「能 狂言『鬼滅の刃』」製作発表会見レポート

写真左より  木ノ下裕一 、野村萬斎、大槻文藏 、大槻裕一

日本のみならず世界的に大きな波を起こしている、破格の人気作品『鬼滅の刃』がこの夏、東京で、そして冬には大阪で、“能 狂言”として上演される。吾峠呼世晴による漫画を原作に、演出は能楽狂言方和泉流の野村萬斎、補綴(脚本制作)は木ノ下歌舞伎主宰の木ノ下裕一、監修は能楽シテ方観世流で人間国宝の大槻文藏が手がける。主な配役は、シテ方は大槻文藏が<下弦の伍・累>を、大槻裕一が<竈門炭治郎>と<竈門禰豆子(以下、禰の正式表記はしめすへん)>を、狂言方は野村萬斎が<鬼舞辻無惨(以下、辻の部首は一点しんにょう)>、<竈門炭十郎>、<天王寺松右衛門>を、野村裕基が<我妻善逸>を、野村太一郎が<嘴平伊之助>、<鋼鐵塚蛍>を、ワキ方は福王和幸と福王知登が交互出演で<富岡義勇>を演じる予定だ。

四月上旬、東京公演の会場でもある観世能楽堂GINZASIXにて、萬斎、木ノ下、大槻文藏、大槻裕一が登壇し、制作発表会見が行われた。その模様をここでご紹介する。

まず、最初の紹介を受けた時点で萬斎が「今日は鬼舞辻無惨のイメージで、白い帽子の代わりに白い着物にいたしました」と話し、会見早々からその思い入れの高さを感じさせた。

会見での各自の主なコメントは以下の通り。

写真左より  木ノ下裕一 、野村萬斎

野村萬斎

原作の漫画は、まず吾峠先生の絵の素晴らしさは当然ながら、そこに描かれているのは日本の土地に根ざしたストーリーで。基本的に鬼が主題になっているところが能 狂言の世界に近いなと思ったのが、読み進めていく中での私の印象です。

これまでもアニメ化されたり、2.5次元ミュージカル化されたりしてきましたが、今回の能 狂言化にあたってはこの能楽堂を使い、能 狂言が培ってきた手法でお見せすることになるわけです。とはいえ、それだけで収まる世界観ではないところもありますからね。能 狂言を見慣れた方には珍しい演出もあるかと思います。なにより、能 狂言の一番の演出の肝は“見立て”です。例えば扇は盃にもなるし、時には剣にもなる。そのように見立てることは、アニメや2.5次元のようなリアリティを感じさせる表現方法ともまた違う形で、みなさんの想像力により訴えることになります。たとえば、今回上演するエピソードとは違いますが『無限列車編』だったら、能楽堂でどうやろうかと考えてみると橋掛り(はしがかり:能舞台の左手に長くのびた廊下の部分)が、だんだん列車に見えてきませんか? 言われてみれば、三両編成に見えてくるでしょう?(笑) そういう見立ても可能だということなんです。そうやって見立てること、それから鬼の描き方はまさに能の専売特許であり、狂言も含めて面を使って演じるところもとても親和性があって、非常に近しいものが感じられて。その点からも、他のジャンルとは違う見せ方でお見せできると思っております。

それにしたって今のこの世の中に、鬼、いません? 実際に人を食っちゃうような鬼はいないかもしれませんが、人の命を何とも思わない、鬼に近い存在はいるような気がいたします。たとえば鬼になる理由や因果、そういった部分にスポットを当てて悲しみがあるところを描いてきたのがまさしく能であり、逆に狂言は、人のほうはある意味鬼で、鬼のほうが人間らしいと見せるところがあったりするので。そういう構造はまさに『鬼滅の刃』との親和性の強い部分であり、そして能と狂言のフィルターを通すことによって、より輝くような成果となることが一番いいですからね。もちろん我々とすれば、能 狂言というジャンルを一度も観たことがない方にも観ていただきたいし、逆に『鬼滅の刃』をご存じない能楽ファンの方にもこの世界観を知っていただきたい。この双方向を、目指したいです。

