誰もが知る“一人芝居”のレジェンドでありつつ、映像作品でも作品ごとに深みのある人物を演じ分け、精力的に活躍を続けるイッセー尾形。彼が独自のスタイルで40年以上という長きにわたり続けている一人芝居は、今年からタイトルを一新し、この年末には恒例となった会場でもある有楽町朝日ホールにて『イッセー尾形の右往沙翁劇場・すぺしゃる2024 in 有楽町』として、この春に誕生した新ネタを中心に上演する。その新ネタについてや、ライフワークでもある一人芝居への想い、今という時代に思うことなどを大いに語ってもらった。
――まずは12月に行われる有楽町朝日ホールでの公演について、どんな舞台になりそうか、教えてください。
今回も4月に新作を下ろしまして、これまでに時間をかけて、書き直しをしたりもしながら育ててきて。その育てぶりは、これまでで一番思い入れが強いと言えるかもしれないですね。日々いろいろなことを経ながら、徐々にそれぞれのネタに登場する8人の人物を膨らませていくんです。この作業は毎年やっていることではあるのですが、今年は特にネタ一つ一つ、一人一人がここまで育ったか、という充足感があります。1年間かけて、まるで母親が子供を育てるようにじっくりと8人を育ててきた感覚なんです。
――本番を重ねることで、育っていくものなのでしょうか。
公演を重ねることはもちろんですが、舞台を終えて部屋に戻ってきて再度台本と対面し、手直ししていきます。そしてまた舞台へ連れて行き、また帰ってきてという繰り返し。ネタを発表する前は机の上での作業がどうしても多いのですが、発表した後はお客さんとのやりとりによってどう膨らむか、大きくできるかということになります。ということは、今後もまだまだ育てがいがあって。ナマの空間で、育てていくという感じですかね。この8人というのはみんな、言ってみれば弱い連中なんですよ。
――8人はそれぞれどういうキャラクターなのか、少しヒントをいただけますか。
今、この時代って自分第一の時代というか、エゴの時代というか。笑う、という点で考えるとあまり笑えない時代なのではないかと、私は思っているんですけども。
――笑いづらい世の中になっている。
そう、笑いづらいですよね。笑うと「その笑い方、なに?」みたいに何かと難癖つけられちゃいますし。非常に微妙な時代です。その中で生きる、この8人の登場人物たちは弱い部分もあるんだけれど、そこに面白みを感じていただける人たちなのではないかなと、私はそこに突破口を見出そうとしているわけです。あえて、笑って当然だよねって人は一人もいません。たぶんね(笑)。つまり、この人たちは当然のようにヘマをしてしまうんです、そんな人たちが時代に立ち向かえるはずもないですから。だけど、そのやりきれなさを笑い飛ばす力は、今もまだ人間には残っていると思う。「こんなこと、笑っちゃおうよ!」みたいなね。そこに賭けていると言ってもいい。それが、共有するってことじゃないでしょうか。笑いというものは共有することで、決して一人きりで笑うものではないと思うので。
――では、登場してくるのは弱さがありながらも、お客様たちが共感しやすい人物。
そうですね。そして演じ始めたら、これは誰というのがすぐわかるようにはしています。職業を、自分で名乗ったりしますから(笑)。若い頃は「さあ、この人は誰でしょう?」と、なぞなぞみたいな登場の仕方だったこともあったんですが。でもある時、そういうことは早めに知らせたほうがお客さんにとっては親切だ、とわかりまして。それ以来、早めにお知らせするようにしているんです。
――そのほうが、その人物の世界に入りやすい。
お客さんが「この人、知ってる」とか「この世界観はわかる」とか、または知らなくても知った気になれれば心を開いてくれるので。やっぱり、開いてもらわないことには何も始まりませんから。
――その8人の方々は、イッセーさんの中からどういう風に生まれ出てきたんでしょう。
出どころはいろいろあります。このポイントに行けば芋づる式に8人のキャラクターが繋がって生まれてくる、ということはないです(笑)。みんな、出自は別々です。だけど、この時代を受けて、時代に合わせて生まれてきたんだろうとは思いますね。先日亡くなられたイラストレーターの山藤章二さんからは、私が若い頃に「イッセーさんのネタは不公平な芸である、と同時に時代を映す歪んだ鏡だ」と言われたことがあるんです。作っている最中はそんなことは考えていませんが、振り返ってみると、やっぱり改めて大きな言葉だな、山藤さんは評価してくださっていたんだなとしみじみ思います。
――机の上での作業が長いとおっしゃっていましたが、ネタを作る時は何かのきっかけを得たら、あとはずっと自分の中の世界に浸って書いて作っていくのですか。
自分でその場で即興しながら書くんです。「うひぃー」って笑ったりしながら(笑)。頭の中の想像を口に出しながら、作ったセリフを喋ったりしながら、書いています。
――その様子を傍から目撃してしまったら、驚くかもしれませんね(笑)。
作っている最中を見られたら「あいつは放っておこう」と思われると思いますよ(笑)。
――これだけ長く続けていて、一人芝居をすることに飽きることってないんですか。
