、衣装に付けている飾りの小さなパーツも絶対に客席に落としてはいけないので、一つひとつを特殊な手法で神経を注いで装着していきました。当時の自分にとって一番思い出深く、根性がかかった衣装制作でした。

Yajiさんの助言もあって、『ピーター・パン』の前後あたりで、映画界や演劇界で順番待ちしているほど非常に素晴らしい仕事をされるテーラーの方に就いて学ばせていただいた経験もとても大きかったですね。付きっ切りで教えてくださって、とくに『シラノ』という作品では、ジャケットやコートの制作の通して、時代物の基礎を勉強させてもらいました。アメリカ留学はトータルで2年くらいでしたが、すごく濃い時間でしたね。
尊敬するアーティスト、小林幸子との出会い
――日本に帰国されてからはどのような活動をされたのでしょうか。
会社員時代に一緒だったフリーランスで活動されている先輩たちのツテで、また浜崎さんのお衣装をやらせていただいたり、オナペッツ(ドラァグクイーンユニット)のダイヤさんが私の先輩の弟さんという繋がりもあって、ちょうどオナペッツさんたちがショーパブをオープンするタイミングだったので、そのお衣装をつくらせていただいたり。あと、アメリカでお世話になった方々が某テーマパークの仕事に携わっていたので、そのご縁もあって、テストを受けてテーマパークのデザイナーになったりもして。なので、独立当初はテーマパーク、浜崎あゆみさん、ショーパブという、不思議な三本軸で活動していました(笑)。
そのうち浜崎さんに加えて倖田來未さん、西野カナさんの衣装制作も始まり、女性アーティストさんの方のお仕事が忙しくなっていって、そうしたら今度そこに小林幸子さんも担当させていただくことになりまして。
――真打登場、という感じですね…!小林幸子さんとの最初のお仕事は?
ヘッドドレスをつくらせていただいたのがいちばん最初でした。私の衣装は重くて有名なのですが(笑)、その時もすごい重たいヘッドドレスになってしまったんですね。全部ビーズとスワロフスキーを使って、すごく綺麗にできたのですが、「これはボツになるだろうな…」と。案の定、幸子さんも被った瞬間「重!」というリアクションだったのですが、「わかった。前の方に重さを足せばもっと安定するから、ちょっと携帯貸して」って言われて、頭に携帯を何個も乗せ始めたんですよ。
――ヘッドドレスの上に、さらに重りを!
「これで被りやすくなるから、この分量の石を足して」って言われたんです。その時に「なんてすごい方なんだろう!」とそのプロフェッショナルぶりに驚きました。そのあと数か月後くらいに、全てを取り仕切っているプロデューサーの方に、「来年分は美子ちゃんにデザインもお願いしたいから、考えてみて」ってお声がけいただいて、そこからデザインも担当させていただくことになりました。
――最初のお仕事のときから信頼を得て、ずっと長くご一緒されているんですね。
幸子さんは“愛”の方で、とにかくお人柄があたたかいんです。私が子供を生んでからも、たくさん気遣ってくださいました。産後の復帰となる仕事のときは、「大変な時はベビーシッターさん呼んでいいからね」っておっしゃってくださり、横で子供を見てもらいながらデザイン画を描いて仕事ができる環境をつくってくださって。衣装合わせのときに急遽制作スタッフがお子さんを保育園に預けられなくなってしまったときも、現場に連れてくることを快諾してくださり、そのお子さんとも気さくにコミュニケーションを取っていらして、素晴らしい方だなと改めて思いました。尊敬してやまない、恩人で、師匠で、憧れの人ですね。
ミュージカルの衣装制作の道へ
――テーマパークやアーティストの衣装制作を精力的にされてきた中で、どのようないきさつで舞台の衣装を手掛けられることになったのでしょうか。
テーマパークのお仕事の一つで、サンリオピューロランドの『Believe』というパレードの衣装を担当していたのですが、ちょうどその頃、演出家の小池修一郎さんがピューロランドで『不思議の国のハローキティ』(宝塚歌劇団とのコラボ第3弾のミュージカルショー)というショーの演出をされていて、私の手掛けたパレードの衣装を見てくださったそうで、そこからご連絡をいただいたのが始まりでした。妊娠していることがわかりその時は依頼をお断りしたのですが、「お子さんを生むことは、女性だけができる素晴らしいことだから、そちらに専念なさってください」っておっしゃられて。その言葉がとても身に染みたのを覚えています。
その後も定期的にご連絡をいただいて、子供が2歳ぐらいになったときに、そろそろできますか?と。そこまで言ってくださるのであれば、どんなお仕事でもしよう、と思ってお引き受けしたのが、ミュージカル『レディ・ベス』(2014年)という作品です。幸子さん同様、小池さんも私が子育て中であることに色々と気を配ってくださって、それはもう一流旅館の女将さんのような細かい気配りで。私だけでなく、スタッフや演者さんへの気遣いも細かくて、その気遣いのおかげで今も続けられているところがありますね。
――『レディ・ベス』で生澤さんのお名前を知った方は多いと思います。初めて大作ミュージカルの衣装を担当されて、いかがでしたか?
