『毛皮のマリー』 開幕目前稽古場レポート・美輪明宏さんインタビュー

美輪明宏が演出・美術・主演を担う代表作の一つ『毛皮のマリー』。
寺山修司が美輪のために書き下ろし、1967年の初演から何度も上演を重ねてきた、日本の演劇史に輝く傑作だ。その3年ぶりとなる上演に向け、稽古場公開と合同取材会が行われた。

美輪が演じるのは、日本一ゴージャスな美貌の男娼・毛皮のマリーだ。マリーが“お母さん”と呼ばせかわいがっている絶世の美少年・欣也(藤堂日向)との奇妙な関係を軸に妖しくも哀しい、退廃美あふれる魅惑的な世界が展開する。

この日、公開されたのは下男・醜女のマリー(麿赤兒)のシーンから。マリーの留守中、豪奢なバスタブに横たわり、下男から女言葉へ、醜女のマリーと変貌していく麿。長いドレスをまといながらの身のこなし、深く響き渡るせりふはさすがの一言。やがて美女の亡霊に扮した男たちが1人2人3人と飛び込んできて、ラインダンスを繰り広げていく。その迫力に圧倒されるばかりだ。

続いて、名もない水夫(三宅克幸)と戯れながら、マリーは欣也との関係を語り始める。
「あたしはあの子の母親なんです…」といい、自らの哀しい過去と欣也との因果を話すマリー。低音から高音まで、何色にも声色を変えていく美輪の台詞の力によって、目の前にマリーの人生がまざまざと目の前に浮かび上がるようだ。

さらに、マリーに過保護に可愛がられ、外の世界を知らずに育てられた欣也を、美少女・紋白が連れ出そうとするシーンへ。オーデョションで欣也役を射止めた藤堂日向は感情ほとばしる演技でマリーから逃れられない苦悩を伝え、甘い声色からは少年と青年の狭間にいる危うさを感じさせた。また、紋白役の深沢敦の少女のかわいさと妖しさに惹きつけられた。

稽古の後、美輪に本作にかける思いを聞いた。

美輪「私の芝居は長台詞が多いですが、毛皮のマリーは起伏が激しいのでエネルギーの配分が大変です。長台詞はいろんな技術がいるんです。例えば音程。ドレミファソラシド…と私の場合は2オクターブ近くの音域を行ったり来たりしています。音楽はタンゴ、ワルツ、ビギンもいろんなリズムがあるでしょう。それを伴奏なしで台詞の中で作るように 、 “台詞は歌え、歌は語れ”というようにしています。演出する立場としては、それを若い俳優の方たちに伝えていかないといけません。自分の稽古より、他の人の芝居づくりを細かくやっています」


今回『毛皮のマリー』を上演しようと思った理由とは?

美輪「寺山修司さんという天才が残した作品、日本の財産を知って欲しいという気持ちがあります。寺山さんだけでなく、三島由紀夫さん、川端康成さん、江戸川乱歩さんなど生前交流があった方たちからは、何か“言付け”をもらっている気がするのです。寺山さんの作品はアングラという扱い方をされていますが、ちょっと違う気がします。寺山さんは世の中で蔑視されている人たち、セックスといった言葉に対する差別をなんとかしないといけない、と常々おっしゃっていました。セックスは下品で卑しい、背徳的な言葉だと非難するけれど、その結果、生み出されたのがあなたたちでしょうと。だからこの作品には、そうした人たちが多く出てきます。寺山さんのイデオロギーといっては大げさかもしれませんが、“見世物の復権”を今一度訴えたいと思っています」


初演から半世紀以上、演じ重ねる中で『毛皮のマリー』という作品に対する感じ方の変化はあるのだろうか。

美輪「それが不思議なことに同じなんです。無償の愛というのは、父性も母性も他人の愛でも変わりません。無償の愛というのは与えっぱなしだということです。私が訳した『愛の讃歌』にも“愛する人が健康で平和で生きてさえすればそれでいい”という歌詞があります。男同士であっても女と男であっても、年寄りと若い人でも異国人同士であっても、人を殺したわけでも物を盗んだわけでもない。ただ人間が人間を愛しただけなのだから、その“無償の愛”を非難するのがおかしい、というのがこの作品のテーマでもあります。

最近はみんなデジタル化されて音程が同じで、金属音の声でしゃべられたりすることで情緒障害を起こしている人が多いと聞きます。でも人間は本来人肌、吐息、瞬き、優しさ、体温を求めるもの。それらが失われていることに警鐘を鳴らしたいんです」

 

だからこそ「ライティングも舞台美術にも優しさ、美しさを大事にしています」という『毛皮のマリー』。寺山ならではの詩のような世界を「どう受け止めていただくかは、ご覧になる方それれぞれのお楽しみ、ということにしたいと思います」と語る。

舞台でしか見ることのできない魅惑的な世界をぜひお見逃しなく!

 

取材・文/宇田夏苗
撮影/御堂義乘