PARCO劇場開場50周年記念シリーズ『ラビット・ホール』 藤田俊太郎+成河インタビュー

写真左より 成河・藤田俊太郎

2007年にピュリツァー賞を受賞した戯曲『ラビット・ホール』は、4歳のひとり息子を交通事故で亡くした夫婦であるベッカとハウイーを中心に、人間の傷ついた心が再生していくまでを描いた珠玉の会話劇だ。
悲しみへの向き合い方や、癒されていくスピードは夫婦といえど違いがあり、慰めようとする家族や友人の言動にもイラついたりさらに傷ついたりしてしまう二人。そんなある日、事故を起こした車を運転していた男子高校生が、夫婦のもとを訪れる。悲しみの底から人はどうやって希望の光を手繰り寄せるのか。そもそも、人間の希望の本質とは……?
今回、演出を担当するのは、以前からこの戯曲を演出することを熱望していたという藤田俊太郎。そしてベッカに宮澤エマ、ハウイーに成河、ベッカの妹イジーに土井ケイト、男子高校生ジェイソンに阿部顕嵐と山﨑光(ダブルキャスト)、ベッカの母ナットにシルビア・グラブという演技派がズラリと顔を揃える。作品への熱い思いを、藤田と成河に語ってもらった。

 

――お二人がタッグを組むのは『VIOLET』(2020)以来、二度目ということになりますね。

成河 前回の『VIOLET』は、特別なタイミングで行われた公演でした。コロナ禍の最初の頃、国の緊急事態宣言が出てすべての公演がストップした時期でしたから、僕らも最初に予定していた公演はできなくて。その後、半年近く経って少し落ち着いた時期に3日間だけ上演できたんですけどね。それまでの約半年は、何人かでオンラインで稽古をしていたんです。作品についての話をしたり、台本の読み合わせをやったりして。そうやってコミュニケーションを取り続けた上での上演だったこともあって、そういう意味でも特別な公演ですし、思い出深いですし。それが藤田くんとの最初の出会いになりました。とにかく藤田くんは現場で、そこにいる全員の主体性を重んじてくれる人で。みんなで作るということに対して、どうすれば一番やりやすくなるかを真剣に考えてくださるんですね。だから、僕にとってはとてもとても貴重な同志であり、次はいつ一緒にやれるかなと常に思ってしまうような相手でもあります。

藤田 すごく嬉しいお言葉をいただきました、ありがとうございます。僕にとっても、成河さんとの仕事は特別です。成河さんは同い年で、僕が20代の頃からずっと憧れてきた俳優です。10年以上成河さんの仕事を見てきて、いつかお仕事を一緒にしたいと思っていました。初めて叶ったのが2020年4月に休止、9月上演となった『VIOLET』だったわけです。あの時期はどのように演劇を再開していくのか、未来に向かって行けるのか、と個人でも、演劇全体でも模索していました。『VIOLET』という作品は、アメリカ60年代にバイオレットを始めとした全登場人物がどう生きるかを、激動の時代と格闘し問うていた物語だったので、その姿と自分たちカンパニーの思いとシンクロさせながら一緒にものを作ることができました。その時から、次に成河さんと、どういう仕事ができるのかなと楽しみにしていたところ、今回この『ラビット・ホール』という、また全然違う空気感を持ったストレート・プレイの会話劇でご一緒できることになったので、今とても興奮しています。


