撮影:宮川舞子
映画「トリコロール」三部作、『ふたりのベロニカ』などで知られる、ポーランドが世界に誇る名匠クシシュトフ・キェシロフスキが、旧約聖書の十戒をモチーフに1980年代のワルシャワの集合住宅に暮らす人々の姿を十篇の連作で描いた『デカローグ』。この十篇の物語を新国立劇場にて4か月をかけて舞台化するという壮大なプロジェクトが4月より進行中だが、6月22日(土)、ついに最終章となる『デカローグ 7~10』が幕を開けた。
上村聡史が演出するプログラムD(『デカローグ7』『デカローグ8』)はいずれも女性を主人公にしたエピソード。
『デカローグ7 ある告白に関する物語』の主人公は両親と同居する22歳のマイカ(吉田美月喜)。彼女には歳の離れた6歳の妹・アニャ(安田世理/三井絢月)がいる。実はアニャはマイカが16歳の時に国語教師のヴォイテク(章平)との間に生んだ娘なのだが、醜聞を恐れたマイカの母・エヴァ(津田真澄)はアニャを自分の娘としたのだった。マイカは大学の最終学年を前に退学し、アニャを連れて国外へ逃れようと考えるが…。
鉄骨を組んだ集合住宅のセットの中で目を引くのが、枕やコートなど、アニャの持ち物だけが鮮やかな赤で彩られている点。マイカが22歳の女性にしては、やや地味な出で立ちであるのと対比してアニャの赤がより際立つ。それは、母親のエヴァから注がれる愛情の濃淡の違いを表しているようでもある。エヴァはアニャを溺愛し、子育てにマイカを一切関わらせようとしない。そんな状況に耐えきれなくなってマイカが家出を決意する。
十戒のひとつ「汝、盗むなかれ」をモチーフとする『デカローグ7』だが、マイカが盗まれたのは実の娘であり、母親という立場。主演の吉田は、そんなマイカが一家の中で抱える孤独や虚しさ、哀しみ、そして怒りを決して多くはないセリフと静かな佇まいの中で見事に表現。物語の最後のマイカの悲壮な決断、そして電車の音にかき消されるアニャの叫びが観る者の心を強く打つ。
そして、このエピソードにおいて、鮮烈な存在感を放っているのが、津田が演じる母親・エヴァである。そもそもアニャを自分の娘としたのは、16歳のマイカの出産が醜聞になるのを避けるためだったはずだが、マイカがアニャを連れて失踪した後のエヴァの狂乱ぶりからは、「世間体」などという言葉では説明しきれない深い業や執着心が垣間見える。マイカとエヴァというすれ違う母と娘の姿が「母親というのは何なのか?」を問いかける。
プログラムD:『デカローグ7 ある告白に関する物語』より舞台写真
続く『デカローグ8 ある過去に関する物語』の主要人物は、大学で倫理学を教えるゾフィア(高田聖子)と彼女の著書の英訳者であるエルジュビェタ(岡本玲)という2人の女性。エルジュビェタがゾフィアの元を訪れたことで、第二次大戦中にユダヤ人の少女の身に起きたある事件の真相が明かされていく。
舞台上にはこれまでのエピソードでは見られなかった分厚い壁が現れ、物語の冒頭、暗闇の中でその壁に「SIN(=罪)」という文字が映し出される。それは、ゾフィアが戦後40年以上にわたり、心の内に抱え続けてきた罪悪感であり、エルジュビェタが現れたことによって、ゾフィアは改めて過去に対峙することになる。倫理、過去、罪…と堅苦しい言葉が並ぶが、不思議とこの物語を流れる空気に重苦しさはない。何より、この作品を魅力的なものにしているのが、ゾフィアとエルジュビェタが静かに向き合い、紡ぎ出す言葉の数々から伝わる心地よい温もり。2人の姿や佇まいからは、年齢や過去を乗り越えた2人の女性の連帯が感じられ、ある種の“シスターフッド”の物語とも読み取れる。
もうひとつ、この『デカローグ8 ある過去に関する物語』から強く感じられるのが、『デカローグ』という作品全体が持つ「人生讃歌」というテーマである。十篇の連作のオープニングを飾った『デカローグ1 ある運命に関する物語』(演出:小川絵梨子)では、無神論者の父親とその息子を待ち受ける過酷でショッキングな結末を通じ、「生」と「死」について問いかけた。連作の終盤に差し掛かったこの『デカローグ8』では、ゾフィアが直接的なセリフで、子どもの命の重さについて断言するシーンがあり、絶望ではなく希望をもって生きることの尊さを謳い上げる。
