緒川たまき、仲村トオル インタビュー|ケムリ研究室no.2「砂の女」

劇作家・演出家のケラリーノ・サンドロヴィッチと女優の緒川たまきによる演劇ユニット「ケムリ研究室」。昨年に「ベイジルタウンの女神」で旗揚げした彼らが、次に選んだ“研究課題”が近代日本文学の傑作、安部公房「砂の女」だ。砂の中に閉じ込められた男と、砂の中で暮らしていた女。その奇妙な暮らしはどこに向かっていくのか――。キャストには、緒川たまき、仲村トオルのほか、オクイシュージ、武谷公雄、吉増裕士、廣川三憲といった魅力的な面々が揃った。“女”を演じる緒川、“男”を演じる仲村は、この作品にどのように挑んでいくのか。たっぷりと話を聞いた。


――ケムリ研究室は昨年9月に「ベイジルタウンの女神」で始動し、緒川さんはもちろん仲村さんもご出演されました。コロナ禍により大変な中での船出となりましたが、当時の手ごたえや、今回に向けたお気持ちをお聞かせください。

緒川「大変な中での船出、というお言葉は前回公演の際にもたくさんいただきました。公演に関わってくださった誰もがその言葉通りの覚悟を持っていてくださったと思います。今年もまたその言葉を噛みしめなければならないのか、という思いでいます。今回参加してくださるみなさまには、よりご苦労をおかけしてしまうでしょうしね。ひとつの作品を立ち上げるにあたって、いいタイミングではないな、とは思いながらも、一歩一歩、一時間一時間、一日一日と進んでいけば、できることが見つかる。前回はそういう感じでしたので、何かトラブルがあって、ということも覚悟しながら、今回も今日できることを積み上げていきたいと思います。絶対にできる、というよりも、そんな気持ちでいますね。」

仲村「前回公演はおかげさまでゴールできましたし、初日のカーテンコールの感動も含めて、もしかしたら記憶の中で美化してしまっているかも知れません。稽古中は、いつものように歩いて進むスピードに比べて、匍匐前進のようなスピードの遅さと感じましたし、敵に見つからないようにしなければ、という感覚もありました。でも、楽観的なのかポジティブ・シンキングなのか、いけるだろう、初日は迎えられるだろう、という気持ちは稽古中も本番が始まってからも持っていた気がします。だから、「砂の女」の初日も楽日も迎えられて、感動や千穐楽の達成感が味わえるんじゃないかと、どこか楽観的に考えています。」


――緒川さんから見た仲村さんの印象は?

緒川「最初に舞台でご一緒したのが「黴菌 ばいきん」という作品だったでしょうか。それと前後して映像作品などでご縁を頂きましたし、ケムリ研究室の旗揚げにも参加していただきました。トオルさんは自ら、ケムリ研究室の“研究員”であるとまでおっしゃってくださっていますが、私にとっても、もう一人の代表であるケラリーノ・サンドロヴィッチにとっても、極めて期待を抱かせてくれる俳優さんです。トオルさんを通して物事を見ると、何か霧が晴れてしまうような、そういう方でいらっしゃるんですね。先ほどポジティブ・シンキングとお話されていましたが、一緒に困難を乗り越えようというお気持ちがとても強い。旗揚げがコロナ禍の中になってしまったというのは偶然で、新型コロナウイルスなんて影も形も無い頃にお願いしてスタートしていますから、コロナ禍だからトオルさんを頼った、というワケではまったくありませんでした。でも、悪い面には目を向けずに、何かいい形にしていこうと動いてくださるという確信が持てましたし、私たちが観たいと思わされるトオルさんがどんどん湧き上がってくる…、何か新しいことを始めるときにトオルさんがそばにいてくださるのは、本当に心強いです。」


――仲村さんからの、緒川さんやKERAさんの印象は?

仲村「「黴菌(ばいきん)」という作品の登場シーンで、確か僕は「お元気ですか」と周囲の人にあいさつをしまくる、みたいな感じだったんです。稽古場で最初にそれを演じてみた時に、緒川さんとKERAさんが僕が戸惑うくらいの勢いで爆笑されていたんですよ。何か間違えたかな、と思うくらいで、ちょっと恥ずかしさもあったんですが、のちに映像で見た時に、今まで見たことの無い自分を見れて、おふたりが、その時までやったことのないキャラクターの抽斗を開けてくれた。いや、“コレも使えるから取っときな”と、抽斗の中に入れてくれたような感覚がありました。開けたことの無い抽斗を開けて、その中に新しいものを詰め込んでくれるおふたり、という印象をもっています。」