――『ラビット・ホール』は、藤田さんご自身が上演を熱望されていた戯曲だったと聞きました。この作品の、どういうところに心惹かれたのでしょうか。

藤田 この戯曲を演出したいと思ったポイントは、まずこの作品が魅力的な会話劇だということでした。これが非常に悲劇的であり、そして喜劇的でもあります。物語としては、家族を失った喪失感からどのように再生していくかということをテーマにしていますが、解釈の仕方が重層的で多層的であると感じました。また2000年代初頭につくられた作品が、この時代の私たちが何を失って何を得たのかということも示唆してくれるのではないかと思えたんです。しかも直接的な答えは出さず、思いだけをきちんと観客に伝えるというところが、深みにもなっていると感じました。是非、その思いや、言葉の向こう側まで到達したいと、演出家としてはずっと思い続けてきたんです。ですから今回、このタイミングで挑戦できることをとても嬉しく思っております。さらにもうひとつつけ加えたいのですが、この作品は既に世界中でさまざまなカンパニーが、素晴らしい上演を重ねてきました。もちろん日本国内でも2つのカンパニーが、この作品に挑戦し素晴らしい成果を上げてきました。それを踏まえた上で私たちのカンパニーは、私たちのカンパニーならではのコミュニケーションとクリエイティビティをもって新たにこの戯曲に取り組みたい。それができるメンバーが、今回集まったということを、今とても誇りに思っています。

成河 ……そんな言われ方をすると、なんだかヤバイね!(笑)


――そうやって集められた中のおひとりが成河さんというわけですが。この『ラビット・ホール』という作品に参加することになった率直な想いとしては、いかがでしょうか。

成河 まず一つ目としては、単純に僕はここ1年ぐらいを思い返すと、純粋な会話劇への出演がめちゃめちゃ久しぶりなんですね。そもそも純粋な会話劇というものが必ずしも僕はそれほど得意なほうでもなくて。比較的、様式性の高い演劇への参加がどちらかというと多いんです。それは、たとえばミュージカルもそうなんですけどね。それもあって、今回は純粋な会話劇というものに真正面から挑むことになりそうだな、ということを台本を読めば読むほど感じて、とても怯えているところなんですが(笑)。せっかくですからこの1年ずっとやってこなかった取り組み方で、自分の生活全部を投げ打って心がぐちゃぐちゃになるような域にまで、今回は勇気を持って踏み込んでみようかなと思っています。


――かなり、挑みがいがありそうな作品ですよね。

成河 本当に。さらに楽しみにしていてほしい点としては、この間もみんなで集まって台本を読んだり、翻訳について話し合ったりした時にも話したんですけどね。日本で会話劇と言われてすぐにぱっとイメージできるようなものって、ありそうでないんです。なぜかというと、会話劇の7割、8割以上を翻訳物が占めているから。つまり日本で会話劇をやるとなると、翻訳が大きな大きな命綱になるわけです。ある程度僕たちより上の世代の方々は、これまで著名な翻訳家の先生方に訳していただいたもの、それはある種、書き言葉になっているものを会話劇として成立させていくというやり方をしてきたわけです。それを今、現代の日本で取り組むとなった時、それは演劇という特別なものとしてではなくて「あ、この会話、私たちがしてる会話そのものだね」とか「この言い方、さっき電車の中でも聞いたな」という言葉を使った会話劇にしたい。そのレベルの翻訳劇は、まだ僕たちは作れていないし、見つけてもいないんです。だけどようやく、そういうものを見つけられるような時代に入ってきたという感覚がある。どう考えても道を歩いてる人たちはそういうものを必要としていると思うし、そのことを作っている人間たちにもいい加減わかってきている時期でもある。その中で、今回の座組がなぜ特別なのかというと、今回出演される女優さんたちが三人とも、めちゃめちゃ英語がネイティブな方ばかりだからなんです。


――ああ、本当ですね。なるほど。

成河 別に、英語ができなきゃいけないとか、そういう意味ではないんですよ。つまり、原作の台本をカンパニーで練りまくれるということです。その上でさらに僕たちにすごく大きなメリットとなっているのが、この作品を新たに翻訳してくれたのが小田島創志くんだということ。僕も大好きな方ですが、彼の何がすごいかというと、創志くんは現場にいる人たちがいかに自然に喋れるかを第一に考えてくれる翻訳家なんです。自分がどのように翻訳するか、ではなくてね。そういった稀有な能力の持ち主たちが、今回はぴたっと揃って集まっているなという感覚があります。既に、とてもアツい時間を過ごせていますよね。