プログラムD:『デカローグ8 ある過去に関する物語』より舞台写真
そして十篇の連作のフィナーレを飾る「プログラムE」(『デカローグ9』『デカローグ10』)の二篇は小川絵梨子が演出を担当する。
『デカローグ9 ある孤独に関する物語』は十戒のひとつ「隣人の妻を欲すなかれ」をモチーフにしており、そこで描かれるのは「不倫」、「夫婦間における“性”の在り方」という現代の日本において最も世間をにぎわせるテーマともいえる事象である。
外科医のロマン(伊達暁)は友人の医師から性的不能であると診断され、治療の見込みはない、若い妻のハンカ(万里紗)とは別れるべきだと諭される。ハンカはロマンに「セックスだけが愛じゃない」と別れる気がないことを伝えるが、実はハンカには既に大学生のマリウシュ(宮崎秋人)という若い愛人がいた…。
こちらのエピソードで際立つのが、生きることにもがき、苦しむ男たちの滑稽で情けない姿。伊達が演じるロマンは、妻の言葉に安堵しつつも疑心暗鬼で浮気を疑い、それでも直接彼女を問い詰めることもできず、彼女にかかってくる電話を盗聴し、浮気現場に張り込み耳をそばだて、嫉妬と悔しさにむせび泣く。一方、ハンカの浮気相手のマリウシュはキラキラした瞳で、ただひたすらにハンカを愛する、カワイイ大学生。フラれてもめげない一途な若者を宮崎秋人が好演! いずれの男も情けなく、かっこ悪く、そして愛おしい。そんな滑稽ささえも、人生の一部であり、生きていればこそ――『デカローグ8』とはまた違う形で人生讃歌、生きることのおかしみを教えてくれる作品となっている。万里紗も、嘘偽りなく理性でロマンを愛し、そして肉体でマリウシュを求める妻のハンカの孤独を見事に体現。性別や年齢、置かれた立場によって見え方の違いが楽しめる作品と言える。
「プログラムE」:『デカローグ9 ある孤独に関する物語』より舞台写真
そして、大トリを務めるのが『デカローグ10 ある希望に関する物語』。物語は主人公のひとりであるアルトゥル(竪山隼太)がボーカルを務めるパンクバンドのライブで、メロディそっちのけで「殺せ! 殺せ!」と十戒の教えとは正反対の言葉をシャウトするシーンで幕を開ける。
ライブ会場に足を運び、久々にアルトゥルと再会したのは兄のイェジ(石母田史朗)。イェジは疎遠だった父の死を伝えるが後日、父の部屋を訪れた2人は、父が著名な切手収集家であり、遺された数々の切手が莫大な価値を持っていることを知る。
ここまでの9作とは打って変わって、本作は欲の皮の突っ張った男たちが入り乱れてのコンゲームの様相を呈する。アルトゥルとイェジは、さながらデコボコの探偵コンビといったところ。見た目は全く似てない2人だが、兄弟と言われると妙に納得してしまう空気をまとっており、「お父様の友人」を名乗る怪しげな男たちから大事な切手を守り、一獲千金を実現すべく奮闘する。
本来、手紙を送るために存在し、表に書かれた数字の価値しか持たないはずの切手に執着し、翻弄される人間たちの欲深さを軽妙に描きつつ、やはりこうした愚かさもまた人間の持つ一面であると教えてくれる。
「プログラムE」:『デカローグ10 ある希望に関する物語』より舞台写真
ちなみに、各エピソードで登場人物たちが人生の岐路に立ったタイミングで姿を現す、亀田佳明が演じる謎の“男”は当然、この『デカローグ7~10』でも登場する。シチュエーションや出で立ちも気になるところだが、あるエピソードでは原作のTVシリーズにもない驚きの行動を見せるシーンも…。
愚かで、時に欲望に負け、過ちを犯す人間たちの“生”への希求を描き出す4篇の物語を堪能してほしい。
『デカローグ 7~10』の公演は、新国立劇場 小劇場にて7月15日(月・祝)まで。
文:黒豆直樹
撮影:宮川舞子