串田和美が語るフライングシアター自由劇場『仮面劇・預言者』

フライングシアター自由劇場の一作目となる『仮面劇・預言者』が12月5日から12日まで東京・高田馬場 ラビネスト、15日から17日まで長野(松本市)・信毎メディアガーデンで上演される。

 

本作は串田和美が上演台本・演出・美術を手がける新作舞台。大森博史、真那胡敬二、井内ミワク、串田十二夜、柳本璃音、近藤隼、串田和美が出演する。

 

1996年に解散した劇団「オンシアター自由劇場」から27年を経て、「フライングシアター自由劇場」として活動を再開する串田に話を聞いた。

 

『お休みしてた27年』っていうと長すぎるけど、そういう気分でやろうかな

 

――まずは「フライングシアター自由劇場」の演劇活動について教えてください。

「僕は1966年から、東急Bunkamuraシアターコクーン(初代芸術監督)を離れた1996年まで30年間、劇団(自由劇場/1975年に「オンシアター自由劇場」と改名)をやってきて、劇団には六本木に小さい劇場(アンダーグラウンド・シアター自由劇場)があって、「劇場」というものを大切にするとか育てるという想いが刷り込まれていてね。演劇活動=劇場。その劇場というのは建物のことではなくて、お客さんや演劇が育ててつくっていくものなんだなとつくづく思った。

 

僕がシアターコクーンの芸術監督を務めていた時代(1985年~1996年)は、経済的にもバブルで企業にゆとりがあったから、儲けたいというよりも『小劇場の精神というものを700席の小屋でできるか』ってことをやろうという想いで始まった。だからオンシアター自由劇場はシアターコクーンのフランチャイズ劇団になって、『そこ(シアターコクーン)を拠点にしている劇団がある』というようなことを目指したんですよ。だけどちょうど芸術監督の任期が満了する頃にバブルが崩壊して、それでも彼らは続けていこうとしていたのだけれども、大きな会社なのでね、全体の方針もあってそうもいかなくなった。その頃東京全体も演劇の変わり目というのかな、みんなが商業化するしかない状態になってもいた。オンシアター自由劇場も、Bunkamuraとの契約が切れたときがちょうど劇団を作って30年だったんだけど、僕は『劇団というものを30年以上やっちゃいけないんじゃないか』と思ったんだよね。あまり長く続けると、主義も思いもわからなくなっちゃうから。劇団のために芝居をつくっているわけじゃなくて、演劇のために劇団があるんだから、『一回解散しよう』と言って。

 

解散して7年くらいはフリーでやった。海外に行ったり、頼まれた仕事をやるっていうスタンスで演劇の仕事をしてたんだけど、その頃から、なんだか地方都市というものに興味が出てきた。深く考えていたわけじゃないんだけど、でも耳元で『地方都市には可能性があるかも』っていうささやきが絶えず聞こえていて。そしたら7年目に松本(まつもと市民芸術館/長野県)から芸術監督にっていう声がかかった。あんな大きな劇場はイメージしてなかったんだけどね。松本では、そこに住んでいる人との会話があった。それはいい話だけじゃなくて、反対とか良くないとか嫌だとかそこも含めての会話。市長さんが誰だとかもみんな知っていて、僕もしょっちゅう話すの。考えてみると東京では、市長とか区長とか会ったことないし、名前も知らなかったりするよね。でも松本では、市長さんをみんな知ってるんです。そういう距離感で、(劇場の存在を)おもしろいと言ってる人も、あまり好きじゃないと言ってる人もわかる。

 

まつもと市民芸術館は税金で運営している公共劇場ですから、嫌だからとか忙しいからとかで観ないっていう人の税金も使っているわけです。だから『私は行かないけど嫌ではない』と思ってもらう必要がある。東京だと『観に来て、観に来て』って言葉しかないんだけど、(松本では)『来なくてもいいけど、やってることは理解して』っていうのがすごく大事になるんですね。例えば税金で医療機関を作るとき、病気じゃない人もいるけど、ほとんど誰も反対しないじゃないですか。それと同じで、『自分は行かなくてもこの街に演劇があるっていうのはいいことなんだ』とか『なんか可能性があるかもしれない』って思ってほしいってことを松本では話せるんです。直接話すんじゃなくても、新聞とかにしょっちゅうインタビューされたりするから、話せている感じがある。そうすると、嫌だと思っている人もたくさんいるんだということを知る。東京にいるとね、演劇を嫌いな人のことをあまり考えないんですよね。演劇を好きな人のうちのなるべく多くをこの公演に呼ぶっていうことだけ考える。でも松本ではそうではなかった。

 

