芝居噺弐席目『後家安とその妹』豊原功補×毎熊克哉 対談

豊原功補が企画・脚本・演出・出演をする明後日公演2019芝居噺弐席目「後家安とその妹」が、5/25(土)に東京・紀伊國屋ホールで開幕する。
本作は2017年に紀伊國屋ホールで上演された芝居噺「名人長二」(企画・脚本・演出・主演/豊原功補)に続く“弐席目”で、前作に続き今作も三遊亭圓朝の落語を原案に、落語と演劇を融合した作品となる。豊原と、後家安を演じる毎熊克哉に話を聞いた。


――なぜ芝居噺の弐席目として古今亭志ん生師匠の『後家安とその妹』をやることになったのかを教えてください。

豊原「流れは『名人長二』と同じなのですが、まず落語で、古今亭志ん生で、あまり有名ではない演目で、他で使われてない、歌舞伎にもなってない、というものを探して。すると三遊亭圓朝の演目になるっていうところですね(※『後家安とその妹』は、三遊亭圓朝師匠の『鶴殺疾刃庖刀』の一部を描いたもの)」


――志ん生師匠の演目がいいのはなぜですか?

豊原「志ん生は二十歳の頃に聴いて以来ずっと愛してまして。いるだけでおもしろ味があるとか魅力があることを「フラがある」と言うんですけど、志ん生はその極致みたいな人で。お酒も好きで生活はひどいんですけど、実のところ150席以上持っているんですよ。それくらい勉強家で、圓朝全集という作品集の本を手放さなかったような人なので。人間は表だけで測れない、裏にそういうものがないとああいう人間にはならないっていう。そこには強い信念もあるでしょうし。だから好きなんです」


――その志ん生師匠の演目の中でも『後家安とその妹』にしたのは何か理由があるのですか?

豊原「前回の『名人長二』は、名人長二という役柄が持っている筋みたいなものが太くて、それで語れてしまうみたいなところがありました。それよりも今回はもう少し“色”といいますか、“男女とは”みたいなところをやりたいと思いました。あと、タイトルもいかしてるじゃないですか(笑)。そういうインスピレーションみたいなところは大きいです。そして主人公の後家安が持っているピカロ(ピカレスク・ロマンの主人公)の部分ですよね。そういう精神を持っている、みたいなところです。」


――毎熊さんは今回、その『後家安とその妹』にご出演されることになってどのように感じていますか?

毎熊「簡単な言葉で言うとうれしかったですね。まず舞台は5年ぶりですし、経験もあまりないので、そのなかで声をかけてもらえたことがうれしかったです。それと僕は舞台で活躍している役者さんの強みみたいなものを羨ましく感じていて。だからこそまた舞台にトライしたいと思っていたので、そういう意味でも嬉しかったです」


――舞台で活躍している役者の強みってどういうところだと思われたのですか?

毎熊「心臓に毛が生えてるような感じというか、魅せられてしまうところというか。映像は空間が切り替わるのでそこですべてを変えてしまうこともできますが、舞台はそれができませんから。そこで魅せる力がすごく長けているように思うんです。だから今回、自分がその舞台という場所に立って、どこまでできるのだろうかという気持ちもあります」


――そのときに映像で培ったものは生きますか?

毎熊「いえ、それを全部捨ててでもやろうという気持ちです。今までのものはどこかにやっておいて、ゼロからやりたい。とはいえ、どんなに忘れ去ろうとしても出てくるものはあると思うのですが」


――そうやって挑む作品が、豊原さんが演出される作品であることにはどう思われていますか?

毎熊「僕、クリント・イーストウッドが好きなんです。役者が映画を撮るとか舞台の演出をするって、未開拓な場所に自ら行くということで。だからこそ撮れるもの、演出できるものがある。僕はそこにいい意味での“トゲ”がある気がしています。そういう作品に関わることができるのはすごく嬉しいし楽しみです」


――豊原さんは、演出を手掛けることはどう思われているのですか?

豊原「実は最初は『シンガーソングライターだって曲を作って、歌を歌って、ステージングもするんだから、作・演出・企画もそういう感じでできるんじゃないか』と思っていたんですよ。それでやり始めたら大変なことで(笑)。ものをゼロから積み上げていくときって、関わる人数、意見、質問に答えることがやたらと多いし、とにかく判断が求められる。だからその“判断”がブレていたら進まないんですよね。でも安易な判断もできない。ということは“自分の中にどれだけ詰まっているか”なので、結局自分との戦いになっていくんです。これをどこまで続けられるかわからないですけど、この今持っている感情は舞台をつくるなかで芽生えたもので、それはひとつの命が宿っているようなものなので。『放っておいちゃいけないだろう』というような気分です、どちらかというと。せっかくだから育ててあげなきゃいけないだろうっていう」


――毎熊さんはこの『後家安とその妹』という作品そのものはどのように感じていますか?

