PARCO劇場開場50周年記念シリーズ『桜の園』 ショーン・ホームズ インタビュー

昨年『セールスマンの死』を現代に寄せた斬新な演出で日本のキャスト、スタッフとクリエイションして話題を集めた英国気鋭の演出家、ショーン・ホームズ。パルコとタッグを組むのは2020年上演の『FORTUNE』と『セールスマンの死』に続く3作目となる今回、彼が手がけるのはチェーホフの名作『桜の園』だ。
20世紀初頭の南ロシアを舞台に、既存の価値観との決別、新しい価値観の共有など、まさに新たな変革を迫られている現代にも通じるテーマが詰まった今作。キャストには、“桜の園”と呼ばれる屋敷の女主人であるラネーフスカヤに原田美枝子、兄のガーエフに松尾貴史、養女ワーリャに安藤玉恵、娘のアーニャに川島海荷、召使いフィールスに村井國夫、管理人エピホードフに前原滉、メイドドニャーシャに天野はな、娘の家庭教師シャルロッタに川上友里、実業家ロパーヒンに八嶋智人、新しい思想で住人に影響を与えるトロフィーモフに成河、近所の地主ビーシクに市川しんぺー、若い召使ヤーシャに堅山隼太という、華やかさと実力を兼ね備えた顔ぶれが揃うことも、大きな魅力となっている。
本格的な稽古が始まる前に、今、この作品を上演することについて、そしてこの演目に感じている魅力などをショーン・ホームズに語ってもらった。

 

―今回、上演する演目を『桜の園』にされた理由は。

僕の方から「『桜の園』をやらせてほしい」と提案させていただいたのですが、それはそもそも僕が大好きな戯曲であったというのが一番の理由です。作品のことは既によく知っていまして、というのも1990年代半ばの話なんですが、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーがエイドリアン・ノーブル演出で『桜の園』を上演した際にアシスタントディレクターとして関わっておりましたので。さらに、東京で『桜の園』をパルコさんのために上演するにあたって嬉しく、楽しみに思うのは『セールスマンの死』の時に我々が行ったことと少し似ていることができそうだということもあります。似ているというのはつまり、よく知られたアイコン的な戯曲を、みなさんが予想もしなかったようなやり方でアプローチできるということですね。もちろん、それは戯曲を変にこねくり回していじって散らかしてしまうのではなく、新たにリフレッシュさせるという意味であり、戯曲本来が持っている力やオリジナリティをより強固にするということにも、今回はまた新たに挑めるのではないかと思っています。


――『桜の園』を元々お好きだったというのは、たとえばどういうところに魅力を感じていたのでしょうか。

シンプルに言うと、この作品でチェーホフが見事にやっていることが何かというと、人間であること、そして人間が抱える矛盾や一貫性のなさというものを、非常に深いところで示していることだと思うんです。その上で深い辛さと痛みと、深い滑稽さというものが隣り合わせに存在しているんですよね。その一瞬一瞬の出来事、場面場面が驚くほど豊かなものになっているということもあります。さらに20世紀初めにチェーホフがこの戯曲を書いた時、他の多くの作家がそうだったように、チェーホフも予言的というか、一体何が今、自分たちに迫ってきているかということを察していたんです。もちろん、これはチェーホフがロシア革命に関して具体的に予知していたという意味ではないですが。でも、この『桜の園』を読むと、確実に何か大きな変化、もしくは脅威みたいなものが自分たちに近づいてきているということを彼が察していたことが感じられます。その上で、すごく興味深いのは、私たちも今とても歴史的に似ている地点にいるのではないか、と思っているということなんです。我々誰しもが今、何か大きな変化が起こるだろうということを感じており、特に天候変動や環境問題などについては、その変化が起こらなければいけないとも思っていて。だけどそれを我々自身はどうやればいいか、どういった形に変わっていくのか、変わっていくべきなのかもわからずにいる。そういうこともあり、この戯曲では登場人物たちが、より我々に近いものに感じられるような、そういった時代として描きたいと思っています。


