ミュージカル『スリル・ミー』成河×福士誠治 観劇レポート

一度観たら抜け出せない、濃密な二人芝居のミュージカル『スリル・ミー』が、東京芸術劇場 シアターウエストにて開幕した。初演から10周年のメモリアルイヤーとなる今回は、伝説の初演ペア・田代万里生と新納慎也、前回の出演で新風を吹かせ話題となった成河と福士誠治、オーディションで抜擢された期待の新星、松岡広大と山崎大輝の3組での上演、3組3様の「私」と「彼」で観客を魅了している。
ここでは、最後に初日を迎えた成河・福士ペアの公演をレポートする。

 

一台のピアノから奏でられる、この先の不穏な物語を予感させるような旋律から物語は始まる。この煽情的なメロディーに、観客は一気に『スリル・ミー』の世界に引き込まれていく。

舞台は刑務所内の審理室。受刑者の「私」(成河)は、幼なじみの「彼」(福士誠治)と34年前に誘拐殺人事件を起こし、仮釈放請求審理委員会が行われている最中である。ほの暗い照明に浮かび上がる「私」の姿は、虚ろな目をした初老の男。その立ち姿からは、長年刑務所に服役してきたことが感じ取れる。
残忍な事件を起こした「本当の」動機は何だったのか――。
審理官たちによる尋問に、「私」は静かに事件の奥底にある真実を語り始める。

時は34年前にさかのぼり、一瞬のうちに19歳の「私」が現れる。この19歳の「私」と現在の「私」は幾度も物語の中で行き来するのだが、そのスイッチングの見事さもこの作品の見どころの一つである。
幼い頃からいつも一緒だった「私」と「彼」は、ともに裕福な家庭に育ち、法律家を目指す優秀な大学生。同じ大学に進むも、「彼」は「私」に黙って別の大学に編入し、「私」の前から姿を消してしまう。久しぶりに再会した「彼」は、哲学者・ニーチェに心酔しており、自身も“超人”であるかのように振る舞う。「私」に対しても常に高圧的で、「俺のことが好きなんだろう?」と言わんばかりの態度だ。
「彼」の選民意識や満たされない承認欲求は、やがて「スリルを味わうため」の犯罪へと駆り立てていく。「彼」を心の底から愛し求める「私」は、「彼」の要求に抗えず、その犯罪に手を貸してしまうのだった。
「彼」の犯罪に加担する代わりに、「私」も「彼」に代償を求める。その歪な関係性から生じる「取引き」をより明確なものにすべく、二人は互いの血でサインをした“契約書”を交わす。
窃盗や放火を繰り返すなか、それだけでは“スリル”を感じられなくなった「彼」の犯罪は、やがて「殺人」の完全犯罪を企てるまでにエスカレートしていく――。

成河「私」の狡猾さと、福士「彼」が見せる脆弱さ

「究極の愛」を描いた作品と謳われているが、その描かれる“愛”は演じる役者の組み合わせによって様々なグラデーションがあり、それがこの『スリル・ミー』という作品のおもしろいところだ。
成河「私」が福士「彼」に向ける愛情は、純粋な狂気というよりも、膨れ上がった独占欲や、どうしようもなく沸いてしまうジリジリとした熱情といった、とても人間臭い感情が渦巻いているような印象。「彼」にぶつけるリアルな欲望、訴えかける切実な表情を見ていると、こちらの息も苦しくなるほどだ。

対する福士の「彼」は、徹底して「私」に対して冷酷であり、そこに愛情の欠片を見つけるのは難しい。あくまでも自分の“スリル”を満たすため、承認欲求のはけ口として上手く利用してきたのだろう、と思わせる佇まいである。
クールな表情、すらりとした長身。スリーピースのスーツ姿が美しい福士「彼」が醸し出す気だるい色気は、「私」が焦がれる気持ちに説得力を与えるのに充分だ。
そんな「彼」が、実の弟に言及するときだけは感情的な姿を見せる。自分よりも父親に優遇されている“弟”という存在への苛立ちだけは隠せないところに、「彼」の抱えている根源的な満たされなさが窺える。
「私」に対して常に上位に立ってきた「彼」が弱さや幼さを垣間見せる場面では、庇護欲を感じさせるほど、不憫さが滲んでいたのが印象であった。

物語が進むにつれ、「私」の存在感がより大きくなっていくのだが(元々「私」の視点で語られる構造ではあるが)、成河「私」の、「“彼”とずっと一緒にいたい」というたったひとつの熱情にすべてが飲み込まれてしまったかのような劇空間には、ただただ圧倒されるばかりであった。

<資本主義の病>というエッセンス

以前、キャストインタビューで成河が、「(演出の)栗山さんから、<資本主義の病>というキーワードをもらって腑に落ちた。そういう視点で見ると、この作品がみんなのものになると思う」と語ってくれたのが印象に残ったのだが、なるほど、たしかに劇中でも「金さえあればどうにでもなる」という台詞が何度か出てくるし、「私」と「彼」がそれぞれに希求したものは、「お金では買えないもの」であった。彼らを逸脱行為に走らせてしまった背景には、社会構造による価値観の影響も多分に含まれているのかもしれない。翻って、現代を生きる我々は、コロナ禍でさらに“資本主義社会の限界性”といったものにも直面している。そんなことを感じながら観る成河・福士ペアの『スリル・ミー』は、刺激的であり、新たな角度から作品を観る歓びを与えてくれた。

「私」が手に入れたものは、果たして何だったのか――。
決して晴れやかな気持ちで劇場をあとにするような作品ではないが、なんとも形容しがたい余韻と、上質な芝居を観た、という静かな高揚を得られることは間違いないだろう。

取材・文/古内かほ
撮影/田中亜紀