『常陸坊海尊』プレビュー公演開幕!長塚圭史・白石加代子らコメント到着

2019.12.09

12/7(土)、舞台『常陸坊海尊』がKAAT 神奈川芸術劇場にてプレビュー公演初日を迎えた。

『近松心中物語』などで知られる戦後を代表する劇作家・秋元松代の最高傑作といわれ、日本にオリンピック大会が初めて招致された昭和39年(1964 年)発表当時、日本の演劇界に衝撃を与えた伝説の戯曲『常陸坊海尊』。常陸坊海尊は、源義経の忠臣として武蔵坊弁慶らとともに都落ちに同行し、義経最期の場所である奥州平泉での衣川の戦いを目前に主を見捨てて逃亡して生き延び、その後、不老不死の身となり、源平合戦の次第を人々に語り聞かせたと言われる伝説の人物。荒唐無稽ともいえる東北の仙人伝説を背景に、戦中戦後の学童疎開と、人間の“生”や“性”、そして格差や差別といった問題を描いた本作が、初演(1967 年)から半世紀余を経た2019年~2020年冬、長塚圭史の演出で復活する。12/11(水)の本公演初日に先駆け、演出の長塚圭史、キャストの白石加代子、中村ゆり、平埜生成、尾上寛之よりコメントが寄せられた。


【コメント】

<長塚圭史>
白石加代子さんの演劇の経験値の高さ、女優としての魅力はお客さんが入った時にこそ大きく結実します。
プレビュー公演を終えて今改めて思うのは、この作品の演劇としての特別な構造です。おばば、おばばの次の世代を引き継いでいく雪乃、そして新たな海尊として生きていく啓太と、時代を継承していく多彩な登場人物が存在する伸びやかさ、豊かさ も この作品の魅力です。中堅の私がこの作品を演出させてもらっているということもそうですし、継承されていくということを感じます。ベテランの白石さんから中村ゆりさん、そして若い平埜生成さんへと伝播していく演劇を見るようで興奮を覚えます。国家や経済の都合など大きなものの力によって社会の隅に弾き飛ばされる弱き者が生まれるという社会の構図は、悲しいですが現在形です。救いを求める弱者の前に海尊が現れ、救いの象徴となる 場面にはいつも心打たれます。
FPMの田中知之さんのテクノ的な現代音楽を取り入れ、800年以上の長い時間を 内包するこの作品同様、悠久の音色の琵琶から19世紀のポップミュージックとも言えるリストの“愛の夢”、そして現代音楽まで盛り込み、私たち自身の中に流れる大きな時間の流れを感じてもらえたらと思います。観たことのないものに遭遇したという感覚、この作品のスケールの大きさを感じ取ってもらえたら嬉しいです。

 

<白石加代子>
おばばは、海尊を理解し、愛し、尊んで、後の代まで守っていくという特殊な存在ですね。イタコをやっていたことは職業ともいえますけれど、海尊と出会って目覚めて以来、海尊への思いは宗教のようなものではないかと、自分が出演しない3幕を見て思いました。そして、海尊・おばば・孫娘の雪乃の関係をずっと考えているうちに、どうもおばばと雪乃は違うところがあるようで、雪乃の行く末を心配する気持ちになりました。「どうにもならねえのは、われとわが罪深え心のありようじゃ。」という海尊のセリフがありますが、とてもはっとさせられました。追い詰められた時、何とか自分だけは助かりたいと思わない人がいるだろうか、それは罪深いことだと言えるのだろうか。お客様もそのように感じて下さるのではないかと思います。でも、そのことを罪深いと考える人がいるのです。啓太の罪は何でしょう?おばばの言うなりに行動しただけ、雪乃に魅せられただけではないか。でも啓太は、それを罪深いと感じる清い心を持っている。清い人間でなければ海尊にはなれないのだと思います。<中村ゆり>
お客様がとても充実した顔をされているのを見て嬉しかったです。口々に「とても美しい舞台」と言うのを聞き、自分が見ることができないのが残念です。雪乃は“魔性の女”という立ち位置で稽古を始めましたが、演劇作品に“魔性の女”というキャラクターは多いですが、雪乃の場合は、とてつもない魔性に大人になってからなぜなったのか、その裏にあるものが最初のうちはよくわからず、作品に描かれていない16年間をどうやって埋めようかと考えてきましたが、雪乃は疎開してきた少年同様、いたこの家に生まれ、選択肢のない中で圧倒的な孤独感を味わってきたのではないかということに思いが至りました。それからは、雪乃の魔性や壊れてしまった部分を理解することができ、魔性を形ではなく、心から演じることができるようになりました。戦中・戦後時代というのは、それほど遠い昔のことではないですが、失われてしまった文化などたくさんあります。日本の演劇には 耐え忍ぶ女性像が多いですが、この作品では女性が強いのも魅力ですね。
『常陸坊海尊』は演劇でしか体験できない作品だと思うので、ぜひ体験していただきたいです。

 

<平埜生成>
開演前にスタンバイをしているとき、カンパニーの温かい空気や、俳優同士で芝居を繋いでいく感覚を感じて幸せな現場に立ち会えているんだなと思いました。長い期間、一緒に稽古をしてきてようやくお客様の前でご覧いただく喜びを感じました。
啓太という役については、言葉で説明するのは難しいのですが、雪乃や豊を頼りにずっと探しながら演じています。毎日芝居も少しずつ変わっていく中で、初日は豊役のヒロくん(尾上寛之)に引っ張ってもらった公演でした。それぞれの俳優同士が作る見えない糸がそこにあるような気がしています。
啓太が第4の海尊になり、自分の胸に琵琶があらわれその音を聞いたとき、鳥肌が立ちました。それが嬉しいことか悲しいことかはわかりませんが、救いを求める人間が救う立場に変わったことを自覚する瞬間でした。長塚さんがおっしゃった「この国に生まれ育っ て、 この大地に 生きていく中で、眠っている本能を呼び覚ます芝居」という言葉に背中を押され、自分の中の眠っているものをどう呼び覚まそうかと考えながら演じています。
<尾上寛之>
今日初めてお客さんの前で演じて、とても緊張しましたが、お客さんも緊張しているのが感じられました。これからもっとお客さんと共有して、お客さんをこの舞台に引き込めるように演じたいと思います。僕が演じる豊は、社会にもまれながらちゃんとした大人になっている。でも、それは戦災孤児という環境から、自分がしっかりしなければ、またどこかにやられてしまうと、いつも気を張って、頑張ってきた、とても責任感が強い人なのだと思います。そして、そんな生活の中で何かを失くしてしまい、少年時代を過ごした地に来て魔にとりつかれてしまう。今まで築いてきたものが一瞬で崩れる脆さはとても人間的だと思います。誰しも皆何かを抱えて生きている。それを昇華させることができたのは啓太だけかもしれません。終幕のムーブメントのシーンのように、観終わって少しだけ前を向ける、すっと背筋が伸びるような気持ちになってもらえたら嬉しいですし、少しでも観た人の救いになることができればこの舞台は成功
なのではないかと思っています。

 

 

撮影:岡千里