今回、(大槻)裕一くんに加え、うちの息子(野村裕基)や(野村)太一郎という若手も加わるので、人間国宝で文化功労者である名人の文藏先生から20代の若者までが揃います。狂言というと、どこかお年寄りのものだと思っていません? 実際にはそうではなく、これだけ芸には振幅があり、若者には若者らしいアグレッシブでアクティビティの高い演技が、そして文藏先生の深淵なる世界観も当然味わえるわけで。そういう意味でもいろいろな発見ができると思いますし、我々にとってもこの作品を通していろいろ発見したいなと思っています。しかし能 狂言の中にすべてをはめ込むのではなく、我々のほうも多少なりとも『鬼滅の刃』の世界に入っていかないといけません。こうした新作をやる時はチャレンジですから、我々としてはアップデートもしていくことで、ふだんの能 狂言とは違うことも考えつかなきゃいけない。だってまさに、あの“水の呼吸”をどうやって表現するかが今、私には悩ましいところなんですね。CGを使えばなんでもできてしまいますけど。みんなで知恵を出し合いながらこの能舞台にふさわしい、でも今までやっていたものとは少し違う『鬼滅の刃』の世界観を作るため、いろいろなアイデアを盛り込んでいきたい。その際にまさしく若い世代が、それを体現してくれるのではないかと思い、大変期待しております。

木ノ下裕一

原作のマンガには、大変感動いたしました。今回このお仕事をいただいて改めて全巻拝読しましたが、二つのことが印象に残りまして。ひとつは今回、この能 狂言の『鬼滅の刃』には萬斎さんが考えてくださった『人も鬼、鬼も人』というキャッチコピーが付いておりますが、まさにその通りだなということ。鬼の悲しみがすごく描かれており、鬼になってしまった背景が非常に丁寧に描かれている。これは能や狂言においての、いわゆる悪者とされる側にも人生があったんだという部分の描き方に非常にリンクしてくるので、そういう意味でも能 狂言との親和性が高いなと思いました。そして、これは最後まで読み終わっての感想でございますが結局、吾峠先生がおっしゃいたかったことは「生きろ」ということに尽きるのではないかなということなんです。私たちが今いる現代には鬼はいませんが、さまざまな犠牲が払われた上での現代があるわけです。今自分たちはそこに立っている。命が全うできなかったものたちの分まで「生きろ」という、このテーマが『鬼滅の刃』全巻を通して、一番伝わってきたメッセージでございました。これもやはり能 狂言と非常に近いんですね。なんでもないところだと思っていたら、そこにシテが現れて、実はここでは昔大きな戦があったんだとか、こういう悲しみを背負って死んだ人がいたんだということを伝えてくる。その場所に眠る悲しみ、犠牲になった人たちの姿というものを、特に能では描きますので。そういう意味では昨今は、ウクライナの心配とかもございますがそういうものにも通じますし、もしくは災害によってさまざまな犠牲が払われているということにも通じます。それを私たちは平和なところで、どう受け止めるのかという点でもフィットするような作品になればいいなと思っております。

補綴にあたって気をつけていることは、たくさんありますが……まずは、吾峠先生の原作をどれだけ尊重できるかということですね。たとえば私たちが日本の古典、能や狂言や歌舞伎をテーマにしたマンガやドラマなどを見る時は、細かいところが気になるもので。きっと『鬼滅の刃』のファンの方々もみなさんお詳しいですから当然、細かいところや原作と違う部分が気になることと思います。そういう、『鬼滅の刃』を深く愛されているお客さんに対しても納得していただけるよう、できるだけ原作を尊重するということがとても大事なことになると思います。同時に、これを能 狂言の様式に置き換えていかなければという作業がございまして。今回は、筆を取る前にまずは世阿弥の『三道』という能の劇作術についての指南書、これを読みましておそれ多くも世阿弥を先生にしてから、そのあと原作を読みました。ですから今は頭の中に二人の先生がいまして、世阿弥先生には「これ、能だとおかしくないですか」と尋ね、かたや吾峠先生には「これ、一番のテーマはなんでしょうか」と心の中で訊きつつ、がんじがらめなのか心強いのかわからないですけど(笑)、そんな調子で筆を執っております。

