日本を代表する漫画家、手塚治虫が1980年代に手がけた漫画『陽だまりの樹』。何度か舞台化されているこの作品で、2012年、手塚良庵(てづか・りょうあん)役で主演をつとめたのが上川隆也だ。
今年、この作品が『新・陽だまりの樹』として、脚本・演出を変え、新たな姿で劇場へ帰ってくる。上川は、8年前に演じた良庵の相手役であり、この作品のもうひとりの主人公である伊武谷万二郎(いぶや・まんじろう)役で主演をつとめることとなった。
いまの思いを上川に聞いた。
――上川さんにとって、『陽だまりの樹』はどのような作品でしょうか。
いちど良庵として見つめた『陽だまりの樹』という作品はありますけれども、今回は、演出に宮田慶子さんを新たにお迎えし、中島かずきさんにお書きいただいた新たな脚本をもとに、ぼく自身も新たに向き合う作品…向き合う「べき」といっていい作品だと思っています。
――同じ作品に2度取り組む背景には作品に対する深い愛情があると思うのですが、前回公演でどのような強い思いを抱かれたのでしょうか。
強い思いで向き合っていたかどうかとなると、正直、そこに確証はないんです。ただ、スタッフ、キャストにはとても恵まれて、いい時間を過ごせたことだけは間違いありません。
だからといって、そのときの思いが今回の『新 陽だまりの樹』に臨む思いに何か作用したかというと、ぼくはまったく別物だと思っていて。やはり演ずる役柄も変わりますし…その時点でもう別物なのですが、さらには、脚本も違う、演出も変わっていく、キャストも違うし美術も変わるでしょう。もう前回と同じ要素を見出すことすら難しいものだと受け止めているんです。
あのときはあのとき、今回は今回、ときっちり区切りの付いた作品として受け止めています。
――今回、驚きはありましたか。
(出演を)投げかけていただいたときは、新劇場のこけら落とし作品のひとつとして(*1)ということと、併せて、『陽だまりの樹』をまたやりたいというお話で、若干の驚きは覚えました。こけら落としをやらせていただけるということもそうでしたし、お話をいただいたときにはもう伊武谷役を念頭に据えて(の出演依頼)ということでしたので、いちど自分が良庵をやった物語に、伊武谷として臨むということにも驚きはもちろんありました。
けれども、同時に、脚本も演出も変わるとお伝えいただいた瞬間から、ぼくの中の「好奇心」が首をもたげました。次の瞬間に「どんな作品になるんだろう、どんなふうな描かれ方で、『陽だまりの樹』という作品がまたぼくの前に立ち現れてくるのだろう」と考えました。
(*1):『新 陽だまりの樹』は、2019年秋に東京・池袋に新たにオープンした東京建物 Brillia HALL(豊島区立芸術文化劇場)の「こけら落としシリーズ」公演のひとつとなる。
――改めて原作をお読みになりましたか。
前回の時も読みましたが、今回はこれから読もうと思っています。
――この作品のお好きなところは。
原作に立ち返ってしまうかもしれないですけれど、手塚先生の持っている「人間に対する目線」でしょうか。さまざまな作品において通底するかもしれませんが、さまざまに手法を凝らして「人間をどう描くか」。(この作品にも)その「目線」は明らかに注ぎ込まれていますし、そこは大事にしたいところだと思っています。
――作品をまったくご存知ない方のために、お話をぎゅっとまとめて説明していただけますか。
ひょんなことで知り合うことになった、幕臣である伊武谷と、蘭方医である手塚良庵との親交を通して、大きく変革する動乱の時代、「幕末の日本」を見つめた物語…というのが、ご紹介するべき原作の要点だと思います。
それを、今回は“伊武谷という男から見つめたときにどうなるのか?”…それが、『陽だまりの樹』とは大きく違った、『新 陽だまりの樹』の物語紹介になるのではないかと思います。
――フォーカスの当て方によって、前回と今回とでは作品の見え方が違ってくると思います。『新・陽だまりの樹』は『陽だまりの樹』と比べて、どのような方向性になりそうでしょうか。