これまではテーマパークやアーティストの衣装など、キラキラしたエンターテイメントのジャンルをメインでやってきたので、作品の物語も含めて、「本当に自分がやっていいものなのか」と、当初は不安や自信のなさがありました。アメリカ留学時代では経験していましたが、アシスタントとして指示を受けてつくる立場だったので、実際に自分が指示する側に立つのはこんなに大変なんだと実感しました。
――制作ではどんなところにご苦労されましたか?
それまでのお仕事では妖精や架空の人物を担当することが多く、この世のものではないものをたくさんつくってきたのですが、実在する歴史上の人物の衣装となると、その時代のことをまず知らなければいけないですよね。プリーツやタッグなど、細かい部分も資料をたくさん見てつくっていくのは、これまでにないことだったので大変でしたね。
――実在した人物の衣装をつくるとなるとまた視点も変わってきますよね。
面白いことに、影響されてだんだんおかしな夢を見始めるんですよ(笑)。例えば、1500年代の人たちは下着は何を着ているんだろう、と気になれば、夢の中に当時の人とおもしき人が出てきて、「この服の下は何を着てるんですか?」ってこちらが質問したら、斧で襲われて打ち首になるという怖い夢を見たり(笑)。資料だけではわからない部分も多いので、細部への探求心が深まっていくきっかけとなった作品でもありました。
また、『レディ・ベス』の上演では、帝国劇場の雰囲気に守られたような感覚がありました。上手く言えないのですが、「帝劇にはやっぱり演劇の神様がいるんだ」って感じましたね。
――生澤さんのお衣装といえば、フランス革命時代を描いたミュージカル『1789 -バスティーユの恋人たち-』を連想する方も多いと思います。現在、再再演となる新キャスト版が上演中ですが、2016年の初演では、ファッションショー形式で行われた制作発表がとても印象的でした。
本国のフランス版のマリー・アントワネットの登場シーンがとても大がかりで華やかなので、(演出の)小池さんからは「あなたの真骨頂でしょ」と言われて。その一言で火がついて、「そうだ、真骨頂です!やります!」ってすぐになりました(笑)。
――マリーの登場シーンはまさに紅白の小林幸子さんの世界で、調べたら本当に小林さんの衣装を担当されていた方だと知って当時びっくりしたのを覚えています(笑)。マリー以外の人物のお衣装もいろんな細工が施されていて面白いですよね。アシンメトリーなデザインになっていたり、ジッパーがたくさん付いていたり。
「遊んでいいよ」と言われたので、遊び尽くしました(笑)。例えば、ロベスピエールは劇中では描かれませんが、後の恐怖政治で多くの人々を断頭台に送る人物なので、ロベスピエールとペイロール(平民を苦しめる貴族将校)の二人には、共通のジッパーを入れて、鋭い印象を出すようにしてみたり。『1789~』は大がかりな仕掛けもあり大変でしたが、つくっていてすごく楽しかったです。

――他にも『エリザベート』など西洋の時代物の作品を多く手掛けてこられましたが、直近で上演された新作ミュージカル『昭和元禄落語心中』では、打って変わって「和」の世界、和装がメインの作品でした。生澤さんご自身も元々着物がお好きだそうですね。
着物好きで着付けも自分でするのですが、やはり個人の趣味でするものと、芝居のための着付けは全然別物なのだと今回身をもって知りました。衣装替えでは、やはりスピードが命で早く仕上げなければならないので、これからもっと勉強しなきゃなと思いました。
