2月19日(木)よりシアター風姿花伝にてホエイの『メヤグダ』が開幕する。
2013年に河村竜也、山田百次、赤刎千久子の3名によりスタートしたホエイ。作・演出を手がける山田は『郷愁の丘ロマントピア』で第63回岸田國士戯曲賞最終候補にノミネート。長野での滞在制作(NAGANO ORGANIC AIR)や札幌での上演(シアターZOO企画公演札幌座『郷愁の丘ロマントピア』)など、地域を横断した活動も精力的に行なってきた。2022年に再演された『ふすまとぐち』や2024年に上演された『クチナシと翁』では、青森を舞台に繰り広げられる全編津軽弁の怒涛の会話劇を相次いで上演。「家族」や「祭」を題材にその土地で起きる人々の人間模様と社会の様相を痛切に炙り出した。
そして、2年ぶりとなる新作『メヤグダ』では、青森出身で東京在住の人々が出入りする「県人会」というコミュニティを舞台に、故郷を持つ人々の人生やその葛藤をさらに深く描き出す。帰る、帰らない、そして、帰れない。津軽弁と標準語が飛び交う県人会で、さまざまな思いを抱えながら生きる人々が見つめる青森と東京、そして、生と死とは…? これまでの作品群と接続しつつも新たな視点が忍ばされた本作の見どころについて、作・演出の山田百次と、プロデューサーでありキャストの河村竜也に話を聞いた。

東京へ舞台を移すことで生まれる広がり
―“地下鉄13番出口から徒歩5分、ドアを開ければそごは青森”。地下鉄出口を外からとらえたチラシの絵にそう添えられているように、本作は東京23区内にある県人会の事務所が舞台となっています。青森を舞台にした過去二作を経て、本作で舞台を東京へ移すに至るにはどんな経緯があったのでしょうか?
山田 自分たちの劇団に限らず、方言のお芝居って、その地域で起きていることを描く、いわゆる “ご当地もの”になりがちなんですよね。もちろん、だからこそ描けるものもあるのですが、一旦そこから離れて、自分が東京で暮らしている実感も活かしつつ方言を使ったお芝居が作れないかな、ということを前作以降色々と考えていて…。そんな時に「県人会」という舞台設定が浮かんだんです。青森出身の人たちが好んで集まっている場所。それぞれの事情を持って故郷から上京し、たまたまその時同じコミュニティに属しながら生きているということ。そうした背景を起点に、人々の触れ合いみたいなものが描けないかなと思ったんですよね。
河村 ホエイでは作品に関する題材やトピックをカジュアルに話し合う雑談のようなミーティングを度々行なっているのですが、この舞台設定についてはほとんど異論もなく、すんなりと決まりました。東京で生きる青森の人々、そして「県人会」というコミューンから山田が描き出すものの可能性が構想の段階から感じられましたし、新たな設定の中で、これまでの作品群に通底してきたテーマについてもより深掘りができるのではないかと感じました。
―東京を舞台に設定する上で大切にしたことはどんなことでしょう?
山田 想定していたよりも余裕を持って執筆を進められたので、「手癖で書かないようにしよう」と心がけて執筆しました。いつもは条件反射やその場で思いついたことをそのまま書いて残すことが多かったのですが、今回は書いたものを一度吟味して、即物的過ぎる表現やあまりに生々しいネタを取捨選択する時間を設けました。また、内容についても、今までとは違ったアプローチに挑戦しました。過去作では青森を舞台とした時に、「東京や他地域の人が思う青森」は描かないように意識していたんですよ。例えば、あえて林檎は出さないとか。ザ・青森っていうイメージとは違う、裏の青森みたいなものから抽出して演劇を作っていたのですが、今回は「ザ・青森で行こう!」と。
河村 今、この稽古場にある小道具を見てもらっても伝わると思うのですが、だいぶ「ザ・青森」なものたちが揃いました(笑)。
山田 これまではちょっと尖っていたというか、「そんなのは真の青森じゃない!」と、自分の知る限りの青森の側面を描くことに注力してきたのですが、「県人会」を舞台とした今回の作品では、青森以外の方が抱く青森のイメージも重要な要素になってくると感じたんですよね。だからこそ、そのイメージも存分に使って勝負をしたい。そんな思いから、満を持して林檎や津軽民謡が登場します(笑)。お客さんが描くイメージと、自分たちのやりたいことをすり合わせるという意味も込めて…。

すぐ隣にある生と死、そして孤独
―事務所に迷い込んだ一匹の猫の死。そこから県人会というコミュニティを巡る物語が動き出す本作は、「どこで生まれ、そしてどこで死ぬのか」といった死生観も一つのテーマとなっているように感じました。