――ケムリ研究室の第2弾に「砂の女」を選んだのはなぜでしょうか。

緒川「まず、安部公房の作品を舞台に上げるというのは、なかなか許可の問題でハードルが高い。それは以前からわかってはいました。そもそも、究極にシンプルな人間関係で、突き詰めれば舞台向きとは言えないお話です。砂の描写であったり、置かれている背景の描写によって匂わせるべき世界があったりする作品なので、映像向きの作品ですね。ただそうは言っても、いち観客として、自分にとって理想的に舞台化された「砂の女」を観てみたいという気持ちが、私にもKERAさんにもありました。もし私たちがやるなら…と、実際にやろうという話になる以前から、何度も話題にしていました。でも、砂の存在の難しさや男女のやり取りを舞台上で表現するのに、やっぱりうまくいかないだろうかと、引っ込める。そういうことを何度かやっているうちに、安部公房の持つ実験性というんでしょうか、その持ち味に背中を押され――印象に残る好きなシーンを舞台上に立ち上げて、それ以外のものを大胆に捨てていくくらいの気持ちで、自分たちの「砂の女」をつくる…、そんな取り掛かり方であれば、何か作れるんじゃないか、と。映画化されたもののファンでもありますが、そういったものに気を取られずに作ろう。そういう想いを、もう何年も前にトオルさんにお話ししたら、快く、「やってみる!」と言ってくださいました。それで、意を決することができた部分もあります。決して、簡単に考えているものではありませんでしたね。」

仲村「お話を頂いた時点では原作を読んでいなかったんですけど、緒川さんとならばいいものができるんじゃないかと思って「やります」とお返事しました。最近になって原作を読み始めると口の中がジャリジャリしてくるようで……毎日、ほんの数ページしか進まず、読み終わるのに時間がかかりました。途中で安請け合いしてしまった、と思ったんですけど(笑)、読み終えてみると、お返事した時と同じように、いいものになるんじゃないかという気持ちになりました。」


――緒川さんが演じる役どころの“女”はどういう人物?

緒川「私は18歳くらいの時に、映画「砂の女」をレンタルビデオで借りて観ました。原作小説を読んだのは、映画より先なのか後なのかは覚えていないんですけど、だいたい同じくらいの時期だったように思います。映画では岸田今日子さんが“女”を演じられていて、生々しい存在感と生活ぶりがありながら、岸田さんの持ち味なのか、非現実的なものがその奥に見え隠れしているような印象でした。そこから“非現実的”とは何か、と考えていくと“誰かが見た幻”のようだ、と。生きることに非常に執着が強くて、純朴なんだけれど、どこか太古の人の素朴な欲求――喉が渇いたら水を飲まないと、とか、日が昇ったから起きる、独りでは生きられないから異性を欲する――そういう古いリズムに慣れ親しんでいるように思えました。それが岸田さんの姿を通して、すごく強烈な印象として残っています。まだ感受性の強い年齢の頃だったからかもしれませんけど。特別なものとして印象に残っています。」


――小説での“女”の印象はいかがでしょうか

緒川「小説のほうは、岸田さんのイメージを排除して読むならば、話が通じない、鈍すぎる、イライラさせられる。それは、男がそう描写するからで、読んでいるときはそのように感じるんですけど、本を閉じてしばらく経つと、脳裏に浮かぶ“女”の像は、郷土愛を掲げ、いろいろなことを底なし沼のように受け入れていて、さらにその奥にある逞しさのようなものが魅力として浮かんでくる。小説の中では言葉にされていないんだけれども、読んだ者の心の中では、何か特別なものに置き換わろうとするんです。……だから、舞台化するにあたっては「どうすればいいんだ!?」と思っています(笑)」


――さて、どうしましょうか(笑)。演じるにあたって、今触れている“女”の手触りは?

緒川「まだ分からないんですが(笑)、“女“の生々しい生活ぶりと、一旦彼女の世界と距離を置いた時に生まれてくる“女“の魅力を、どうやったら匂わせられるのかな、と考えています。そして、“男“を混乱に陥れた張本人という立ち位置とは、ちょっと違うところに立たせたい。そこは大事にしたい部分ですね。物語の中によく、加害者と被害者という言葉が出てくるんですけど、“男“が“女“に「自分も被害者であるだろう」と説いても、“女“はその意味が分からないような素振りをみせるんです。自分の置かれている状況が、不当だと思っていないような言動をするんですね。そのことに“男“は非常にイライラさせられる。それが繰り返し繰り返し語られています。“女“が直接的に“男“を巻き込んでいる立場として描いてしまうと、作品の持つ謎めいたところが消えてしまいそうな気がしています。“男“を煙に巻きながらも、当事者意識のない感じを匂わせていけたらな、と思っています。今、お話していて、そう考えました(笑)」


