20年前に日本版ヘドウィグを誕生させたパイオニア、三上博史が待望のステージに立つ!この年末、もはや伝説となった世界的にも稀な個性を持つ<三上ヘドウィグ>が目撃できるチャンスが到来する。ジョン・キャメロン・ミッチェルが台本・主演を務め、スティーヴン・トラスクが作詞・作曲を手がけて1997年にオフ・ブロードウェイで誕生した異色のミュージカル『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』。2001年には映画化もされ、性別、年齢、国境などなどあらゆるボーダーを軽々と飛び越え、今もなおアツいファンが世界中に存在する作品として広く知られている。日本では2004、2005年に三上博史が演じたのち、2007、2008、2009年には山本耕史、2012年には森山未來、2019年には浦井健治、2022年には丸山隆平が演じ、主人公のヘドウィグは演者によって色を変え個性を変えて、大きな愛を振りまき幅広い客層に支持されてきた。なかでも、当時はおそらく高いハードルだったことと思われる日本初演をその卓越した表現力と歌唱力、パワフルでセクシーなパフォーマンスで演じ切り、強烈なインパクトを残したのがレジェンドと言うべき<三上ヘドウィグ>だ。その三上博史が満を持して、日本初演から20年を記念した“ライブ・バージョン”で降臨する!
未定事項は多いものの準備は着々と進みつつある、この10月末に取材会が行われ、今回の“ライブ・バージョン”がどういう形になりそうか、そして『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』という作品に対しての自身の解釈も含め、三上が思いのたけを語ってくれた。
――このたび20年ぶりにヘドウィグに挑むにあたって、まずは改めて三上さんとヘドウィグとの出会いから現在までのいきさつ、心境などについてお聞きしたいのですが。
20周年記念ということで今回の出演のお話をいただいて、ふと初演の時のことや昔のことを思い起こしてみました。僕はそもそも、寺山修司から「お前は俺の演劇に出なくていいから」と言われていたので、自分は単純に演劇には向いていないんだなと思ってずっと避けていたんです。そして40歳を迎え、もう役者稼業を引退しようかなとまで思っていた時に、寺山没後20年記念としてPARCO劇場で上演した『青ひげ公の城』という作品に出演させてもらったら、「こんなに自由に泳げる場所があったんだ!」と気づいて、そこから演劇に傾倒していくようになり。その『青ひげ公~』の公演終了後に、当時自分のアパートがあったアメリカ西海岸のとある小さな町のふらりと入った劇場で上演されていたのが『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』だったんです。その時点で初演から何年か経っていたのでもうオリジナルキャストではなく何代目かのヘドウィグで、というかもういろいろな俳優が各地で同時に公演をやっているような人気の演目になっていました。とにかく音楽がものすごく印象に残って「このちょっとグラムロックっぽい音楽を、自分が長年続けてきたバンドで演奏出来たらすごくいいだろうな」と思ったんです。それで日本に戻ってから早速『青ひげ公~』のスタッフにヘドウィグの話をしたら、もちろん既にみなさんご存知でまさにこれから日本でも公演をしようと思っているという話で。そこから紆余曲折あって、なぜか僕のところにその話が来て日本初演の1年目をやることになりました。そうしたら自分でも驚くほど自由に泳ぐように演じることが出来て、日に日に手応えも感じ、公演を重ねていくうちにどんどん客席側の熱も盛り上がっていった。その流れで2年目のお話をいただいて、再演をやり。だけど3年目は「いや、もう出来ないよ」と。
――それは、やはりヘドウィグを演じるのは相当しんどかったから、なんですか。
正直なところ、しんどかったです(笑)。あれから20年が経って今に至るわけですが、じゃあ現在の自分には何ができるだろう、待ってくれている人たちのことはガッカリはさせたくないけれど、とはいえフルバージョンであの作品をやり切るのは、やっぱりしんどいなぁと思いますし(笑)。ちなみに、今日も靴の打ち合わせをしていたんですが、当時は10センチのピンヒールを履いていたけれど、さすがに今の自分にはちょっと無理ですから。それで、ともかく今回は20周年のお祭りだから、あの楽曲をご披露するだけでもいいんじゃないか、と思い今回は“ライブ・バージョン”ということになりました。だけど、そう考えるとまさに最初に立ち返るというか、20年前、僕はあの楽曲をバンドでやりたかったんだよな、と思い出して。その後もずっと付き合いを続けてきた当時の“アングリーインチ”のメンバーでもあったミュージシャンたちは、それぞれ20年の間にお休みしていた人がいたり、地方で活動している人もいたり、さまざまな人生を過ごしていたんだけれど、そのメンバーもほぼみんな出てくれることになりました。きっと、たとえ同じように演奏をしても、この20年の彼らの人生が滲み出てくるでしょうから面白いことにはなるはずですし、深みも増してくるだろうなと思っています。
――では、三上さんは今回はその楽曲を歌うだけで、ヘドウィグにはならないということなんですか?