そしてここで最初の質問に戻るんだけど(笑)、なぜ今フライングシアター自由劇場をやるのかっていうところで、僕は60年代に芝居を始めて、俳優座の俳優養成所を1965年に卒業した連中と、その次の1966年に卒業した連中で、劇団(自由劇場)を作ろうということになった。その頃、新劇の人はみんな今みたいな感じじゃなくて、なんとか青年会館みたいな、普段は講演会とか開かれたりするようなところで公演をしていたんです。でも僕らは、狭くてもいいから稽古場みたいなところにお客さんを呼べるような活動はできないかなって不動産屋に行ったんですよね。世間知らずだから、『これくらいの物件でこのくらいの値段で』と言うとね、『あるわけないでしょう!?』って(笑)。でも3か月くらい東京中を探し回った。そのうち東京の不動産屋で有名になって、『あの~劇場……』って言ったら『あ、聞いてますよ!』って(笑)。横の繋がりがあるみたいでね。

 

それで諦めた頃に、佐藤信(劇団員)が当時、六本木付近に住んでたんだけど、彼が夜中に(後にアンダーグラウンド・シアター自由劇場となる)建物の前を通ったときにドアが開いててね。中に入ってみたらちょうどいい空間だなと。借金してそこに劇場をつくることにした。斎藤隣さん(劇団員)のお兄さんが当時若手の建築家で、設計図を描いてくれたりなんかして。あのときは嬉しくて嬉しくて、六本木通りに入り口のちっちゃなドアがあるんだけど、そこにみんな腰かけてね、『俺の劇場』って顔してた。通りすがりの人は何も知らないんだけどね(笑)。そんなふうにして劇場をつくった。

 

それから数年経つと、(メンバーの)地井武男とか村井国夫とかは映像のほうに行きたいってことになって、歌手になろうって人が出てきたり、テント活動を中心にやりたいって人が出てきたりして、みんないなくなっちゃって、まったく一人きりになった。そこに吉田日出子さんがやって来て……っていう、そういうお話がいろいろあって、また笹野高史が来たり、柄本明が来たり、ワイワイいろんな人が集まって来た。でもほとんどみんな演劇学校なんて行ってなかったから、稽古がおもしろくないと明日来ないかもしれないっていうような感じでね、やってたんですよね。それから最初に言ったみたいにシアターコクーンのフランチャイズ劇団になって、解散して、僕はフリーになって、松本に行って、20年間芸術監督をやって、それである日、劇評家のUさんという方に『また自由劇場やろうかな』ってちらっと言ったら、『この二十数年はお休みで、また自由劇場に戻るんですね』みたいなことを言われたの。いいこと言うな~と思った。『お休みしてた27年』っていうと長すぎるけど、そういう気分でやろうかなと思いました。

 

でもね、27年も経つと、稽古場探したり劇場探したりするのは浦島太郎でしたよ。稽古場ってこんなに高いの!?とか(笑)。ビックリした」

――前は違ったんですか?

 

「劇場はあったし、稽古場は開いてるスペースを借りてたからタダみたいな感じだった(笑)。『掃除しますから昼間だけ貸してください』って言って、夜しか開かないちょっと広めの飲み屋さんを借りて、仕込みの時間まで稽古してね。夕方に従業員が入ってきたら片付けて、その後はまた別の場所に移動して稽古してた。だからタダだよね」

 

――ほんとだ(笑)。

 

「ひひひ(笑)。のんきな時代だったから。その後はずっと後ろ盾があるような状態だったしね。この20年は松本にいたし、その前の7年間は『演出してください』と言われてやるからなんでも用意されていたし、その前もシアターコクーンだったし。だから今年の5月に東京でやることになって(独り芝居『月夜のファウスト』 / 前芝居『阿呆劇・注文の多い地下室』)、アンダーグラウンド・シアター自由劇場はどうなってる?って聞いたら、今ライブハウス(音楽実験室 新世界)になってると知って、これはなんとかして提携に持っていこうと思ってね(笑)。『僕らがやってたところだって知ってる?』とか話して(笑)、そしたら『もちろん知っています!』って応援してくれて、それでつくり手も小屋の持ち主も一緒になっていい公演にできたんですよ。でもこれずっとやっていくの大変だなと思う。この1年は、稽古場も劇場も、いろんな人を説得して、一生懸命喋る時間だったから」

 

――フライングシアター自由劇場としては『仮面劇・預言者』が最初の公演になりますが、どんなふうにつくっていこうと思われていますか?