――なるほど。では、男について仲村さんが抱いた印象はいかがでしょうか

仲村「そもそも、僕はまったく昆虫に興味がないので、読み始めはまったく理解ができなかったんです。虫を追いかけて、そんなところまで行くなんて、と思いました。ただ、読み終わってからKERAさんと緒川さんからお話をうかがって、感じたことがあって――失踪願望というほど強くはないけれど、今までの自分や今日までの人間関係、職業、自分の名前からすら逃れたい、誰も知らない世界で生きていきたい――そういう気持ちは、ほんの一瞬ですけど思ったことがあるな、と。インドに行って、ガンジス川の流れを見ているときに“何もかも失ったら、ここで暮らすのも良いな”と思った瞬間があったんですよね。そう言いながら、失いたくないものにクレジットカードや貯金通帳が頭をよぎりましたけど(笑)。変に誤解されてしまいそうですが、全部ひっくり返ってしまえ!みたいな気持ちになることは、これまで何度もありました。おもに、自分が良い状態じゃない、うまくいっていない時に、今、良しとされている価値観が180度ひっくり返ればいいのに、既得権益を持っている人に対して全部失ってしまえばいいのに、というような気持ちが過るというか。そう思うと、“男“はどこかへ逃れる大義名分として、虫を追いかけていたら、たどり着いたところがとんでもない場所だった。そんなところから、この物語は始まっているんじゃないか、と、今はそういうイメージでいます。」


――共演にも魅力的なキャストが揃っていますね。

緒川「共演の方々に演じていただく村人の存在というのは、全体を通してみるならば“男“と“女“の時間と比べれば少ない登場時間ですけれど、彼らの暴力性や村の掟がそこから非常に強く匂ってきて、とても重要な存在なんですよね。“女“は多くのことを語らないし、“男“が何か問い詰めだすと不意に口をつぐんでしまう。そういう意味で、村人がヒントになるんです。そして、村人と“女“の関係が男をさらなる絶望に導いていくようなところもある。そんな村人を託すのに、とても信頼できる方々に出ていただけることになったな、と思っています。どんなふうに彼らがそこに居たら、どんな効果があるのか。そういう稽古場での日々の実験性みたいなものを、ひとつひとつ楽しんでやってくださるという確信の持てる方に参加していただきたかったので。私以外のキャストはみなさん男性で、稽古の中でトオルさんも皆さんと相談されたりするとは思うんですけど、役柄上では、“男“役のトオルさんって結構孤独なんですよ。精神的苦痛を強いる役ではあると思うんですが、そんな中でも仲間としてやれると思っていただける方々なんじゃないかな、と勝手に思っています。トオルさんはいかがですか?」

仲村「実は、僕は映像も含めてほとんどが共演のない方ばかり。客席から拝見したことがある方はもちろん居ますけど。でも、稽古をやっていく中で、そういう初めましてのような感覚は無くなっていくんじゃないかと思います。村人の印象としては……原作が書かれたのは、昭和37年だったと思うんですが、その頃って今よりも都市部と田舎の差がすごかったんじゃないか。“男”と、まだ発展していない、あまり豊かではない場所の、何を考えているか分からないような表情をしている人たち。そういう距離感になるのかな。だから、初めての方々と、っていうのはそういう距離感を掴みやすいかもしれません。簡単に親しくならないように気を付けます(笑)」

緒川「そんなそんな(笑)。そういえば以前、別役実さんの作品でご一緒した時も役名が“男”で、みんなから理不尽なことを散々言われて精神的に追い込まれる構造の作品でしたよね。あの時も孤独を感じさせるような設定でしたが、今回はもうちょっと、“男“の中に村人や“女“を蔑むような怖い感覚があるように思います。今の人間であれば、問題意識として捉えることも、この当時は問題とすら捉えていない人が大勢いるんです。その残酷さが、男の脳裏にずっと呟かれている。その感情を“男“が持っている限り、ただ単に“男“が被害者、という形にはならないだろうし、観ている側も、「この男の人怖いな」と思わせるところがある。誰の思い通りにもいっていない、そんな不思議な作品ですから、きっと共演者の方と仲良くなっても大丈夫!……ちょっとヘンなロジックですけどね(笑)」


――物語には社会風刺的な表現や今となっては過激な考え方なども描かれていますが、その点はどのようにお考えですか?