さあ! そこですよね!!(笑) 自分は、音楽活動をずっとサディスティックにやってきていて、どうしたらみんながげんなりするだろうと考えていたんですが……。
――“げんなり”を狙うんですか?(笑)
そういうサディスティックなところは、あったでしょうね。僕の最初の全国ツアーライブの時、50本近くやったんですけど、当時映画が公開された直後みたいなタイミングだったこともあってお客さんが「とにかく何とかして見たい、会いたい!」というようなノリだったので。
――アイドルみたいな?
まあ、平たく言ってしまえばそういう感じで、僕の音楽性に関しては興味が薄そうなのが手に取るようにわかってしまったから、素顔は白く塗って隠し、衣裳はタイツにおちんちんのパッドを装着したりして。とにかく、もうお客さんがげんなりするようなことばかり考えていた。それに関しては、ついこの間までそんな感覚だったんですが、もちろん初めて来る方もいるでしょうけど、今回はやっぱり僕が演じるヘドウィグをすごく求めている人たちが大勢いらして、どういうものが観たいのか、僕にもわかってはいるんです。だからせっかくの20周年ということで、三上博史がヘドウィグの曲を歌う、というシンプルな形でもやれるのかもしれないけれど、それだとおそらくみなさんは許さないだろうな、とも思っていて。
――ということは、それだけではない、と?
だから、扮装はします。
――それが何の、どんな扮装かは明言しないけれども?
進化は、してます。
――進化した扮装、なんですね(笑)。
初演当時も、ヘドウィグ自体は既に世界的に認知されていて、世界のそれぞれの国に、それぞれのヘドウィグがいた時代だったんです。サイバーパンクとか、ヘヴィメタル風でやっていたり、国によっていろいろなヘドウィグがいた。だから僕は、その時の日本、東京ならではのヘドウィグをクリエイトしたかったんです。そういう意味では確かにあの時は、世界から見ても独自なヘドウィグになっていたと思う。演奏に関しては、本家は80’sのちょっとブリティッシュで、あえてペランペランなサウンドを狙っていたように思うんだけど、僕らは真っ向から重厚な重低音で、グラムロックなんだけどさらにコアな感じでやっていた。そうやって、演者の個性に合わせたそれぞれのヘドウィグがいていいと思うんです。今回は、東京も一周回って僕に戻るわけで。とはいえ、お芝居の部分はないのですが、それでもちょっと隣のキュートなお姉さんみたいな、少し毒があって突き放しているんだけれど、それでいてものすごくあったかい。そういう存在から発せられた音楽だというところは残したいな、というか。そして物語の途中では、ヘドウィグの世界を説明しては怒ったり喚いたり嫉妬したりを演じているんだけど、最後の最後はただみなさんに届けるだけ、という作品なんです。つまり芝居の脚本も、最後のシーンにはほとんどお芝居としてのセリフはなくて、音楽だけで成り立たせる世界になっているんです。今回も、その境地に“みんなたち”を連れて行きたい、とは思っています。
――ぜひ、連れて行ってもらいたいです(笑)。
だけど、そういうわけで芝居部分がないとなると、じゃあMCでヘドウィグは何を言うんだろう、どうやってやろうかなと考えたら、MCってヘドウィグの格好ではできないじゃないですか。あれは芝居として決まったセリフがあるからこそ、僕は演じられるので。そこを、アドリブでMCなんてとてもじゃないけどできない。ということで直接、ジョン・キャメロン・ミッチェルにメールをしてみたんです。今回こういうことになっているんだけど、20年経ってヘドウィグはどうなってるだろうね、それをMCで語りたいんだけれど、と。そうしたら「アメリカ中西部かどこかの田舎町で、大学の客員教授かなんかになってて、愛を教えてるんじゃない?」と言ってきたから「それ、すっげー面白い! じゃあ、それをぜひ書いてよ」と返したら「僕は、時間がないんだ」と言われてしまって、その話はなくなったんですけど(笑)。しかし本当に、このMCをどうやるかは、すごく難しい。幕開きは『ティア・ミー・ダウン』という曲で、これは「壊しなさい」ということを歌うんだけど、それは何を壊すという意味なのか。20数年前の時点の世界ということで考えれば、やっぱりその壁はベルリンの壁で。ヘドウィグは東ドイツで生まれて、西側に出るために性転換手術をし、その手術が失敗して怒りの1インチが残ってしまい、それを抱えたまま歌い続けていくという話だから『ティア・ミー・ダウン』は男でもない女でもない、この私を倒しなさい、と歌うわけです。でも今、現在はどうなのかと考えると、当時よりもさらに壁だらけの世の中になっているように思えて。それはどんな壁かというと、取りつくしまのないくらいお互いコミュニケーションが取れないほどの、徹底した分断。それもほとんどがSNSから発されていて意思の疎通もできないような、見渡す限りの壁だらけ。ヘド様は、きっとそれを壊したいだろうなと思ったんです。だけどそのことを、あそこまで巧みに再び物語として構成することは難しいし。なんとか歌の中だけでも、少し呼吸ができるような空間が今回できればいいなぁとは思うんですが。「えー、なんでもありじゃーん!」というか「自分はそうは思わないけど、全然責めないよー!」というような、そういうところに行けたらいいなと思います。まあまあ、みなさんも、僕自身もきっと切羽詰まってるんでしょうけど。だけど、正直言って「芝居やんない」って聞いたらガッカリしたでしょう?