――キャラクターそれぞれに合った着物姿がとても魅力的でした。
(落語家の)助六と菊比古という“真逆な”二人をいかに衣装で表現するか、という部分は意識していたところですね。それぞれの人物の視点に立って、この人ならこの色を選ぶだろう、と。この作品では、菊比古が若い青年時代から晩年までを長く演じるので、途中で「これは『エリザベート』と同じタイプだ。菊比古はシシィなんだ」って思ったんですよ(笑)。そう思ったら、やはりお客さまもシシィにはいろんな衣装を着てほしいと思われるだろうな、と。なので、いろんな色の着物を着てもらうのがいいだろうと考えました。衣装合わせには着物のプロの方々がたくさんいらっしゃったので、「みよ吉は元芸者だから、華やかな色を入れたほうがいいよね」とか、皆さんと相談しながら決めていけたのもよかったですね。

特別感を感じてもらえるように
――生澤さんのお衣装には、“デコラティブ”な要素が共通してあり、そこがまた魅力でもあります。衣装制作において、大事にされていることはありますか?
音楽番組の放送やコンサートの会場の大きなスクリーンなどで衣装がアップで映ったりしたときに、「あの生地、〇〇で売ってるな」って思ったら、お客さまも急に現実の世界に引き戻されてしまうと思うんですよね。それはやはり好ましくないことですし、デコラティブな装飾を加えてくことで、“特別なもの”になると思うので、そういうものをつくっていきたい、という思いは常にありますね。「あの素材見たことないな」「あの部分の裏側ってどうなっているんだろう?」とお客さまに興味を持ってもらえるようなものをつくれたら、と思っています。
――その“特別感”は、客席にもしっかり届き、多くの方が魅了されていると思います。最後に、今後チャレンジしてみたいことや抱負をお聞かせいただけますでしょうか。
これまで制作してきたデザイン画がたくさんあるので、衣装制作に興味がある方の参考になるような展示イベントなどがいつかできたらいいですね。
あと、自分のすぐ側で縫い手さんたちがつくってくれる機会が増えたのですが、アメリカ留学時代で体験したシアターの制作現場のように、劇場の下に制作スタッフが常駐して、役者さんもそこで衣装合わせができて、といった豊かで効率的な制作環境を作っていけたらいいなと思っています。
――どちらもぜひ実現されることを期待しています。これからもどんな衣装が生み出されるのか、客席から楽しみにしています!
インタビュー・文/古内かほ
【POIFILE】
生澤 美子 (イケザワ ヨシコ)
バレエ総合メーカー・チャコット退社後、舞台衣裳を学ぶためアメリカへ留学し、Sigeru Yaji氏に師事。帰国後独立し、アーティストのコンサート衣装、テーマパークコスチュームなどを手掛ける。その後舞台の世界へと活躍の場を広げ、数々の大作ミュージカルの衣装を担当。主な参加作に、『レディ・ベス』『エリザベート』『1789 -バスティーユの恋人たち-』『ロミオ&ジュリエット』『マリー・アントワネット』(日韓両公演。韓国公演にて、第9回ザ・ミュージカルアワード衣装賞受賞)『ニュージーズ』など。
【お仕事情報】
・ミュージカル『1789 -バスティーユの恋人たち-』
2025年5月8日(木)~16日(金) 新歌舞伎座(大阪)
・ミュージカル『コレット』
2025年8月6日(水)~8月17日(日) 日本青年館ホール(東京)
2025年8月21日(木)~8月24日(日) 梅田芸術劇場メインホール(大阪)