緒川「小説で描かれているような社会的な問題をすくい上げようとしたらキリがないんですけど、今回の舞台では、あまり社会風刺的な匂いが強いものにはならないだろうな、と思っています。小説がそうであるように、観た人が何を魅力に感じたかを、好きなように反芻してもらえるような舞台になるほうがいい。この社会的問題を強調して…、という方向性とは違うトンガリ方を探していきたいですね。稽古でみなさんと探して行く中で日々変わっていくかもしれませんが、今の目標としては、ある種の神話性や寓話性が味として残るように、そこに人間らしい生々しさとのせめぎ合いがあるように。そして社会風刺の側面は、観た人の想像の彼方で通じていく。そんなイメージで今はいます。小説の中では、男は繰り返し差別的な発言をしていますけど、トオルさんはその部分についてはどう感じられました?」

仲村「それほど気にならなかったですね。僕も、これは絶対に言葉にしてはいけない感覚、感情だな、というものが頭をよぎることもあります。それと、今の世の中が厳しくなりすぎてしまっているというか……それって差別じゃなくて、区別くらいのことじゃないのかな、と思うこともあります。あと作品の持つ生々しさですが、読んだときに“砂の中にいる女“に、不快なほどの生々しさを感じたんです。そう感じるのはなぜか、と考えましたが…。僕が生まれた昭和40年代は、田舎の方に行くと“おばちゃん、それほぼ下着!”と思うような恰好で歩いている方が居まして。もう1枚、何か着てくれないかな、って思うような…。当時はそんな言葉を選んでいなかったけど、原始的と言うか――もしかしたら、蔑む気持ちも子ども心の中にあったかもしれない。物語に触れて、そういう気持ちを全否定することは無いんじゃないかな、という想いは抱きました。それから、先日緒川さんもお話されていましたが、昨年から多くの人がなかなか外に出られないでいますよね。それと、読んだ後に作品に感じた閉塞感のようなものとが、つながるような感覚もある。緒川さんはタイムリーという言葉は使っていなかったように思いますが、お話を聞いて、僕も今やるべきことなのかな、と感じました。」


――奇遇にも今、伝えるべきメッセージが物語の中にある、と。

仲村「読み終わった時、“そっか、これも悪くないのか”という感覚になったんですよね。自分のことに置き換えるならば、劣等感なんかもそうですが、例えば敗北感。この敗北感も悪くない、後に活かせる敗北だ、と感じたことは過去にあります。その感じです。閉塞感も悪くない、100%悪いわけじゃない、と……。作中で描かれている負の部分も、肯定したいワケじゃないけど、そういう気持ちもありませんか?くらいの匙加減でできたらな、と思います。」


――最後に、ケムリ研究室における研究目標ではないですが、KERAさんの舞台ならでは、ケムリ研究室ならではの課題とみどころをお聴きしたいと思います。

仲村「これまでご一緒してきて感じたのは、KERAさんは音に対してとてもデリケート。音を繊細に求められるところは、とてもKERAさんらしいな、と感じる部分ですね。とはいえ、僕は研究室のイチ研究員。ケムリの研究をしなさいと言われればハイと答えますし、今回は砂の研究ですと言われれば、どっちも形がハッキリしませんね……と思いながらも、頑張って研究を進めるだけです(笑)」

緒川「代弁しますと、KERAさんは男女の機微を丁寧にすくいとるようなものに、非常に苦手意識があるんです。特にこの作品は性の香りも匂い立ってくるものですし、そこに真っ向から取り組むというのは最も苦手なところかもしれません。そして、時が進むような、進まないような、切迫した状況がずっと続くものも、得意ではないと本人が言っています。敢えて、そこを果敢にやってみよう、という気になっているというのが、KERAさんの心境ですね。ケムリ研究室という名前にも込めたように、どうしたら何がどう匂い立つか、という実験精神を大事に作っていきたい。KERAさんは稽古をしながら台本を練り上げていくスタイルですから、「こういうふうに組み替えてみよう」、「これはナシにしよう」――と、日々この作品をどういうふうに仕上げれば観たかった「砂の女」に近づくだろうかということを、ずっと念頭に置きながらやっていくことになると思います。だから、今私が話してきたことよりも、ずっとずっと実験的なものになるはず。ただ、奇をてらったものにしたいわけではありません。そういう作品づくりをしていくことが、大きな目標ですね。」


――楽しみにしています! 本日はありがとうございました。

 

取材・文/宮崎新之