誤解を恐れずに申し上げるならば、主人公というのは、その物語を見つめるにあたっての「フィルター」だと思うんです。その主人公の目線を通して物語全般を見つめていくから、主人公が何をどう見ているか?ということがその作品に反映されていくのは当たり前だと思うんです。
赤いフィルターを通して見た世界と、青いフィルターを通して見た世界がまったく色を変えてしまうのと同じように、今回、ぼくは「伊武谷万二郎」というフィルターを通して、この『陽だまりの樹』という物語を見つめることになりますので、それは、前回、良庵として見つめたこの物語と色をまったく変えてしまうことは間違いない。だからこそ、今回、何色で見えるのか?ということを、ぼくもこれから検証し、見つめていくことになるでしょう。ただ、(前回と)同じ色にならないことだけは断言できると思います。
――良庵は蘭方医ということもあり、より物事を客観的に見ている方でしたね。伊武谷は、いろいろなできごとに巻き込まれてしまう立場で、良庵とは世界の見え方が全然違うと思います。伊武谷には、世界はどう見えているのでしょうか。
たとえば、大海原で、潮の流れにのって流されている舟の上にいるとします。舟の上から周囲を見ると、(舟は)一緒に流されていますから、景色は変わりながらも、(舟は)常に同じところにあるような感覚になるような気がするんです。でも、その激しい潮の流れに碇を下ろし、ひとつところに留まってその潮目を眺めたときは、激しく流れていく水面の中が見えると思うんです。目の前、その(「大海原」と表現した)“戦争”の下…船の底の下を、いろいろなものが移ろっていくさまというんでしょうか。
伊武谷は、その「碇を下ろすことを選択した男」だと思うんです。そこに居留まろうとしたからこそ、周りがどんどん流されていくのを目の当たりにせざるを得なかった男。
その先に待っている大政奉還や、明治へと変革していく世の中の大きな流れのなかで、それでも江戸幕府の幕臣であろうとし続けるがために、世相の流れにみずから「碇」を下ろして、意固地なまでにひとところで周りを見つめようとした男なんだろうと思っています。
――伊武谷は剣豪ですが、今回、改めて立ち回りをトレーニングされますか。
これまでもそうなんですけれど、あらかじめ(役の準備をする)…というのをあまりやってきたことがないものですから(笑)、今回も同様に臨みたいと思います。――覚えるのは苦ではありませんか。
むしろ、そのときどきの楽しみのひとつだと捉えていますし、作品ごとにいろんなことをやらせていただくのは役者の特権だとすら思っています。
――良庵は、伊武谷を見て「不器用だなあ」と評していますが、今度はその伊武谷を演じる側になりましたね。役者として、正反対の役を演じるお気持ちはいかがですか。
特に抵抗ややりにくさは感じていないです。先ほども「好奇心」という言葉を使わせていただきましたが、ぼくにとっては、(今回の作品が)どんな作品になっていくのか、または自分が演じていく中で伊武谷がどんなキャラクターになっていくのか、ということに対する関心しかない。楽しみだと思う待ち遠しさしかありません。
――前回のほうが自分の内面をとても発散される役でしたから、そちらの方が大変でしょうか。
基準がひとつなら、そうした見方もあると思います。
でも「天秤の片方に良庵という役を載せて、その反対に載せる分銅と釣り合いがとれたところ」で「役柄が成り立った」とたとえてみるならば、良庵の反対側に載っている分銅の材質と、万二郎の反対側に載せる分銅の材質は違うと思うんです。違うものでなければきっと成立しないものですから。分銅は、というか、量りが2つあるんです。だから直接比較はできないですし、良庵として「こうなりたい、こういう思いで演じた」というのと、万二郎を演じるときの思いは別のものになっていって当然でしょう。
