舞台『スタンレーの魔女』が開幕間近だ。
原作は『銀河鉄道999』など多くのヒット作を生み出してきた松本零士による戦記ロマン短編集「ザ・コクピットシリーズ」の一編。脚本・演出はミュージカル『刀剣乱舞』や舞台「文豪ストレイドッグス」の脚本でも注目を集めている御笠ノ忠次だ。2006年にspacenoidで初舞台化、2008年にユニット「サバダミカンダ」の旗揚げ公演でも上演している御笠ノが、今作ではオーディションで石井凌を主演に抜擢。唐橋充、宮下雄也、池田竜渦爾、松本寛也、永島敬三(柿喰う客)、松井勇歩(劇団Patch)、宮田龍平、津村知与支(モダンスイマーズ)といった、個性と実力を兼ね備えたメンバーと共に、標高5,000m級の山脈“スタンレー”に臨む。
本番が迫る稽古場へ訪れたレポートと所感をお届けしたい。
立ち稽古が始まる直前、宮下雄也が「稽古場取材が入るって時に、こんな場面から始まっていいんですかね?」とボヤく。
取材ノートから急いで顔を上げると、宮下雄也の股間に、石井凌が顔を埋めているところだった。確かに“こんな場面”だ。若干戸惑う。
すると脚本・演出の御笠ノ忠次が「このお話は、ほとんど“こんな場面”です」と注釈を入れた。成る程。
そんな場面から、舞台『スタンレーの魔女』の稽古場取材は始まった。
主演・石井凌が演じるのは、爆撃機の操縦員、つまりパイロットの敷井。
彼は航空探検家・ハーロックが書いた小説『スタンレーの魔女』の愛読者で、小説内でハーロックの愛機『我が青春のアルカディア号』が唯一越えられなかった山脈こそ“スタンレー”だ。ハーロックはかの山々を「魔女のように、無力な人間をあざ笑っていた」と書き記しており、敷井はそのスタンレーを越えることを憧れとしていた。
そんな敷井が属している爆撃隊が目指すのは、連合国軍基地のあるポートモレスビー。
日本軍の陣営はニューブリテン島のラバウルにあり、連合国軍基地に向かうには海を渡って、標高5千メートル級の山々を湛えたニューギニア島のスタンレー山脈を越える必要があった。
そう、出撃命令が下れば、彼はすぐにでも“スタンレー”に挑むことができるのだ。小説の時代よりも飛行機の性能が上がった今では、“魔女”を征服することも可能だ。
だが、敷井の部隊に出撃命令は下されない。
何故なら、部隊の連中は“落ちこぼれ”ばかり。度重なる出撃で飛行機の数が少なくなった日本軍としては、ヘマをして飛行機を壊す連中に任せる機体が惜しいためだ。
敷井を除いた彼らはふて腐れと自虐混じりにダラけており、仲間同士をイジり倒して時間を潰している。……冒頭の“こんな場面”は、このやり取りの中に入る。
その掛け合いは“男子のノリ”特有かつ、絶妙なテンポと一体感にあふれている。
主演の石井凌と共にオーディションで選ばれた宮田龍平、そして着実に経験を積み重ねてきている池田竜渦爾と松井勇歩。活きの良い若手俳優たちを永島敬三がさり気なく牽引している。
さらに、ボケ倒す変わり者集団を的確なツッコミでまとめ上げる宮下雄也。宮下のツッコミは、ボケを「拾う」フォローだけでなく、芝居を整える役割も内包されており、笑いのやり取りなのに場がキチンと締まる。この日の稽古では、場面に良い流れが生まれた模様。
場面稽古を終えた途端、御笠ノが「良かった!」と断言。石井も「楽しい……。すごい楽しかった!」と気持ち良さそうに呟く。
実際、見ていても楽しい。兵士というより男子、の彼らが集団でふざけ倒す場面は笑いの連続だ。今風な軽い言葉で言えば、いわゆる“わちゃわちゃ”なのだが、それが緻密な演出による間合いと、役者たちの腕前で成立しているのだから、間違いなく面白い。
