死ねない妻と、やがて死ぬ夫が辿り着いた結末は?劇団た組。第20回目公演『誰にも知られず死ぬ朝』稽古場レポート

2020.02.17

た組の稽古場は、いつも穏やかな空気が流れている。演劇の稽古場と聞いたときに、多くの人が想像するような、ヒリヒリとした緊張感や威圧感はどこにもない。俳優たちはリラックスした表情で談笑し、ゆるやかに体を伸ばす。そして、そんななごやかな現実と虚構の境目がわからないくらい自然にすっと劇世界へ潜り込んでいく。だからだろう。劇団た組。(以下、た組)のお芝居を観ていると、演劇を観ているというより、どこかにいる誰かの生活や人生そのものを見ているような感覚になる。

最新作『誰にも知られず死ぬ朝』は、一切年をとらず、死んでもしばらくするとけろりと息を吹き返す、不老不死の女性・歩美(村川絵梨)が主人公。老いることも死ぬこともない歩美は、人に恋することも愛することもせず、ひっそりと長い歳月を生きてきた。 それが良嗣(平原テツ)と出会い、恋に落ち、結婚し、生涯を共に歩むことを決める。老いることも死ぬこともできない者が家族を持ったときに、どんな機微が生まれてくるのか。凪いだ海にさわさわと波が立つように、物語は進んでいく。

 

■夫婦の間に横たわる、諦念と断絶

その日の稽古で披露されたのは、3つの場面。1つめは、良嗣の姪っ子・りっちゃん(安達祐実)が飛び降り自殺をしようとするシーン。あることで家を飛び出し、屋上へやってきたりっちゃんをなんとか止めようとあの手この手を尽くす。

「屋上で飛び降りようとする人を説得する」というのは昔からある古典的なシチュエーションだけど、脚本・演出の加藤拓也の手にかかると、たちまちに人間のおかしさがにじみ出る場面になる。屋上の端で動けなくなっているりっちゃんと助けようとあれこれ言い合う姿は、緊迫した場面なのに、いい意味で締まりのないせせこましさがあって、それがいかにも人間臭い。本人たちにとっては一大事なのだけど、その必死さが滑稽で、にまにまと頬が緩む。最後に歩美が屋上から落ちた瞬間の、「あ」という一瞬の沈黙は喜劇そのもので、だけど決してスラップスティック的にならず、独特の平熱感を持ったまま描かれるから、余計にシュールだ。幼いりっちゃんはこの事件により叔母の歩美が昔から死なない体であることを知る。夫の良嗣と出会ったのも、ある交通事故がきっかけだった。

歩美と良嗣は過度にベタベタと馴れ合うことはせず、さっぱりとした関係に見えるが、根底には思いやりと信頼で結ばれているのが伝わる、理想的な夫婦像だ。でも、どこかに「いずれ夫は自分より先に死んでしまう」という諦念と、「どれだけ自分が老いても、妻はシワも白髪も増えない」という断絶が横たわっている。そんな静かな絶望が悲しみとなって観客の心を伝うから、一緒に死のうと歩美を殺そうとする良嗣の姿に、観客はただただ言葉をなくしてしまう。

■徹底した口語によって綴られる、何気ない日常の会話

この物語は、そんな歩美の人生を、いくつかの時代と共に描いていく。2つめに披露されたのは、それから20年近く先のお話。小さかったりっちゃんは純(尾上寛之)という夫を得て、そのお腹には子を宿している。その日は、りっちゃんの懐妊祝いで久しぶりに親戚が集まるという。りっちゃんは純を連れて実家を訪ねる。

そこには過ぎた歳月の分だけ年をとった父の浩介(鳥谷宏之)や母の江梨香や良嗣がいて。だけど、歩美だけはまったく何も変わっていない。だけど、誰もそのことにはふれず、集まった6人は乾杯をする。

加藤拓也の真骨頂は、リアリズムあふれる台詞術だ。誇張めいたレトリックを一切排し、喫茶店の会話をそのまま書き写したような徹底した口語によって語られる会話が淀みなく頭の中に流れ込んでくる。俳優たちの演技も大袈裟なリアクションや過剰な感情表現を用いず、淡々と、しかしほとんど間をあけることなくシームスレスに会話をつないでいく。その切れ目のない応酬が、聴く者を心地よくさせる。

話している内容は、「結婚指輪を家に忘れてきたかもしれない」とか「100均のフローリングワイパーのシートはすぐダメになる」といった、こうやって並べてみても取るに足らないことなんだけど、でもそれが「こういう会話ってするよな」というリアリティに満ちているから、隣の客のよもやま話に聞き耳を立てるように、ついつい聞き入ってしまう。

いくら純が結婚指輪を「家まで取りに帰ろうか」「別に俺はいいよ」と言っても、りっちゃんが全然聞いていなかったり、さっきまで歩美・良嗣夫婦と電話で話していた内容をそっくりそのまま聞いてくる浩介に江梨香が腹を立てたり。何気ない描写だけど、どれも「わかる」と頷かせるものだから、思わず笑ってしまう。何でもないシーンをここまで面白くできるのは、加藤拓也と俳優たちの手腕があってこそだろう。

 

 

■写実的な芝居の中に、大胆な嘘を放り込む加藤拓也の遊び心

そして3つめのシーンが、それからおそらくさらに数十年後。夜道を、2組の高校生カップルが自転車で走っている。行き先は、街の外れにある展望台。夜中に抜け出した高校生たちは、そこで酒を煽る。その中のひとりが、歩美の甥っ子であることが会話から想像されるけど、彼らがどんなふうに歩美の人生に関わってくるのかまでは、このシーンだけではわからない。けれど、「自動車の運転免許をとりたい」とか「昨日、初めてセックスをした」とか高校生の些細な会話をここまでナチュラルに描ける加藤拓也の台詞術はここでも十分に堪能できる。

高校生を演じる藤原季節、伊藤梨沙子、木本花音、山木透の演技もまったく力みが入っていなくて、ついさっきまで近くのハンバーガーショップで駄弁っていた本物の高校生をそのまま連れてきたようなリアル感がある。自分もかつてこんなふうに深夜に家を抜け出して仲間たちと落ち合ったことがあったな。そんな古い記憶がふいによぎる。

演出面で特筆すべき点は、まず舞台が三方囲みであること。これにより、舞台上の人物の日常にこっそりと潜り込んだような覗き見感がさらに増した。また、登場人物たちが舞台の周辺をぐるぐると回る演出が多く用いられており、永遠の時を生きる歩美の象徴のようで印象に残る。また、車やトラックなどが劇中に登場するが、その表現は大胆な嘘によって成立していて、映像演技に近い写実的な芝居の中にこんな嘘をぽんと放り込む加藤拓也の遊び心に思わず唸ってしまった。他にも、UNCHAINの谷川正憲の演奏も期待の膨らむポイントだ。たとえば、冒頭で紹介したりっちゃんが飛び降り自殺を図ろうとするシーンは、谷川の切れ味の鋭いギターが緊迫感を演出していた。また、劇伴だけでなく、インターフォンなど効果音も演奏で表現しているところに演劇らしい虚構の楽しさを感じた。今回の稽古で確認したのはまだシーンの断片だけに、全体を通して観たとき、音楽がどのような作用をもたらしているかに、興味がかき立てられる。ぜひ趣向に富んだ加藤拓也の試みの成果を劇場で見届けてほしい。劇団た組。第20回目公演『誰にも知られず死ぬ朝』は、2月22日(土)から3月1日(日)まで彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演。

 

インタビュー・文/横川良明