――また今回は、サイモン・スティーブンスさんがアダプテーション(脚色)をされているそうですが。

サイモンのバージョンを使うことには二つ理由がありまして、ひとつは実務的な理由から、そしてもうひとつはアーティスティックな理由から。まず実務的なほうからいうと、東京でこれまでやった作品は、元々は英語の原作があり、日本語の翻訳があるというシンプルな形だったんです。しかし『桜の園』は原作がロシア語ですから、そうではない。そこで気づいたのが、英語版があることが大事だということ。つまり日本語版の戯曲を英語に訳したものを見ながら僕が演出するのではなく、良い英語版が必要だと思ったということですね。そしてアーティスティックな理由としては、僕はチェーホフ原作の『かもめ』のサイモン・スティーブンス版をロンドンで演出した経験があるんです。そのサイモン版の『かもめ』は、今回のサイモン版の『桜の園』と類似するところがありまして。つまり、それまでの英語訳で少し時代が古いと感じるような部分を排除し、ロシア語の話者でない方にとってはかなりややこしいと思われる名前などを簡素化している。ただしセリフに関してはチェーホフの原作の持つ精神や意図には忠実でありながら、より現代的な香りがするように、発する人がより口にしやすい言葉にしている。といってもスラングがいっぱいあるとか、現代的なものを多く引用しているわけではありません。それがとても重要なことだと思っています。とてもエレガントなやり方で、チェーホフの時代と今の私たちの時代の架け橋になっている、そんな台本だと思っています。


――今回の出演者の顔ぶれについて、キャスティングする際に重要視したポイントを教えてください。

僕にとってはロンドンで作品に取り組む時と、東京でPARCO劇場のために作品づくりをする時とでは、キャスティングのプロセスはもちろん違うわけです。つまり俳優さんたちに対する知識ですとか、彼らがどういう立場の方であるかを僕は知りませんし、たとえばオーディションに関しても日本のスタイルには馴染みがありません。ですから今回のキャスティングに関しては、プロデューサーと緊密に寄り添い合いながら進めていきました。戯曲のことはもちろん、それぞれの登場人物についても、どんな風に自分が思っているか、どんな感覚を求めているか、そういったお話をしました。あとは、今回がご一緒させていただく3作目の作品になりますので、プロデューサーの直感を信頼して。これは、今週『桜の園』のキャストの方たちにも直接お会いしてなお一層思ったことですが、みなさんそれぞれとても力強くて深みがある方ばかりでしたので、素晴らしい才能のあるキャストの方たちに集まっていただけたなと思っております。そして作品づくりを重ねていく中で、以前ご一緒した人たちに再び参加していただくこともあるわけで。今回の『桜の園』のカンパニーには『FORTUNE』に出てくださった市川しんぺーさん、そして『FORTUNE』と『セールスマンの死』に出てくださっていた前原滉さんに出演していただくことになりました。


――日本人キャストと組むことで、どんな魅力や面白さを感じていらっしゃいますか。

もちろん、それぞれが別々の個人でいらっしゃるので一般的な言い方にはなってしまいますが。いつもご一緒する日本の俳優の方には、みなさんのプロフェッショナルとしてのあり方と、いかに作品に対してコミットしてくださるかということに、いつもすごく感動を覚えています。たとえば大勢の俳優の方が集まる稽古場において、イギリスではとにかく静かにさせること、集中させることにたくさんのエネルギーを費やすことになってしまうのですが、日本ではそうではなかった。たとえば10人ほど、大勢が出るシーンを稽古していたとすると、イギリスだと1週間後に同じシーンをやることになると大体の人たちが「あれ、僕、どこにいたっけ」とか「ここで何してるんだっけ」という風に覚えていないことが多いんです。でも日本の稽古場では、そういったことが本当に少なかった。雰囲気的にはイギリス人演出家からすると、最初のうちはイギリスの稽古場よりもちょっとフォーマルだな、つまり形式的に感じましたし、自分たちのアイデアを言いたいという感じは、もしかしたらイギリスの俳優たちよりも少ないかもしれないとは思いました。だけど稽古が進んでいくにつれて、僕の稽古のやり方と、日本のみなさんが今まで慣れているやり方とのうまい結合点のようなものが見つかってきて、僕たちだけのハイブリッドな創作現場を作ることができました。それは非常に生産的で、とても価値のある稽古場だったと思っています。アーティストとして海外から他の国に行って創作をする場合、もちろん即座にその国の環境に合わせて自分のやり方を変えることはできませんが、その国のそこの場所のやり方や文化、実践方法に向き合って、その中に入っていくこともアーティストとしてはクリエイティブであり、興味深い体験だという風に思っています。