――歌が聴ければ充分嬉しいです、楽曲の魅力も本当に大きいので。でもやはり、それをヘドウィグとして表現されるのか、三上さん個人としての表現になるのか、という点はどうしても気になりますが。
そこは、まだ固まっていないんです。だけど、どうしたって僕自身の中には『ウィッグ・イン・ア・ボックス』や『シュガー・ダディ』の世界はないので、あれは完全にヘド様として歌うしかないでしょうね。『ティア・ミー・ダウン』は先ほど言ったように自分の中にもある世界観だから、僕が出てくるのかな。でも後半の曲に関しては役も何もかも全部が取れてしまう、みたいなことになるから僕なんだろうと思いますけど。
――『オリジン・オブ・ラブ』は全人類に向けた愛の歌だと思えば、ヘドウィグでもあり、三上さんでもありということでしょうか。
そうですね。そう考えると、あの曲はプラトンの哲学がベースになっていることもどうにか説明したいんですけど、ヘドウィグの格好をして、三上博史として「これはプラトンのね……」と語り出すのも難しいじゃないですか。基本、僕はおせっかいなので(笑)、あの歌詞の裏側にはそういうアリバイがあるんだということも伝えたいんだけど。それに、あの曲を口当たり良く「私の片割れ探し」とか「運命の赤い糸」とか少女趣味みたいな方向だけに持っていかれちゃうのも、本意ではないし。大体、僕は初演時からずっと「これは気が違った女の妄想話だ」って解釈できると思っていたんですよ。中西部のどこかで生まれた、ちょっとメンタルをやられた女で、場末のライブハウスに行った時に見かけたギタリストがとっても素敵だったから「私、あの人と付き合ってるのよ! それで私の作った曲を彼が盗んだのよ!」と、そんなことを言っている、というような話だなと思っていて(笑)。そういう斜めからの見方で、ずっと演じていたんです。
――ということは、東ドイツから出て来て……というところも。
もう、きっと嘘なんだろう、と。だから僕があくまでも舞台版が好きで、映画版をあまり好きじゃないのは、子役が出て来て、お母さんもルーサーも特定の人物として登場するからリアル過ぎちゃって、もうそれでしかないみたいに見えてしまうから。その点、舞台版だと「全部、妄想ですよ」って言えちゃう余地があるところが好きなんです。
――そういう想いで、演じていたんですね。
妄想の中の話、なんです。僕はそういう風に解釈してます。だからこそ純粋で、そこには一点の疑いもないんです。
――三上さんから、ヘドウィグを求めているファンの方々へメッセージを送るとすると、どんな言葉になりますか。
なんだろうなあ。言葉にすると、すごく大上段で押しつけがましくなりそうで嫌なんだけれど、とにかく「大丈夫だから、みんな、綺麗に生きよう!」って言いたいです。綺麗に生きよう、って難しい言葉ですが、僕がずっと思っていることでもあって。だってもう残りの人生、綺麗に生きたいんですよ!(笑) これ以上汚れたくないし、これ以上濁りたくないし。勝ち負けでもない、そういう場所に行きたいというか、いたいんです。理想論といえば理想論だから「それって理想論じゃん? でも大丈夫だよ!」という気持ちを、今回は最終的に届けたいかな。それと、たとえば同じ職業の人が来てくれていたとして、全然反面教師で構わないし「ああいうダサいことは絶対したくないよな」って思われるという意味でもいいんだけど、何かしらの愛を彼らに送りたいんですね。そこをきっかけに、その人たちが違う道を見つけたりしてくれても良くて。でもそのためにも、本気でやってますというところは見せないといけない。ちょっと脱線しますが、今年1月にやった『三上博史 歌劇』の時も、あの寺山の膨大な世界をどうやって演じようと、僕はすごく悩んで、もうずっと揺れ続けていたんです。すると、ある知り合いが「舞台を観て、この人、信用できるなと思った」と言ってくれたんです。その瞬間に、なんだか「ああ、やって良かった」と思えました。「自分は、ちゃんとやれていたんだ、それが伝わったんだ」と、少し楽になれたんです。だけどそこまで持って行くのには、とにかくかなりの体力と気力が必要になってくるので。今回も、まだ不安はありますけれども、なんとかしてちゃんと最後まで務めたいなと思っています!
“ライブ・バージョン”ということで楽曲の良さが強調されると同時に、現在の三上の磨きのかかった表現力が胸に響く、刺激と愛に溢れた、さらなる伝説となるステージが繰り広げられることは間違いない。どうぞ、この機会をお見逃しなく。
取材・文/田中里津子
ヘアメイク/赤間賢次郎(KiKi inc.)
スタイリング/勝見宜人(Koa Hole inc.)
≪衣装クレジット≫
・ジャケット ¥88,000
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