【連載】『わかる!ユーモア』/特別編『キングオブコントに見るコントのどんづまり』大北栄人(アー)

2024.10.29

表紙イラスト:クリハラタカシ 文中イラスト:大北栄人

 

この連載は笑いを言語化する連載です。特に認知科学でいう「ユーモア」という考え方で笑いを考えます。ユーモアは「くだらないなあ」という喜びです。期待を下回ったときにやってきます。

でも実際の笑いにあてはめたらどうなるの? ということをやってなかったので今回は特別にキングオブコントの優勝コントをユーモアの考え方で分析していく回です。私達はどういう仕組みで「くだらないなあ」と笑っていたのでしょうか?

 

コントと漫才

『キングオブコント』はコントの日本一を決める大会です。コントは漫才とよく並列に置かれますが、実際の人気はちょっと下駄を履かせられていますね。エントリー数も3分の1のようです。後述しますがコント界隈は漫才に比べて停滞してる印象があります。

 

優勝したのはラブレターズ、坊主頭の塚元直毅さんと個性的な演技の溜口佑太朗さんのコンビです。テレビ越しにも伸びやかな声が聞こえてますから生で見たら躍動する身体が伝わってよりおもしろいでしょうね。でも私はテレビ越しに見ているので、冷たく構造を見させてください。

 

ラブレターズのコントはおかしすぎる状況を狙ったもの

ラブレターズが行ったコントはどういうコントだったか見ていきましょう。2部に分かれてるように見えます。

 

1.どちらが変な人?

・海を眺める女を外国人男性がナンパする

・女は丸坊主だった

・でも男はめげず、流暢すぎる日本語で自己紹介をする

・女は心を開き始め自身を語る

 

2.カオスが生まれる

・女はジュビロ磐田のファンで願掛けで坊主にしたものの、スタジアムを出禁になった

・今日も勝利のために海にバリカンで頭を刈りに来た

・男は恐れおののく

・釣り竿が引いた。男は海釣りに来ていたのだった

・魚と格闘する男と海でバリカンを当て、応援歌を歌い飛び跳ねるジュビロサポーターの女

・男にバリカンを向けて冗談だと笑う女と「どこからが冗談?」と混乱する男

・女は去り、男はショックを受けている

 

というような内容です。

男が変な人だと思ったら女も変、いや、男の方が変、いやいや女が…と振り子のように変さが増して最後は変すぎるカオス(混沌)みたいな状況を作ろうというコントになっています。

審査員のシソンヌじろう氏は「魚釣り(の要素)要る?」と聞いてました。本人たちも笑ってましたが、これはコミュニケーションであって、実際には必要です。カオスを作ろうとしているからです。

 

カオスとは現実から遠く離れた、てんやわんや的状況です。そういう用語が明確に存在するわけではないですが、便宜上そう呼んでます。例えばドリフ大爆笑でセットがガタガタに壊れたり、変な人がたくさん出てきたりして音楽がかかって場面転換。あれもカオスですよね。カオスは人数や予算がたくさんあると作りやすいですが、今回のような2人だけでカオスを作るのは果敢なチャレンジではないでしょうか。

 

ユーモアで考える

さてここにどのようなユーモア、おもしろみがあるでしょうか。考えるべきは文脈です。文脈があって期待があって、それを下回っていくのがユーモア的な喜びです。

たとえば「外国人男性がナンパしてくる」という文脈があったとき「外国人男性のナンパはだいたいこんな感じ」という期待(予想みたいなもの)があるわけです。このコントの場合、実際にやってくるのは溜口さんが演じるトシちゃんみたいな人です。むだに明るくて変てこな人だなあ〜と、期待を下回る情報が入ってきて見てる人にユーモアの喜び(くだらないなあ~)がやってきます。

 

期待とはどのような期待か。おそらくこれは「生きるために必要なもの」であり合理的な期待と言っていいでしょう。力が強かったり、お金持ちだったり、かっこよかったり、早かったり、ですね。

 

例えばここの期待「外国人のナンパ男性は大体こんな感じ」より、もっとかっこよくて気が利いて付いていきたくなるようなナンパを見せられるとユーモアの喜びは生まれません。でも頭から金だらいが降ってくるような不器用で生きにくいナンパだときっとユーモアの喜びが生まれますよね。

「外国人男性のナンパの期待?? そんなのないな~」という人はこの文脈を弱いと感じてることになります。「ああ、あんな感じね~」とイメージできると文脈が強くなる。するとユーモアは生まれやすくなります。