藤田 いや、ホントに素晴らしいです(笑)。先日、一度読み合わせをしたんですが、僕ももう楽しくて仕方がなかったです。本当に皆さんから、いろいろな意見がフラットに出てくる。それは創志さんやキャストからだけでなく、もちろん指針となるプロデューサーの言葉や、他のスタッフたちもみんな含めて、さまざまな意見を出し合える空気がすっかりできていて。時間がいくらあっても足りないぐらいに、楽しい現場になっていました。しかもクリエイティブをし、翻訳をし、クリエイティブをし、みんなでディスカッションをし、といった流れでものすごく豊かな作品になることがと確信できましたし、その喜びは確実にお客様にも伝わると思いました。それから、先程成河さんがおっしゃったこと、今回の女優陣、宮澤エマさん、土井ケイトさん、シルビア・グラブさんが、ネイティブとして英語を話せる、アメリカで生活したことがあるということについてですが。

成河 つまり言語を生活の肌触りで持っている、ということですね。

藤田 そう、その感覚を持っているということが、非常に重要だなと思っていまして。その上、成河さんも英語が話せることも重要なんです。成河さんはこれまでも翻訳劇にさまざまなやり方でアプローチされてきたし、どのようにして演劇を、翻訳劇を日本のお客様に伝えていくかについて、何度も時間をかけて実践されてきたからこそ、今回のこの座組は非常に面白いんです。また大事なのは、生活レベルで理解しているお三方も、ただ英語の質感を伝えようとは思っていないこと。もちろん英語の台詞の言葉の意味を大事にしつつ、英語ではこういうことをここまで話してはいるんだけど、日本語だったらどのように伝えたらいいのか、というところまで探って行ける可能性を座組みに手渡してくれています。


――そういう意味でも、かなり優れた面々が揃っている。

藤田 はい。英語圏の生活の質感と、日本語圏の質感の両方をしっかり持っていらっしゃる方々ですから。これは成河さんにも共通して言えることですけれどもね。日本語で、日本のお客様に2000年代初頭のアメリカの空気感をどのように伝えるか。さらに阿部顕嵐くんと山﨑光くんが、また新鮮な若い価値観で参加してくれますし。この、それぞれの価値観のあり方、交錯も非常に面白い座組になりそうだな、と思っています。

 


――この作品からは、悲しみには個人差があって、癒え方や、癒えるまでの時間やタイミングもそれぞれ違うということも考えさせられたりしたのですが。たとえばお二人はこういう悲しみが訪れた時、どうやって癒そうと思いますか。どんな行動を取ると思いますか。

成河 僕の場合、悲しみは演劇でしか癒えないし、それも実を言うと演劇をやることでしか癒えないと思っているんです。というのは、演劇をやることはつまり自分を遠くから見るという作業なので。いろんな人のいろんなドラマ、世界中の歴史といったものを俯瞰して見た時、「ああ、俺の悲しみなんてちっぽけだな」とか「俺の悲しみって自分だけのことではなく、普遍的でいろいろな人の悲しみでもあるんだな」と気づくことで、癒される。それこそがひとつの舞台芸術であると、僕は思っているんです。だからね、演劇というのはやるものなんです、みなさんも一度やってみたほうがいいんですよ(笑)。


――お客さんもみんな、演じる側を経験してみたほうがいい、と(笑)。

成河 やると、悲しみが癒えますから。でも、やらなくても観ているだけでもかなり癒えます。うん。今回も、そこを目指してやるということです。

藤田 成河さんが今おっしゃってくださったこと、すごく胸に沁みています(笑)。それを改めて僕の言葉で伝えるとしたら、悲しみを想像力で癒すということは確かにあるんですよ。もちろんイマジネーション、想像をしたあとでクリエイトすることによって、自分の悲しみを癒していく。その方法は僕にとっても、やはり演劇でしかないなと思います。特に僕は演出家なので、本番を演じるということではなく、稽古場もしくは稽古場に至るまでの過程でどのようなことを普段から感じているか。正直、悲しいことが多いですよ、それを言葉にはしませんけど(笑)。はっきり言って人生の99パーセントは大きな喪失感や悲しみを感じることであり、だけど僕には残り1パーセントの希望として、演劇の現場でクリエイトすることがあるんです。僕の場合は、稽古場に入り込むことによって癒されているような気がします。

