「週刊少年ジャンプ」にて2016年11号から2020年24号まで連載された吾峠呼世晴による漫画作品『鬼滅の刃』を野村萬斎の演出・出演で能 狂言化することで話題となっている「能 狂言『鬼滅の刃』」。
4月初旬に行われた制作発表会見では、演出を手がけ<鬼舞辻無惨※1>役などで出演も果たす野村萬斎や補綴(脚本制作)の木ノ下裕一がどんな作品になりそうか、そのプランを明かし、監修を務め<下弦の伍・累>役で出演もする大槻文藏、<竈門炭治郎>と<竈門禰豆子※2>役を演じる大槻裕一がそれぞれ上演にあたっての意気込みや作品への想いなどを語った(詳細は会見レポートを参照)。
この会見が終了した直後、我々演劇宣言!は、作品が披露される観世能楽堂 GINZA SIXの能舞台にて、野村萬斎の独占インタビューを決行!ベールにつつまれつつ、着々と準備が進んでいる「能 狂言『鬼滅の刃』」の世界観と親和性、萬斎が演じる三つの役柄についてなどを語ってもらった。
――この作品のどういったところに魅力を感じられましたか。もし、気に入った場面やエピソードなどがあれば教えてください。
なかなか甲乙つけがたいエピソードばかりで、場面ではちょっと選べないくらい、素晴らしい作品だと思っています。特に、鬼にも悲しみがあるというところ、鬼が単なる化け物ではなくてその悲しみも含めて描かれているストーリー自体に能 狂言、特に能にするという意味では強く、親和性を感じました。もちろん、今では歌舞伎で漫画やアニメ作品を原作にしたりすることもある中で、いずれ能 狂言でもそういう漫画・アニメ作品を原作として取り上げるということを、常々少しずつは考えていたんです。だけど、これほどピッタリな演目はないんじゃないかなという気が致します。もちろん、よそさまが漫画やアニメ作品を舞台化しているものを観たりすると「こういうやりかたもあるだろうけど能 狂言でやるのであれば漫画・アニメ作品の世界観を見せるのではなくて、漫画・アニメ作品が言おうとしていることはなんなのかということにもっとスポットが当てられるのではないか」とか考えたりもしますし。また、「ここまで具体的な表現にしなくてもいいんじゃないかなあ」なんてことも思ったりしつつ。だけどやはり漫画原作ファンの方の期待には応えたいですしね、そこらへんが我々、作り手としては難しいところで、きっとみなさん苦慮なさっている結果なんだろうなとも思います。これまでの舞台化された作品には成功例も失敗例もそれぞれあると思うので、我々もそこを注視しながら進めていこうとは思っています。
――今回、木ノ下さんに補綴をお願いすることに関しての想いをお聞かせください。
木ノ下くんは、歌舞伎をアレンジすることに非常に長けていらっしゃる方ですからね。そして彼は京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)を卒業されていて、僕の芝居の恩師である渡邊守章さんの演出助手も長く続けていらしたということだし、能 狂言のこともずいぶん勉強されていることが手に取るようにわかりますから、今回の補綴には最適な方だと思っています。いまやすごく注目されている演劇人のひとりで、彼の力がこの作品に加わることには期待が大きいですね。
――脚本化していただくにあたり、どういう風に注文をされたのでしょうか。
今回は能という、形式もある程度固まっているものの中にどうやって吾峠呼世晴先生の『鬼滅の刃』を入れ込むかということがポイントになっていたかとは思いますが。僕自身はというと、それとは逆に古典の世界から現代劇にも行っているほうの人間なんですよね。だけどせっかくやるのならばもちろん、観れば能であり、狂言であると感じられながらも、今の人が共感できる現代の作品だなと思ってもらえるようにしてほしかったですし。それと同時に原作ファンの方々には『鬼滅の刃』を深めたと思ってもらえるような、それも僕らが深めるというより、観た方が自分の中での「『鬼滅の刃』観」みたいなものにより深く浸れるような作品にしたいと思っていました。それはつまり、ただ単に能 狂言化しましたというだけではなく、能 狂言として上演したからこその後味を楽しんでもらいたいんです。みなさん当然、原作のイメージを抱いて観に来てくださるだろうと思いますから、舞台で観た後、さらにそのイメージが豊かになるような。たとえば新しい解釈や、キャラクターの新たな面を見つけたり、今までは勧善懲悪のストーリーに手に汗握っていたけれど、今回は鬼の悲哀という面を改めて感じるようになったり、とか。能の場合は、どちらかというとそっちになると思うので。
――そこがまさに、能との親和性。