河村 今の時代を生きていると、人の生死に対して感度が鈍っていくような感触を覚えることもあって…。養老孟司さんの著書内で「近代社会では人が死ぬということがマインドセットの中で忌み嫌われ、どんどんないものとして社会が構築されていっている」という旨の文章に触れた時に、まさにその通りだなと感じたんですよね。例えば、都市では日常生活の中で視界に墓場が入ることはそう多くはないし、どちらかと言えば、ネガティヴな意味合いで避けられることが多いけれど、田舎ではその風景がごく身近だったりする。実際に僕が今暮らしている兵庫県・豊岡市の自宅は目の前がお墓なんですけど、そうした暮らしの中で、改めて死生観の違いのようなものに気づいたんですよ。「人が死ぬ」ということは人が生きている上でも、生きていく中でも本来はごく普遍的なことなはずで…。そうしたテーマは前作から引き続き、今作にも通底していると思います。
―山田さんが冒頭に仰ったように、家族とも友人ともまた違う、県人会というコミュニティだからこそ描ける人と人との出会いや触れ合い、会話のやりとりも見どころになりそうですね。
山田 そうですね。県人会については本作の創作にあたって色々リサーチもしたのですが、実はこれまでのホエイの公演に県人会の方々が来て下さったこともあったんですよ。テレビが主流で、劇場で演劇を観る機会などはほとんど初めてという方ばっかりだったのですが、こまばアゴラ劇場に20人くらいの大所帯で観にきて下さって…(笑)。そうした繋がりはあったりもしますね。
河村 演じていても、本当に人と人との関係性の極地のようなお芝居だと感じています。県人会に限らず、「自分が何かに属している」ということの安心感ってやっぱりどこかにあると思っていて…。面倒臭くもあるけれど、その面倒を排除した先で孤独に行き着いてしまう。そういうことがどこか不安で、人々は何かしらのコミュニティを訪ねたり、身を置きながら生き、そして、死んでいくんじゃないのかなって。この作品は、そういった誰しもが生や死を前に抱える漠然とした「孤独感」のようなものを揺さぶるものだと思います。中でも、僕が演じる役はそうした人と社会をなんとか溶かし、不器用なりに繋ごうとする役なので余計に痛感しますし、今の時代にこの作品を上演する意味にも繋がると思っています。だからこそ、暗い感じではなく、普遍的な人間の生き様として演じられたらと思います。
「出る/出ない/出さない」方言と
「帰る/帰らない/帰れない」人々
―青森から東京へ舞台を移したことで、もう一つ見どころ/聞きどころとなるのが「方言」の扱い方ではないかと思うのですが、このあたりはどうでしょうか? 方言が出る人/出ない人といった違いもまた東京が舞台の本作ならではの面白みな気がして…。
山田 そうですね。全編津軽弁でお送りした前二作と違って、今回は標準語のシーンもたくさんあります。
河村 いちキャストとしては、まさに稽古でその面白みを実感しているところです。僕は広島出身で広島弁を話すこともありますし、他にも標準語や津軽弁を芝居の中で話すこともあるので、「標準語とは果たして何なのか」ということをすごく考えさせられます。というのも、標準語って、別に東京弁というわけじゃなく、みんなに伝わる最大公約数的な言葉という意味じゃないですか。方言と交互に使っていると、「標準語はいろんなニュアンスが削ぎ落とされた、状態のわかりやすい言葉なのだな」ということをより痛感するんですよね。でも、それを喋る自分にはまだ違和感があるというか、どこかオリジナルじゃない、借り物の自分という感触がどうしてもあるんですよね。
―「どの言葉を話している時が本当の自分なのか」。地方から上京した者としてもそうした感触はすごく共感します。
河村 かといって、地元に帰って自分のオリジナルだと思っていた言葉を話すと、今やそれさえもどこか辿々しくなって借り物になってしまっている、みたいな実感もあって…。「会話中に方言がポロッと出た途端に相手の素顔が見えた気がする」と思ってしまう現象にも通じるのですが、このあたりのジレンマは多くの人と共有できるものじゃないかなとも感じますし、青森を舞台にした作品ではできなかったことの一つだとも感じます。
山田 登場人物たちも、それぞれの事情を抱えながら東京に出てきていると思うんですよね。例えば、大阪出身の人って関西弁が強く出る人が多い印象がありますが、中には全く出さない人もいて、よくよく聞いてみると、「実は関西のノリが苦手」という理由があったりもして…。でも、そういう人たちも感情が揺れた拍子にふと方言が出ちゃったり、仮面みたいなものが剥がれる瞬間があったりもして、そういうところにも方言のお芝居の可能性があるなと思うんです。方言が出る/出ないだけでなく、「出さない」という意思もあるし、それと同じように、故郷に帰る/帰らないという意思だけでなく、「帰れない」という状況や事情もある。そんなことを含め、東京や地方に対する濃度や距離感を感じながら書きました。

観終わった時に初めて本当の意味がわかる
タイトルに込めた思い
―魅力的なキャスト陣とその配役も見どころとなりそうですが、稽古場ではどんな風にクリエーションを進められているのでしょうか?