 

例えばこれが『桃太郎』なら私達はセリフを口に出せるくらい強い文脈が走っています。でも『桃太郎』だと興味がありません。流行ってるドラマだとより強い興味があり、より強い文脈となります。有名でなくても恋人が死にそうになっている病床など強い感情やドラマが生まれる状況でも文脈は強くなりますね。

 

色んな方法で文脈は強くなります。この文脈が強くないとユーモアはやってきません。

 

最も大きな文脈とは設定によるもの

この後、男女で会話が行われると「こんにちは、と言われた人はふつうこんなこと言う」とまた次の文脈が生まれます。コントには無数の大小含む文脈が走っています

 

一番大きな文脈とは状況によるものです。見てそこにあるものです。ここでは「季節外れの海を見てたたずんでいる女性」ですね。海辺にたたずむ女性はそこに存在しているのでこの文脈は大きくずっと走ってるわけです。

 

今回は「海辺で海を見ている女性はふつうこんな感じ」という期待が生まれます。このコントでは早々に「女性が丸坊主」という期待を下回った情報を与えてくれました。これがハマるかハマらないかは受け取る人によります。

 

丸坊主の女性は「期待を下回る」とは必ずしも言えませんよね。「病気であることもあるし、ファッションもあるし、期待を下回るとは言えないよな」そんな風に感じた人には坊主頭の女性にユーモアの喜びが生まれません。現に、溜口さん演じる外国人男性は「キウイフルーツみたいだ」と肯定的にとらえます。

 

そうなんです。期待を下回るかどうかは人によります。さっきのトシちゃんみたいな外国人が期待を下回るかどうかもそうです。文化が細分化されている現代では受け手の感じ方は様々です。私は「東京の小劇場」界隈で舞台をやるのでそこにいる人のイメージがつきますが、テレビになるとそんなことは言えません。「全員がそう」なんてそうそうないわけですよね。

 

でももし全員にあてはまるものがあるとしたら……女性の丸坊主を見たことがない世界ではないでしょうか。

 

「くだらない」の喜びは新規性が必要

女性の坊主がない世界なら「なんて斬新なんだ!」「女性といえば髪が長いのに、ないくらい短い!」「こんな表現があるのか!」と抱腹絶倒のギャグになったことでしょう。ユーモアにおいて新規性ってとっても大事です。

 

ユーモアというのはそもそも「脳が間違った情報を弾いたご褒美」なんですよ。「丸坊主の女は海辺にいる女性としては間違い! ペケ〜!」と情報を弾いたときに「よく弾いていただきました」と喜びが与えられるんですよ(神経系に)。

 

でも間違い探しは何度もやるのがだるいですよね。だるくはなくとも、新しい間違いが一番旨味が強いわけですよ。なのでユーモアは新規領域が一番喜びが強い(おもしろい)

 

そうすると「海辺にたたずむ女性はふつうこう」という文脈の間違い探しはすでにやられてる可能性もありますよね。「お見合い」なんて設定はもうやられまくってますし、ラブレターズのもう一本は「引きこもりに悩む家族」でした。新規領域はなかなかなさそうです。

 

文脈がお題だとして、回答を考える

さて、もしあなたがこのコントを考えるとなったら、ずっとそこに存在している設定の文脈、「海辺にたたずむ女性」の文脈を考えることが必要です。

 

「海辺にたたずむ女性」とはなんでしょうか。どんなことが起こってそうでしょうか?

 

・美人だろうな(ドラマはたいてい美人女性が演じている)

・失恋して恋人のことを思い出したりしてそう

・愛する人を海難事故で失ってそう

・貝殻を耳に当てて昔を思い出してたりして

・記憶や感情など大事ななにかを失ってるかもしれない(ピアノマンの連想)

・素敵な恋愛ドラマが起こりそう

 

こんなところでしょうか。こういう期待が生まれてます。そして「かれんな美少女なんだろうな」と期待してると「丸坊主の女性が出てきた」という情報が与えられるので「くだらない」というユーモアの喜びが生まれます。

 

生まれないのだとしたら、受け手と送り手に文脈を強くさせるなにかが足りてなかったということになります。

 

もっと「ああ、海辺のかれんな少女がいるなあ」と感じさせたらいいですね。「失われた人の名を呼ぶ」「帽子のレースがなびく」「詩を読む」「涙を拭く」などなんでもいいですが文脈を強くさせる作業が必要です。セリフでそれをやるなら脚本、セリフ外であるなら演出の作業となります。