ちなみに今回の大きな趣向といたしましては、能には“五番立(ごばんだて)”という上演形式がございまして、それを踏襲して上演しようとしております。つまり、さまざまな種類の能が五番続いていく、その間に狂言が入ってくるというスタイルでございまして、原作の単行本でいうとだいたい6巻の頭くらいまでのエピソードを、五つの能に分けるわけですね。炭治郎が鬼狩りをするところを“修羅物(しゅらもの)”、禰豆子を主人公にした“鬘物(かずらもの)”、そして最後は“切能(きりのう)”として文藏先生にお出ましいただき、那田蜘蛛山の累の話で終わるという。一種のオムニバス方式ともいえますが、能 狂言にとっては非常に重要なこの五番立を踏襲しながら、しかもおそらくこれが二時間と少しくらいでスピーディーに展開されるわけです。ぜひ『鬼滅の刃』ファンの方々にも、能 狂言の魅力を感じていただける作品になるようにと考えながら、死にもの狂いで脚本を執筆中でございます。

写真左より  大槻文藏、大槻裕一

大槻文藏

新作に限らず、(長く上演が途絶えていた演目を)復曲する時も、何百年も閉ざされていたものを掘り起こす時にも、やはり大事に思っているのはそれを書いた作者の真意というか作為、どういう風に表現したいのかということです。それを見つける、探るということが最も大切であり、それは新作でも同じこと。このたびの演目は、鬼が中心になっていると思いますが、その鬼というものは能 狂言ではどちらかといえば得意なジャンルでありまして。ただ、鬼といっても表現の仕方は、いろいろあります。人間的な想いを持っている鬼、あるいは地獄の鬼、地獄のお使いの鬼、いろいろおりますので、その表現の方法もいくつかあるわけです。人間的な心を持っているほど、同時に悲しみも持っているもので、怒りだけでなく悲しみを抱いている。その悲しみを越えることで、怒りになるんですね。そういった部分を表現することが、鬼の大事な部分であろうかと思います。いくつか出てくる鬼の中でそういうものをどう表現されるのか、どういう風に表現したらいいのかということを、これから探っていくことになると思います。

大槻裕一

このたび、炭治郎、そして禰豆子を務めさせていただきます。役づくりにつきましては、私どもがふだん、いたしております能で、通常の舞台に立たせていただく折の稽古というのは、能の謡、これは言葉ですね、それと舞である型みたいなものを、繰り返し繰り返し、稽古をしていくという流れでございまして。いわゆる、役づくりのようなことはあまり、ふだんはしないんです。でも今回は新作能ということもございますし、木ノ下さんの書かれた脚本に、萬斎さんの演出が付くということで、ふだんの能とは違ったアプローチができればと思っております。なんとなく共通すればいいなと少し思っているのは、炭治郎は修行を通じて成長していくような役ですので、私自身もまだまだ修行をしている段階でございますから、その修行というところで炭治郎と私自身がリンクすればいいなとは思っております。