一人芝居には、一人でやるという形態と同時に誰を演じるか、ということがありますよね。この“誰を演じるか”、これがなくならない限り、飽きることはないと思っています。「次、こんな人をやりたい」というのは、自然と湧いてくるものですから。一人芝居という技術、そのものはいろいろとありますが、人物とはいつだって新鮮に出会える。ま、自分で作る人物ではありますけどね。
――その人物との出会いは、やはり時代次第なんでしょうか。
それ以外ないと思います。たとえば、江戸時代の人を演じようとは思わないですから。常に演じるのは、現代人です。だけど実は12年前にフリーになった頃、時代が見えなくなった時期があるんですよ。誰を演じていいのかわからなくなってしまって。そこで一回、夏目漱石まで戻ったことがあるんです。漱石さんの小説は『それから』とか『こころ』とか『坊っちゃん』とかたくさんありますが、それぞれの作品の脇役、副登場人物に焦点を当てて、想像でネタを作ってみたんです、『妄ソーセキ劇場』というタイトルにしてね。すると、漱石さんはやっぱりすごくて、副登場人物も実に豊かに書いてあるんですよ。それをちょっと演じてみたら、これはひょっとして現代人まで通じる話だなと思えるようになり、それで再び僕も現代に戻って来られたんですけれども。と、考えると漱石さんという拠り所があったんだと実感しましたし、そういう意味ではキャラクターとの出会いは時代と漱石さんが作っているのかもしれない(笑)。
――今回、各地の劇場でのお客さんの反応、その場の空気としてはいかがでしたか。
舞台に立っている時は無我夢中なので、それどころじゃないんですけれどもね。だけど、一人芝居を観慣れているお客さんは、この「間」は次のための「間」だとわかるけれど、初めてのお客さんはこの「間」が何なのかわからないですよね。こちらは「ちょっと待ってね、すぐやりますから」みたいな感覚でいるんだけど。そういう綱渡り状態みたいな空気を、初めてのお客さんたちはきっとどこでもいつでも感じられているのではないかと思います。
――初めての方だと「あれ?」と思うことも?
つまり、舞台を見る観客の立場になると「その間は、いらないんじゃない?」みたいな部分が随所にあると思われます。
――でも、それは一人芝居ならではの大事な「間」でもありますよね。
まさに、ならではの「間」なんですけど。だけど、この「間」がないとね、私の舞台は早いこと、早いこと。
――上演時間が短くなっちゃいますか(笑)。
昨日は2時間あったのに今日は1時間しかない、なんてことになったりするかも(笑)。
――でも、一人芝居だと誰も助けてはくれないわけですしね。
そういうことです。逆にやりたい放題っちゃ、やりたい放題なんですけどもね(笑)。
――こうして、一人芝居を長く続けるモチベーションの源みたいなものはどこにあるのでしょうか。
役者という仕事は人間と直結する仕事でもありますが、その人間の解釈がありますよね。人間というものはこういうものである、とか。それをみんなそれぞれ考えていて、僕も僕なりに考えて、作っていくわけです。そうするとキャラクター、顔、形、喋り方、喋る内容、そのリズム……。さまざまな要素があるんですよね、人間というものは。そう考えた時、これは自分の人生じゃ足りないかもしれないなと思う時があるんです。
――人間を描くということに、対峙した時に?
そうです。だから途中で「もういいや」みたいな、そんな気持ちにもなることもあったりはするけど、「もうこれで人間というものをすべて表し尽くせた」なんて思えることは一回もありません。そのことが、こうして延々と続けられてきた原因だと思いますね。
――やってもやっても、やり尽くすことはない。
それは本当に、ないですね。
――そして今回、劇場のロビーにはイッセーさんが作った人形や、写真家の浅田政志さんが撮影された舞台写真が飾られていたりするそうですが。
去年、浅田政志さんに舞台の写真を撮っていただいたので、それをパネルにして展示する予定です。それと今『Coyote』という雑誌で、宮沢賢治の作品からインスピレーションを受けたものを小説にしているんですが、それをさらに人形として発展させて作ったものがあるので、それを並べようかなと思っています。
――人形とか、そういう立体を作ることもお好きなんですか。
好きですね。ある意味、彫刻みたいなものなんですよ、私は。一人芝居って、動く彫刻のような感覚なんです。その動いているものが止まった状態が、人形だということですね。
――そこに、繋がるポイントがある。
ありますね。おそらく、プロの演出家とかだといろいろディテールが違ってくるでしょうけれど、僕にとっては一人芝居と同じ延長線上で、いろいろな表情とか瞬間を止めたものが人形だと捉えています。
――それを、今回は宮沢賢治作品のモチーフで作ったわけなんですね。どこの場面を切り取ったかは、イッセーさんのお好みで。
そうですね。だけど人形の場合はわりと題名通りというか。『銀河鉄道の夜』とか『セロ弾きのゴーシュ』とか、あまり変化球ではありませんから、見ればすぐわかると思います。そちらのほうも、ぜひ楽しんでみてください。
取材・文/田中里津子