 

惜しむらくはこのコントでは男性が変な人であることをアピールするので、「えーっと、どっちが変な人なんだっけ?」とどういう文脈が走っているのか見失いやすい状況とも言えます。

 

漫才でもコントでも笑える小説でも漫画でもなんでもそうですが、ユーモアの喜びに必要なのは文脈を強くすることと、期待より低い情報を与えること。この2つです。簡単そうに聞こえますよね。このコントではどんな情報が与えられたのでしょうか。

 

・美人である→坊主頭

・失恋して昔を思い出している→ジュビロ磐田ファン

・貝殻を耳に当てる→バリカンを頭に当てる

 

こうやって考えてみると対応させられなくもないですね。坊主頭以後の変な行動も私たちが無意識に期待している内容を次々と下回っていますよね。

 

とはいえ作ったお二人は「美人の対立する概念は…」とかやったわけではないでしょう。この状況におけるおもしろいことを考えてると無意識のうちに存在している文脈と絡んでくるのではないでしょうか。こうやってユーモアが次々と生まれているわけです。

 

「いやいや、それでもあんまりおもしろくなかったんだよな〜」

という人がいたのならば、その人にとって

・文脈が強くなかった

 「海を見ている女性なんて知らないし興味もない」

・期待が生まれなかった

 「海を見ている女性ってどんなことするの?」

・期待より低い情報ではなかった

 「女性が坊主頭でもかっこいいじゃん!」

というようなことが考えられるわけです。

 

「海辺にたたずむ女性」というのは古いマンガやドラマにありそうな設定です。さまざまな世代を相手にしたテレビでのお笑いとは本当に難しいものだと思います。「老若男女を笑わせる」と公言していたコンビも出場していましたが、テレビとはそうあるべきですし、そうであるなら新規領域をやるべきではない(それはお笑いファンにとってつまらないと感じるもの)のでしょう。

 

きっとみんな見たことがない丸坊主を待ち望んでいるんですけど、これだけいろんな面白いことが人々の目を通じてSNSに上がる時代に、まだ見たことない丸坊主なんてあるでしょうか?

 

でも「丸坊主」の言い方を変えたらそれもあるかもしれないですよね。そういう枠組みの変化が求められている時代と言えるでしょう。

 

実際にラブレターズがやったカオス

さてこのような前提があったうえでラブレターズがやったことは「カオスを作ること」でしょう。

 

塚元さんは丸坊主ですから、女性を演じる「変さ」が身近にあったのだと思います。ここに「もっと変な要素を」と足していった先にカオスがあったんでしょう。

 

「海辺にたたずむ美少女」が

「海辺にたたずむ坊主の女」になってさらに

「海辺にたたずむジュビロ磐田ファンの坊主の女」になります。

ここまで来ると美少女からだいぶ遠いですよね。足し算でどんどん変になってやがてカオス的な状況になっていきます。

 

その結果が、女が海辺で丸坊主にして悲しいわ、ジュビロの応援歌歌うわ、海釣りで魚が釣れてめでたいわ、という「どういう状況!?」ですよね。この驚きを言い換えて、劇中の外国人男性も「このことを日記に書く」と言ってました。

 

それはユーモアのぷよぷよ大連鎖みたいなものです。いや、待ってください。もしくはM-1の多ボケスタイルのようなものをコントでやろうとしていたのかもしれませんね。

 

動機はどうあれ、足し算でカオスを作ろうとした。ところがここに「魚釣りの要素要る?」と審査員から疑問が出るわけです。審査員にはカオスだとは映らなかった、もしくはカオスが好みではなかったようです。

 

カオス的状況としては高得点

それでもラブレターズが作ったカオス的状況とその画はかなりの高得点のカオスだったのではないでしょうか。女が頭を下にしてバリカンを当てるというのはあまり見たことがない身体です。ジュビロサポーターが歌い飛び跳ねる身体も他ではあんまりない変な身体です。魚が釣れて「めでたい」という要素を追加したのも気が利いてる。「なんだかわからんがめでたい」はバカそのものですから。

 

画面の奥で釣りがあって、手前でバリカンがあるというのは、二人で起こせるカオス状況としては95点くらいのおそらく人力では最大級のものだったのではないでしょうか。

 

それでも伝わらなかったのだとしたら、二人だけでカオス作るのはとっても難しいからでしょう。

 

もちろん二人だから無理というわけではありません。とってもうまい仕組みを考える人もいますね。ブラックマヨネーズの漫才ではどんどん変な状況になっていきます。「性格の悪いやつが文句や言い逃れをする」状況で感情の反発を使ってとっても自然にカオスを積み上げていきます。

 

対して、コントは現象を並べていくことに終始しがちです。Aの出来事が起こって、Bが起こって、Cが…と「五月雨式に」とメールによく書かれてるやつですね。コントは枠組みの柔軟性を欠いてしまっているんです。

 

カオスやナンセンスはそもそもウケるのか?