と、いうことが分かったのは、場面後のダメ出し時間だ。御笠ノが、台詞のニュアンスひとつにしても違和感を覚えたところにはリクエストを出し、さらに「それが何故なのか」という丁寧な説明を加える。その役の行動や言葉の後ろにある「理由付け」を明確にしていく作業を怠っていないのだ。
初主演の石井への考慮か、それとも元々の方法なのか。言語化かつ道筋を立てての演出はとにかく丁寧で分かりやすい。物語の後半は特に台詞で場面を現す表現も多いため、こうして共通意識を持っていくことが大切なのかもしれない。
石井は演出卓の目の前に膝を抱えてちょこりと座り、どの言葉も聞き漏らすまいとするかのように、真剣な表情で御笠ノの演出に耳を澄ませていた。
休憩を挟み、唐橋充、松本寛也、津村知与支といったベテラン勢が加わる場面の稽古が始まる。休憩時間中、御笠ノと宮下と笑い話をしていた松本寛也が、その会話の内容を役に入れ込むようにして、戦闘機乗り・後藤のキャラクターを作り出す。御笠ノは笑いながら「この役、いろんなパターンがあるね。“松本寛也オンステージ”だ」と感心。
その上に、部隊の隊長・出戻中尉を演じる唐橋がツッコミどころ満載の仕草を乗っけてみせ、隊員を演じる若手俳優たちが肩を震わせていた。この辺りまでが、物語の前半部分。
ここまでの場面をとんでもなく勝手な表現で言い切ると、「『火垂るの墓』だと思っていたら『紅の豚』だった」という印象。“戦争”を背景に持ちつつ、その辛さに潰えていく生命ではなく、その中で尚失われない何かの粘り強さを描いている。
この場面の直後、津村が演じる石田中尉が出撃から戻り、戦況の不利が漂い始める。だが彼らの心境を過ぎるのは死への恐怖より、仲間たちを見送るばかりで出撃できない歯がゆさだ。
特に敷井は「飛びたい」と、飛行への渇望を隠さない。
隊員たちは、それぞれの事情を抱えながらも、敷井の直向きさとアイディアに乗り、ついにスタンレーへ臨むこととなる……。
その転調の直前、駆け出して舞台を横切る敷井の動きの中で、御笠ノが「ここはセットを飛び越えようぜ?」と石井に提案。すると石井が素の表情で「え、危ないです」とひと言。周りの全員が「現代っ子め!」と脱力していた。
舞台出演の経験はあるものの、石井は本作が初主演。舞台で生まれる動きの“オイシさ”に、皆が驚くほど無欲だ。けれども、そこが周囲から愛される率直さを持つ敷井役とシンクロする。
御笠ノが「ま、これは遊び方だから。言いたいのは“舞台でやっちゃいけないコトはないよ”ということ」と補足すると、石井は素直に「はい」と答えつつ、「あ、でもやれます!」と勢い良くセットを越えてみせた。
物怖じしない石井の真っ直ぐさを中心に据えて、周りが緩急自在の芝居を作る。ここに本番の熱が入ったら、石井は、周囲は、どう化けてくるのだろうかとワクワクした。
戦時中が舞台ではあるが、これは「夢を叶えたいと願う青年」と「その仲間たち」の物語とも言える。
もし“戦争モノ”が「つまらないから」観に行く気がしない、という人がいるのであれば、「この作品は絶対に面白い」と伝えたい。
もしも“戦争モノ”からイメージされる暗さや難しさが躊躇いを生じさせているのであれば、足踏みする必要はない。そして「どんな感想を持てばいいのか分からない」という不安を持つ人がいるならば「どんな感想を持ったっていい」と背中を押したい。
何故なら、この作品は脚本・演出を始めとするスタッフ陣も、役者陣にも、素晴らしく「面白い」人たちが集まっている“演劇”だからだ。
取材・文/片桐ユウ