山田 キャストにも青森出身の俳優が多くいるので、方言の使い方に関しては色々意見を聞きながら稽古を進めています。津軽の中でも住んでいるところによって、微妙に言葉や慣習が違ったりするんですよね。例えば、漬物に醤油をかけるか否かなど、生活の細かい違いも含めて…。そのあたりの違いをヒアリングして整合性をとったり、すり合わせたりはしていますね。「県人会」だけに、県のいろんな場所から人が集まっているはずなので。
河村 登場人物の設定と演じている俳優たちの状況がオーバーラップするところも要所要所にあり、とても自然に人物像が立ち上がっている印象ですよね。役を見ていただきながら、演じている人自身の背景も少し浮かんでくるというか、そうしたリアリティ溢れる面白みが作品全体の伸びしろになっていると感じます。
山田 キャストの方々も本当に素晴らしく、自分が書いたもの、想定した風景を遥かに越える形で有機的に動いて下さっていて…。立体的と言うと月並みですが、県人会に出入りする人々のドタバタとした様子はもちろん、東京在住の故郷を持つ人たちの生き様みたいなものを各々が立ち上げて下さっているので、そこも大きな見どころだと思っています。
―ここまでお話を伺って、『メヤグダ』というタイトルは観終わった時の余韻も含めて、とても象徴的で秀逸なタイトルだと痛感します。個人的にはどうか意味を調べずに、本作を観てほしいと願わずにはいられないほどで…。最後にタイトルに込めた思いをお聞かせ下さい。
山田 タイトルについては僕と河村と赤刎のメンバー3人で話し合ったんですよ。前二作は『○○と△△』というタイトルが続いたので、そろそろ全く違う感じのものにしたいという思いもあって…。
河村 色々迷走して、ドイツ語とかを調べて『メ・ヤグダ』と中黒をつけてみたりもしましたよね(笑)。
山田 そうそう、色々試行錯誤しましたね(笑)。3人でタイトルを話し合った当時はまだ「県人会」を舞台にしようというところまでしか決まっていなかったのですが、「メヤグダ」という言葉に行き着いた瞬間に内容の方向性が一気にぐっと深まった感じがありました。タイトルから中身が広がった部分も大きいので、そのあたりも注目して観ていただけたらと思います。
河村 帰る、帰らない、帰りたい、帰れない、帰れるのか。『メヤグダ』というタイトルには、そうした人々の相反する気持ちや故郷との距離感がギュッと込められていると感じます。
山田 まさにそうですね。自分の姉も高校卒業を機に田舎を出て、帰る帰ると言いながら結局帰らずに結婚をしたのですが、その時に母がすごく悲しんで…。でも、姉にも言葉にできないような葛藤があったと思うし、双方にいろんな感情が渦巻いていたと思うんですよね。故郷を出て暮らしている人々は、そんな風に何かしらの迷いや葛藤を抱えながら、その果てで「今、ここにいる」と選択をしているのだと思います。そして、そういう人々が「東京」という街を作っているとも思うんですよね。そんな思いを込めて『メヤグダ』というタイトルをつけました。どこで生きるのか。そして、どこで死んでいくのか。そんなことを考えながら、今を生きている人々に向けた作品が届けられたらと思っています。

取材・文/丘田ミイ子
撮影/河村竜也、赤刎千久子