そうです、必ずしも勝者だけの世界ではなく敗者もいるんだ、というね。もともと炭治郎という人は、その敗者に対しての気遣いや同情を持っている人ですし。その点で重なるところもあって、実は能の中には“ワキ”という存在があるんだけれども、それは現代人であるみなさんと鬼をつなぐ一種のフィルターのような役なんですね。そこがまさしく炭治郎の立場でもあって。あっ、この話、さっきの会見でもしておけばよかったな(笑)。だけど能の構造を理解していないと、いきなり“ワキ”の話をしてもわかりづらいから。能というものは普通、お坊さんの前にお姫様とか武将とかが「弔ってほしい」と出て来て、鬼と化していた自分をさらけ出すわけですよ。お坊さんはそれを素直に受け止めて、みなさんにある種のフィルターとして伝えた上で、成仏をさせるように弔ってあげるんです。つまり『鬼滅の刃』であれば、鬼が朝日を浴びて消えていくように。あれも、一種の成仏ですよね……うん、これ、いい話だったねえ(笑)。
――ありがとうございます(笑)。萬斎さんは今回、鬼舞辻無惨※1と竈門炭十郎と、鎹鴉(かすがいがらす)の天王寺松右衛門という三つのお役がありますが、それぞれ、どう表現したいと思われていますか。
まあ、鬼舞辻無惨※1に関しては、やはり一番キーになる人物ですから。
――ラスボスみたいな存在ですね。
そうそう。彼が支配する大きな闇のような世界観が、人間界を襲ってくるということなので。鬼はその手駒のひとつに過ぎないわけじゃないですか。そういう強大な悪、まさしく黒雲のように立ちはだかって酸性雨を降らすような、そんなイメージがあるのが無惨。そういう悪の権化に対し、一方の竈門炭十郎という人はヒノカミ神楽を舞うということも含めて、あれは神へと繋がる儀式ではないかと思うんですが、繋がるというのはどういうことか、ということを考えるところも、炭十郎のポジションとして大切な部分だろうと思います。さらに、鴉である天王寺松右衛門というのは、そういった森羅万象も人間と一緒であるということですよね。やはり鬼と同等に鴉も人格を持っている、そういう多様性というものは単に人間界だけの話ではないんだよ、鬼も鴉も雀も、みんな同じようにこの世に存在しているんだよということが前提になっているお話なので。そこもまさしく能狂言の前提とも重なるんです。我々は、茸(きのこ)を演じるし、鴉も演じることもありますし。そう考えると、鴉の役はどっちかというと狂言的な要素でもありますよね。
――そして今回は、能 狂言をナマで観たことがない方も興味を持たれていると思うので、ぜひ萬斎さんから心構え、アドバイスをいただきたいのですが。
いや、吾峠呼世晴先生の原作ファンの方はたぶん、既に全エピソードを知っていらっしゃるので、何も怖いものはないですとお伝えしたいですね。
――原作を知ってさえいれば、大丈夫。
そうですよ。だって、この能舞台で行われることも、すべてそこから取られたものでありますから。逆に、たとえば言葉が難しいとしても、断片的でも台詞なり謡が聞き取れればその瞬間、きっとどこの場面をやっているのかピンと来ますから。そういう意味ではむしろ、ものすごくアドバンテージのあるお客様だと思います。だって「平家物語や源氏物語を知らないとちょっとわかりづらいよ」なんてことはなくて、既にみなさん知っている物語なわけですから。素晴らしいですよ。それはつまり能や狂言を理解するのに、こんなチャンスはないということでもありますし、かつ、『鬼滅の刃』を自分なりにさらに深められるチャンスでもある。僕らが深めるのではなく、深めるのはアナタです!ということです(笑)。そうやって原作の知識が満タンにある方だからこそ、楽しんで遊べるはずなので。その上で観るという環境は、こんなに能が手に取るように理解できる機会なんて、きっと他にないと思います。
――そのくらい、貴重なチャンスなんですね。
だと思います。ですから我々としても今回は本当にいい作品に仕立てて、能狂言の未来に繋がるレパートリーのひとつになるようなことにしたいなと思っております。
――今回は原作ストーリーの前半のエピソードが多く含まれていますが、そのあともたくさん物語はありますし。
そう、だから会見でも言いましたが劇場版、テレビアニメ版でいう『無限列車編』をやるとしたら、能舞台の橋掛りの部分が列車に見えてくるでしょ。松も、周りの風景だと思えばいいし、別に椅子なんか出さなくたって、みんながその場で座っているような姿勢で揺れたりするだけで「列車じゃん!」ってなりますから(笑)。列車を具体的に描くことよりも、そこにいる人を描くこと、鬼を描くこと、キャラクターを描くことに特化するというのが、逆に言うとすべてをそぎ落としていくことにもなる。それがまさに、我々のひとつのやり方なんですよ。
――さらなるヒントをいただき、公演がますます楽しみになりました。ありがとうございました。
取材・文 田中里津子
写真 ローチケ演劇部
※1=辻の部首は一点しんにょうが正式表記
※2=禰はしめすへんが正式表記