最後に改めて、それぞれから観客へ向けてメッセージが寄せられた。

木ノ下は「この素晴らしい出演者の皆さんで上演できますこと、非常に嬉しく思っております。またこの企画は漫画の連載時からOFFICE OHTSUKIさんが長年温めてこられた大事な企画でございますので、その思いも胸に置きながら脚本制作をしていきたいと思っています。既に萬斎さんからもアイデアや助言をいただいておりまして、一緒に作っていくという空気が大変ありがたく、とても楽しく携わらせていただいています。密度の濃い作品にして、みなさまにお送りしたいと思っております」、萬斎は「とにかくこのコロナ禍も含め……、このコロナも一種の鬼かもしれませんね……、この閉塞感を打ち破るものがまさしく『鬼滅の刃』でもありますので、それが能 狂言というジャンルであることも含めて、非常に画期的なものになると思っています」、大槻裕一は「今回のポスター、メインビジュアルを吾峠先生に描き下ろしていただき、能の格好をした炭治郎を描いてくださったことにも本当に感激し、感謝をしております。そしてなにはともあれ、この『鬼滅の刃』の世界観が能 狂言となり、木ノ下さんのお作りになられた脚本と萬斎先生の演出とが混ざってどんな化学反応が起きるのか、今からワクワクしております。いろいろなことに挑戦させていただくことにおそらくなると思いますので、自分自身も能楽師として一歩二歩と成長できればと思っております」、大槻文藏は「ご覧いただいた時、『鬼滅の刃』も従来の能とあまり変わらんなという風に出来上がってしまうのか、それともこれはまたえらい違う路線がひかれたなという風に出来上がるのかは、お楽しみにしていただきたいですし、私どもにとっては心配なところでもあるわけですが(笑)。私としては少なくともちょっとは違う、能の世界が広がるような一歩がここで作っていければいいなと思っております」と語り、会見を締めくくった。

写真左より  木ノ下裕一 、野村萬斎、大槻文藏 、大槻裕一

その後は、ロビーにて囲み会見も行われた。まずはこの日がちょうど誕生日だった萬斎に『鬼滅の刃』をイメージしたケーキとフラワーアレンジメントが贈られ、この一年に対しての抱負として萬斎は「この『鬼滅の刃』を始め、いろいろ新しいことをやりたいなと思っております」と笑顔で語った。

能 狂言がアニメとコラボレーションをするのはおそらく初めての試みとのことで、そのプレッシャーについて聞かれると、萬斎は「歌舞伎でもアニメを原作にしたものがあったりしますが、今回は能舞台と能 狂言の様式を使ってということですので、また新しい世界観をお見せできると思います。そして鬼を描くことは能の専売特許であり、間に挟まるコミカルな場面は狂言らしい笑いに満ちたシーンとして緩急自在なストーリー展開ができるのではないかと思っております」、木ノ下は「そもそも能は原作がありますからね。先に『平家物語』があり、それを能にしたりしているので。もちろん今回は人気作品だということでプレッシャーはありますが、そもそもそういう歴史で発達してきた芸能なんですから、がんばっていきたいと思っております」と語った。

さらに今回の見どころとして萬斎は「とにかく『鬼滅の刃』の世界を、能舞台という限られた世界の中でどれだけみなさんの想像力を刺激するか、そこが勝負だと思っています。逆にそのことによって豊かになって「こんなに能や狂言ってぶっ飛んでいるんだ!」と驚いていただけるかもしれませんしね。だいたい面を使うということも、我々の一種、専売特許でもあるわけです。鬼を描くということは人間離れしたもの、そういう存在を仮面劇として作ることにもなりますし。そして地謡といってコーラスがあり、囃子がある、つまり音楽性、舞踊性も含め、実はすごくエンタメ度が高いのが能と狂言なんですね。そういう意味ではエンタメ度が高いんだけれども、アーティスティックな深みも見えるものなので、それがまさに今回の「能 狂言『鬼滅の刃』」の見どころだと思います。ご期待いただきたいと思います」と語った上、面や衣裳に関しては「オリジナルで作る部分もありますが、すべてを原作の漫画通りのものにするのは限界があるので。その折り合いが難しく、いい塩梅を取らなきゃいけないと思っているところです。いろいろ新調したり新しいアイデアを入れ、まさしく目からうろこが落ちるような新たな一歩となり、今までの面の使い方からもう一歩先へ進むような、今までにないやり方も含めて考えております」と具体的なヒントも少し明かしてくれた。

ほんの少しずつではあるが、謎の部分が見えつつある「能 狂言『鬼滅の刃』」。ローチケ演劇宣言!では、この会見直後に決行した野村萬斎の独占インタビューも近日公開予定、そちらのほうもどうぞチェックをお忘れなく。

取材・文 田中里津子

撮影 ローチケ演劇部