ところでそんなカオスが受けるかどうかはナンセンスが盛んだった80年代90年代ならまだしも、現代の今はわかりません。

 

「とっても変!」という状況を作るわけです。これはなにと比べて変なんでしょうか? 現実ですよね。カオス的な状況は「現実はだいたいこんな感じ」という認識ができる人を相手にしたものです。

 

「ふつうこんなことは起こらない」というものですね。これは劇中の文脈とは関係ありません。その意味では「ナンセンス」的なものであるとも言えます。

 

じゃあどうやってこのカオス的なもののユーモアの喜びを強くすればいいでしょう? ユーモアの仕組みでいうと、文脈を強くするか回答の価値を低くするかです。現実は動かしようがありませんから、これは相当に期待を下回らないとわからないでしょうね。

 

そこを海辺の女が丸坊主ジュビロと一本釣りめでたいの二人はクリアしてるかどうか。人によりますよね。

 

見ている人は「現実は本来こうであるのに」が必要になってきます。これは眼の前で起こってることに夢中になりすぎるとなし得ないことでもありますよね。客観的にものごとを見られる人向けの構造であると言えます。

 

もちろん客観視を強くさせる方法もあります。三人目が登場して驚いたり、二人が今の状況を言葉に出して確認したり。時間も人数も必要になってきそうです。ラブレターズのお二人はこの条件下で最大限の効果を発揮してるのではないでしょうか。

 

コントは閉塞的状況にある

今回久しぶりにキングオブコントを見たんですが、全体的に狭い世界で新たなことをやろうとする息苦しさのような印象を受けました。どこに「新しい女性丸坊主」があるのか探すというような。

 

ユーモアというのは間違った情報を見つけて正して喜びがやってくるものですから、一度解いた間違い探しはだるくなってくるのと同じで、新規領域の間違いが一番気持ちがいいわけです。

 

M-1は漫才で形が決まっています。1人がおかしなことを言って1人が正します。一方コントは形が決まっていません。自由な演劇です。

 

M-1がおもしろいのはプレイヤーが多いこともそうですが、形が決まっていることで次々と新しい形ができるからではないでしょうか。「新しい女性丸坊主」を実際に探さなくとも「女丸坊主ちゃん」みたいに言い方を変えるだけでも新鮮味が出ますよね。そんな新たな枠組み、フレーミングが生まれやすいんです。

 

たとえば笑い飯や例えばぺこぱ。前述のブラックマヨネーズもすごい仕組みです。ジャルジャルがゲーム遊びに興じたのもそうですね。毎年毎年M-1からは新たな芸人が登場し、新たな枠組みが生まれています。それは基本的に形があるからこそできることではないでしょうか。新たなフレーミングが可能なメディアなんです。

 

コントの新規領域を生み出すのはそう簡単ではありません。引きこもりの設定でどんな新しいことをするのか。たとえばこれが「LUUP」や「インティマシーコーディネーター」のコントであるなら単純な構造でも新規領域なのでユーモアは簡単に生み出せることでしょう。

 

しかしテレビで披露するとなると新語は万人がわかるとは言い難いわけで、もっとみんながとっつきやすい設定が必要になるんでしょう。

 

それでも新しい枠組みができないわけではありません。長くなりましたが、宣伝です。青汁もいいですが、私達は理論から笑いという現象を考える公演を作っています。今回はおほしんたろうさんのギャグマンガを生身の人間が演じることと、このユーモアについて考えることそのものをテーマにしています。

 

それは既存のお笑いから遠く離れてしまった、自家製酵母で作るいびつなパンみたいなものです。ユーモアは新規領域が一番旨味が強いですから。どうぞ、新しいものをご覧になってください。

明日のアー本公演vol.10『整理と整頓と』(公演中!~11月3日まで)