毎熊「脚本を読んで、落語も聴いたのですが、スピードだったり間(ま)だったりのリズム感がおもしろいと思いました。これは観に来た人にも同じように体感してほしい。でもそこには(一人でやる落語とは違って)何人も人がいるっていう」


――落語は噺家の噺を聴きながら頭の中で世界が広がっていくものだと思いますし、毎熊さんがおっしゃるスピード感や間、リズム感も噺家が一人でやるからこその部分もあると思うのですが、その辺はどのように考えられるのでしょうか?

豊原「そう。リスキーですよね、『芝居噺』と銘打ってしまうのが。これ『モチーフ』にして演劇としてやればそういうこともないのですが、わざわざ『芝居噺』と銘打っているので。落語はイメージの世界ですから、人間が立ったときに白けちゃうということはあると思うんですよ。そこでどうしたら白けないかというと、これはちょっと傲慢な考え方かもしれないけど、僕が脚本・演出をするわけだから“自分の中で動いているもの”を具現化すればいいんじゃないかってだけなんです。それがお客さんに通じるか通じないかは自分との戦いになりますが」


――でもそれをまず脚本化することが大変な作業だと思うのですが、どういう考え方で脚本にされるのですか?

豊原「落語って必ずサゲ(落ち)があって、大体は“めでたしめでたし”で終わる。でもそれじゃ芝居の幕は閉じないんですよね。続かないでしょ?」


――「続かない」というのは?

豊原「芝居って、“その後”を持ち帰らせるのが、物語を伝えることだと僕は思うので。そこは“めでたしめでたし”じゃ終われないんです。だからそういうラストにどう持っていこうか、というところは考えます。もちろん『芝居噺』なのでサゲらしいことはやるんですけどね。その残り香のようなものをチケット代と引き換えに持ち帰ってもらいたいんですよ。そこを脚本化するという感じです」


――毎熊さんもおっしゃっていたリズムのようなところはどうですか?

豊原「そこはもう稽古場でやるしかないです。でもちょっと視点を変えて、自分をひとつの楽器だというような発想で、『ここでこの音が出なければ次が繋がらない』という感覚が共有できるといいんだと思っています。そういう意味では今回のメンバーは一緒につくっていけるんじゃないかと思いますね」


――それは若いキャストが多いからでしょうか?

豊原「そうですね。ベテランの方々ってやっぱり既に持っているリズム感があって、それに強さもあるので。今回は若手が揃っているぶん『せーの』で鳴らし始めることができるんじゃないかな」


――その中で毎熊さんに期待されることはなんですか?

豊原「毎熊くんは自分で調律できそうなんですよ。人間ががさつじゃない気がするというか。まあがさつな人間は役者をやっちゃいけないと思うんですけど(笑)」

毎熊「(笑)」

豊原「そういう意味で、キレイなものを感じる」

毎熊「……なんか取材っていやですね」


――え!

毎熊「『僕のどういうところが』とか取材じゃなかったら絶対聞かないでしょ?」

豊原「俺も言わない(笑)」

毎熊「すみません、茶々入れて」

豊原「いや、僕もそう思うよ」


――でも聞かせてください(笑)。毎熊さんは例えば作品に入るときに「今回はこういうことがしたい」と考えたりされますか?

毎熊「いえ、なるべく余分なものは持っていかないようにしようというのはテーマですね。何か持ってきちゃうと邪魔になるというのはどんな現場でもある気がしていて」


――それって「自分の芝居」みたいなことですか?

毎熊「はい。まずは豊原さんがいいと思っていることの全てに反発せずにいきたい。自分のものっていうのはそこに後からついてきたらいいかなと思っていて。だからまずは豊原さんのおもしろがっていることを自分もおもしろがる。その次の『じゃあどうやったらもっと』というところで余分なものが出てきて、最終的に思いもよらなかったおもしろさになればいいなと思っています。だから最初は“無”です


――そうやってつくられるものが楽しみです。

豊原「今回はより“演劇をつくる場所”になる気がしますね。役者を観に来るつもりで来てくださるといいと思います」

 

インタビュー・文/中川實穗