成河 その悲しみは僕だけの悲しみじゃないし、あなただけの悲しみじゃないということでもあって。別に文学でも音楽でも芸術全般でそうなんですけど、その中でも舞台芸術のどういうところが特別かと考えると、舞台芸術は決められた時間、決められた場所でかなりの大人数の方々と一緒に、半強制的に体験するものであるわけですよね。そうなると、中にはハマる人もいればハマらない人もいる。その事実が、また現実としてとても良いんです。結局、そう簡単には悲しみなんて癒えないものですから。「私は今回癒えなかったけれど、隣でとても癒えている人を見ることができた」、これも実は重要なことなんです。


――なるほど。

成河 文学とか絵画のようにプライベートに個人を癒していくような治療法とは、また違うんですね。コミュニティとして治療していく方法でもある。だからこそ演劇は、これだけ長く続けられてきた。なくなっていかない理由は、そういうところにもあると思うんです。

 


――本格的な稽古は、まだこれからですが。演じられるハウイーのイメージは、現時点ではどんな感じですか。

成河 今、この段階で大切にしようと思っているのは、台本に書かれている情報をきちんと整理しておくことくらいで。まだ、自分の意見がどうこうというものはないです。だから、2000年代初頭のアメリカの証券会社勤務であることとか、とにかく非常にちゃんとした人である、ということ(笑)。とてもちゃんとしているが故に、いろいろなものを抱えてしまうんですけどね。そういう不器用なところがあったりする人物であるという大前提の上で、そこにさらに何が乗っかってくるのかということについては、共演者の方々と一緒に稽古をしてチームを作っていく中で出来上がっていけばいいなと思っています。


――藤田さんとしては、ハウイーやこの物語に出て来る登場人物たちについて、どんな人たちでどんなことが起きれば面白くなりそうだと思われているのでしょうか。

藤田 この作品にはおそらく「喪失と再生」とか「喪失と共生」とか、つまり家族を喪失した夫婦がどのように共に生きていくことができるのか、というようなキャッチコピーがつくのかもしれませんが。しかし、事件らしい事件は起きません。大変な出来事や死があった後の淡々とした日常が描かれています。もしくは日常こそ劇的であるという風に考えられるかもしれませんが、そこでハウイーとベッカ夫婦が会話を重ねながらどのようにこの先の自分たちの人生を見つけていくか。もしくは、“ラビット・ホール”がタイトルですから、他の穴のことを考えるわけです。今、自分たちが落ちてしまった穴ではない、別の穴にいるかもしれない自分、つまりあり得たかもしれないもうひとりの自分自身を探していくという物語でもある。それは、お客さんたちが普段使う言葉を突き詰めていけばいくほど、役を掘れば掘るほど、この座組で追求すれば追求するほど、テーマが普遍化され、社会化され、お客様の物語になっていく。だからこそこの作品はものすごく真っ当な会話劇であり、近代演劇なんだと僕は捉えております。それぞれの登場人物も、妻のベッカと、彼女と結婚したハウイー、この子供を失った夫婦とその家族、妹のイジーとお母さんのナット、そして加害者となったジェイソンという青年。この5人のキャラクターは、お客様の人生のどの瞬間にもいるような人間なんですね。人間として、喜怒哀楽を持って一生懸命生きている限り、誰しもの人生の中に登場する5人なのではないかと思います。そういう生々しい人生を描きながらも最後、ラストシーンは成河さん演じるハウイーの言葉で終わるのですが、この物語の続きはどうなっていくかは、はっきりした答えは提示されないんです。僕も台本に則って、最終シーンの成河さんの言葉に答えは出しません。けれども演劇讃歌として、お客様には問いかけたい。それは、この演劇をご覧いただいて上演時間のおよそ2時間を共に過ごしてきたもの同士として、楽しい気持ちで劇場を出ていただける問いかけでありたいな、と思っています。

 

取材・文/田中里津子
ヘアメイク/河村陽子