 

「そう、どうやろうかなって思ってます。若いいろんな人に出会ったり、元オンシアター自由劇場の劇団員が『やろう』と言ってくれたり、他にもいろんな人たちが『一緒にやりたい』って言ってくれるから、その人たちといろんなことをやっていくつもりです。でもフライングシアター自由劇場は“劇団員”ってことにしないで、仲間みたいな感じでやることになると思うけどね。どうやろうかって一生懸命考えてますよ。今まではそんなに先のことを考えずにやってきたんだけど、今はこれから数年間のレパートリーを書けるくらい(笑)。自由劇場の最初のパンフレットも書いたんですよ、今後のレパートリー。そのうちの3分の2くらいは実現したと思う。今はそういうことにワクワクしてる。夜中にバッと起きてスマホのメモに題名を書いて、でも題名を書いちゃうと構想が浮かぶしね(笑)」

 

――『仮面劇・預言者』をやろうと思われたのはどうしてだったんですか? 原作の『予言者』は、スワヴォーミル・ムロージェク氏の小説ですが。

 

「そう。ムロージェクさんは短編小説で有名な人なんですけど、もっと前は戯曲も書いている人なんです。僕は文学座に1年いたんだけど、そのときに演出家の藤原新平さんがムロージェクの『タンゴ』という芝居をやったのを観たことがあったり、僕も『大海原で』っていう漂流した3人が食べ物がなくて誰かを食べなきゃならないっていうコメディみたいな作品を実験でやってみたことがあったりね。今回の『予言者』はアレンジしてやります。大雑把に言うと、国がすごく荒れて、民衆が宮殿みたいなところにワーッと集まってきたので、代表の人が一生懸命『預言者がもうすぐ来るから大丈夫です』って沈めるんだけど、預言者が2人来ちゃうの。それですったもんだする話です。仮面劇にしたのは、預言者の2人がそっくりっていう設定だから、まずは仮面だなと思って。でもずっとつけっぱなしではないと思う。それから原作は『予言者』だけど、予測するんじゃなくて、神から預かった、という意味の『仮面劇・預言者』としました」

 

――キャストは串田さんと関わりのある方が多いですが、井内ミワクさんや柳本璃音さんという初めての方もいらっしゃいますね。

 

「そうだね。大森博史と真那胡敬二(共に元オンシアター自由劇場所属)は最近も一緒にやったし、やろうねって話してた2人。井内ミワクさんはシアタートップスの再オープンのときに、劇団はえぎわの『ベンバー・ノー その意味は?』(’21年)に出ていて、おもしろいなと思って声をかけて、やりましょうってなった。(串田)十二夜は僕の息子で24歳、芝居始めて2年目なんだけどちょっとおもしろいやつですね。柳本璃音さんもとても若くて23歳なんだけど、松本でワークショップをちょっと覗きに来たときにおもしろそうな人だなと思って声をかけた。近藤隼はTCアルプっていう松本で作った劇団の劇団員ですね」

 

――幅広い世代の方が集まって作品をつくるんですね。

 

「ほんとだね、20代から80代まで、半世紀以上離れてる。そういうのはおもしろいかもしれないですね」

 

――今回の劇場はどんな風にして決められたのですか?

 

「これはもう探し回った。探し回って探し回っていろんなところに行った。制作さんがネットでも探してくれて、料金が高いと『見ちゃったらやりたくなるから見るのやめとこ!』とかね(笑)。山手線の外に行くと少し安いんですよ。今回は高田馬場だけど」

――小劇場でやっていかれるイメージですか?

 

「そうですね、小劇場。でも表現のために空間的にはもうちょっと広いところがいい時もあるだろうし、時には外でもいいかもしれないし。できれば理想はキャパ150~200席くらいがいいんだけど、200の劇場が一番少ないんだよね」

 

――劇場、つくりたいですね。

 

「ね。(取材場所となった)この吉祥寺にもね、『ここ、いいなあ…!』って勝手に思ってるところがあるよ(笑)」

 

――これからどんなペースで活動される予定ですか?

 

「できたら年に2回ずつこういう公演をしたいです。そうやって少しずつ劇団を成長させて、人が集まって、お客さんを動員できるようにして、いろんな人が入れ替わりながら一緒にやってくれたらいいなと思います」

――最後に、串田さんが今『仮面劇・預言者』をやるうえで楽しみにされているのはどんなことですか?

 

「ちょっと奇妙なナンセンスコメディをつくりたいと思ってます。“ナンセンス”というのはセンスがないということではなく、ナンセンスという新しいセンス。この現代の世の中はナンセンスでしか語れないんじゃないかと思えるような芝居にしたい。稽古場でみんなとワイワイ意見や感慨を出し合って創るのが好きなんです。みんなより歳をとってしまうと、まわりが意見を言わなくなっちゃうけど、それじゃあダメでしょう」

 

取材・文/中川實穗