――日本語で上演されること、日本人のお客様がご覧になることについて、特に意識されていることはありますか。

特段、気をつけているということはないのですが、これはおそらくどこの国で作品を作ろうとも僕の場合はいつも自分みたいな観客のために作っているような気がしています。どこの国であろうと、もちろんお客さんがどう思われるかに関してはすごく考えますが、実際のところそのお客さんがどんな人たちかを本当にわかることは難しいので。そして演出家の仕事というものには、二つの面があると思うんですね。その作品の作り手の視点を持つことももちろんですが、それと同時に観客の視点というか、観客はこれを見てどう思うだろうという視点も、演出家にとっては大事。つまり、先ほど“自分みたいな観客を想像しながら”と言ったのはそういう意味で、きっとそこにも真実があると思うんです。というのも、やはり自分がすごくいいなと思って高揚できる、エキサイトできるようなものであれば、きっと他の人たちもそうなってくれる可能性があるわけですし。それを突き詰めると、お客さんがどう思うかを心配したり、お客さんの考えばかりを気にしてしまうことはあまりクリエイティブではないと思うんです。クリエイティブなのは、やはりお客さんも自分たちと一緒のところまできっとついて来てくれるだろう、と願いながら作品を作ることなのではないかなと思っています。


――『セールスマンの死』の演出も素晴らしいものでしたが、今回はどういうタッチの演出をされるのか、ヒントをいただけたらと思います。

今、自分の頭の中にあるイメージを具体的に説明することはしませんが、やはり優れた戯曲の多くには亡霊が憑りついているようなところがあると思うんです。それはいわゆる文字通りの場合もあれば、サブリミナル的に意識下で起こっていることもある。その中でこの『桜の園』という戯曲の場合は特に、過去の亡霊たちがまさに漂っています。物語が始まる6年前に溺れて死んでしまったラネーフスカヤの息子の存在はもちろん、それ以外にも様々な過去の亡霊というものが憑りついているように思います。ですから幕開きのイメージや劇中に、おそらく繰り返すような形で亡霊的なものが存在しているというイメージを考えています。過去、現在、未来からの亡霊、それらが重なり合うような……。そういったことを考えています。


――チェーホフ作品は、日本人にはちょっとお堅い、真面目なものに思われがちですが、ショーンさんは「ファニーだ」とコメントされています。たとえば、どういう点がファニーなのか、そのファニーさに今回はどう取り組まれようとされているかを教えていただけますか。

ファニーな点は、僕はすでに戯曲にあると思っています。そもそも、この戯曲はとても滑稽だと思うので。それは、登場人物たちのセリフにも行動にも感じられますし、バカげていることをする人物も多く現れますし。喜劇的で、何かちょっと様子がおかしかったり不思議だったりする、滑稽さのある瞬間がとてもたくさん、この戯曲には詰まっていると思います。そしてチェーホフ自身も劇作の中で、感動的にシーンを展開しようとはせず、何かが起こりそうになると誰かが自分の心配事や不安を抱えてそこにぶつかってくるというような、そういう書き方をしているんです。ですからうまくやればというか、ちゃんとあるべき形で上演すれば、ファニーなおかしみがある場面があり、直後にすごく悲しい場面があったと思えば、またものすごくファニーなところが出て来る、というような芝居になるはず。チェーホフが書いたものがそういったものであると同時に、おそらく我々人間の人生も結局はそういうものなんじゃないかなと思うんですよ。

 

取材・文/田中里津子