ミュージカル『バグダッド・カフェ』稽古場取材レポート

1989年の公開から36年。いまも多くの人に愛される名作映画『バグダッド・カフェ』が、ついにミュージカルとして日本初演を迎える。ミュージカル版の脚本は映画を手掛けたパーシー・アドロン監督とその妻、日本版演出は小山ゆうなが手掛ける。

主演のジャスミン役を花總まり、カフェの女主人ブレンダ役を森公美子、画家ルディ役を小西遼生、ブレンダの娘のフィリス役を清水美依紗が演じるほか、松田凌、芋洗坂係長、岸祐二、坂元健児、太田緑ロランス、越永健太郎ら多彩なキャスト陣が作品を盛り上げる。

『バグダッド・カフェ』といえば、数多くのアーティストがカバーしてきた名曲「Calling You」が有名。アカデミー賞歌曲賞にもノミネートされた本楽曲に加え、映画と同じ作曲家ボブ・テルソンが生み出したジャンルにとらわれない楽曲が、本ミュージカルを彩る。

今回は2回目の通し稽古が行われた公開稽古の模様をレポートする。

通し稽古開始10分前、キャスト陣はストレッチをしたり発声練習をしたりと、思い思いに稽古開始時間を待つ。時折、聞こえてくる和やかな談笑からは、9月半ばから本格的にスタートした稽古が充実した時間だったことが伝わってくる。ムードメーカーはやはり森公美子なのだろう。彼女の気さくな一言と、それを受けて隣で微笑む花總を中心に、稽古場の温度がじわりと上がるのを感じた。

定刻を迎えると、まずは本作を代表するナンバー「コーリング・ユー」の確認から。花總と森以外のキャストが集まり、ハーモニーの確認を終えると、いよいよ通し稽古へ。演出・小山が見つめるなか、荒野を走る1台の車から物語が始まっていく。
本作の舞台はアメリカ西部のモハヴェ砂漠。アメリカ旅行中のドイツ人夫婦、ジャスミン・ムンシュテットナー(花總まり)と夫のムンシュテットナー氏(坂元健児)のドイツ語での喧嘩が繰り広げられる。序盤からジャスミンの強烈な平手打ちが決まったり、ドイツ語でまくしたてる姿が観られたりと、本作ならではの花總の姿が冒頭からぎゅっと詰まっていた。

場面は寂れたダイナー兼ガソリンスタンド兼モーテル「バグダッド・カフェ」へ。「バグダッド・カフェ」の店内のシーンに移ると、映画で観た少し埃っぽさを感じるような雑多な空間が立ち上がる。女主人ブレンダ(森公美子)が、うだつの上がらない夫のサル(芋洗坂係長)と、ピアノの練習をやめない息子のサル・ジュニア(越永健太郎)を叱り飛ばし、最後には夫を店から追い出してしまう。仕事も子育ても思うようにいかない苛立ちと、うまくできない自分への悔しさとを咀嚼しながら、それでも強気に歌うブレンダのナンバー「あたしは泣かない」が、森の圧巻の表現力によってダイレクトに響いてきた。

決して順風満帆とはいえない「バグダッド・カフェ」に、夫に愛想を尽かしたジャスミンが一人やってくる。ブレンダはジャスミンを不審に思うが、一方で彼女が来てからカフェの空気が少しずつ変わっていくことに。カフェの隣のトレーラーハウスで暮らす画家のルディ(小西遼生)やブレンダの娘でやんちゃに遊んでいるフィリス(清水美依紗)、店員として雑用を一手に引き受けているアブドゥラー(松田凌)、保安官のアーニー(岸祐二)、モーテルに暮らすミステリアスな入れ墨師デビー(太田緑ロランス)。個性豊かな面々が繰り広げる日常は、賑やかではあるものの、軽やかでカラッと乾いている。

1幕ではほぼ不機嫌なブレンダの歌や芝居も、熱くはあるが決して湿っぽくはないのが、実に『バグダッド・カフェ』らしい。ブレンダを中心に成り立つカフェの日常は、“明日は明日の風が吹く”といったたくましさと気楽さをまとい、砂漠の風を感じさせる。砂漠の地では異質なジャスミンがもたらす湿度が、カフェにどんな変化を起こすのか。1幕はその片鱗がわずかに見えるストーリーとなっており、約1時間の1幕の通し稽古を観終わったとき、心地よいワクワク感が胸に残った。

誰もが知る「コーリング・ユー」をはじめ、清水とアンサンブルがダンサブルに歌い上げる「ゴミ箱」、コミカルなやり取りが楽しい岸と小西の「ローゼンハイム」など、楽曲はどれも個性豊か。花總と松田の微笑ましいデュエット「トマト オニオン」や、芋洗坂係長がしっとり聴かせる「バランス感覚」など、シーンの温度差を巧みに映す曲が並ぶ。宙を舞うブーメランや黄色いポットといった映画の象徴的なモチーフも登場し、映画ファンなら思わずニヤリとしてしまうはずだ。物語の鍵となるマジックの演出にもぜひ注目を。

公開稽古は第1幕まで。途中で止まることもなく、まだ2回目の通しとは思えない完成度に、すっかり心はモハヴェ砂漠に誘われた。出番を待つ袖では、岸がナンバーに合わせて陽気にステップを踏み、小西と松田が兄弟のように笑い合う姿も。キャスト同士の信頼と作品を育てる熱が、稽古場全体を満たしていた。

東京公演は11月2日からスタート。ここからさらに熟成を重ね、どんな“風”を吹かせてくれるのか、開幕が待ち遠しい。

取材・文・撮影:双海しお