同じ作品ということでどうしても比較したくなるかもしれませんけれど、たとえば、2018年に出演した『魔界転生』の(上川が演じた)柳生十兵衛という男と、伊武谷万二郎を演じているときの心情は(比べると)どうですか?と言われているのと変わらないんです。良庵もまったく別の人物でありキャラクターである、というだけのこと。今回は体裁からして違う作品なわけですから、そこがなにかのネックになったり、比較する対象になったり、というものではいっさい無いです。
――前作で、女性の登場人物は大変な目に遭う方が多かったのですが、今回もやはりそういった女性ばかり。この作品における「女性」とは。
「どの物差しで見るか」とも思うんですけれど、いま(現代)の目で見たら、おせきさん(*2)も、お品さん(*3)も、境遇はなかなかに苛烈だと思うんです。でもぼくは、「この時代の物差しで見たときにどうなのだろう」ということも考えたいと思っているんです。そうでなければ、そもそも万二郎という男に思いを寄せられませんし。もちろんそれは恵まれたものとは言えないかもしれませんけれど、その時代の市井を見渡したとき、同様の境遇にあった人がどれだけいらっしゃったのか?それを皆がどのような目で見ていたか?ということこそ、この物語では大事だと思うんです。
それをどうお考えになるかは、むしろ、お客様に委ねたいと思っています。「こんな生き方をした人々をどのように受け止めますか」ということが、この物語で描かれている一つの投げかけでもあると思うので。言い過ぎになってしまうかもしれませんけれど、ここは演者が評価するものではないと思っています。
(*2):良庵と伊武谷がそろって思いを寄せていたが、ある出来事をきっかけに出家し、尼寺に入る。今回の公演では山田菜々が演じる。
(*3):安政の大地震で伊武谷に救われ、伊武谷に思いを寄せるが、望まぬ相手との間に子をもうける。今回の公演では緒月遠麻が演じる。
――前作は、ダメダメな人たちがみんな既得権益を守ろうとしていて、まるで現代の政治の世界で起こっていることを彷彿とさせるようなところがありました。この作品に、現代に通じる部分は感じますか。
描かれるのは人の営みなので、制度や風習・風土が変わっても、そこに根付くものにある種の共感を覚えるのは当然のことだと思います。それは今回の『新 陽だまりの樹』の中でも、描かれようの大小はともあれ、決して損なわれるものではないでしょう。
先ほどの話とつながってしまうかもしれませんが、例えば女性キャラクターの境遇においても、同じような…といってはあれかもしれませんが、厳しい現実を生きておられる方々は数多いらっしゃるでしょう。
そのときどきに起こりうる、しかも人が営みのなかで生み出してしまったことだからこそ、現代にも通じていくことになるのだと思います。
――中島かずきさんの脚本、宮田慶子さんの演出の魅力を改めてお話いただけますか。
前回ご一緒させていただいた『真田十勇士』(*4)は、ある意味、とても自由度の高い作品でした。(登場人物は実在の人物でも、ストーリーは)どこかフィクションに大きく振った作品でしたので、宮田さんも、ぼくらを自由に遊ばせ、動かす中で作品を作っていかれていましたし、中島さんの脚本も、いわゆる「ケレン味」も十分に含ませたうえで“あの男ども”の生きざまを描いてくださった作品だったんですね。
でも、今回は…ひとつだけ「暴露」とでもいいましょうか。中島さんの脚本に、そうした「ケレン味」は鳴りを潜めている。それよりは、原作が描き出していた、あの時代の温度をより大事に執筆なさったように思うんです。手塚治虫作品をしっかりとリスペクトして描かれている、という印象です。劇団☆新感線でご一緒した(*5)ときもそうだったように、「ケレン味」の強い作品に触れさせていただいてきただけに、今回の脚本をかなり新鮮に読ませていただきました。
この脚本を宮田さんがどのように調理なさるのか、ぼくのいまの手持ちの材料からはどうにも想像がつかないだけに、実に興味深く思いますし、待ちわびています。ぼくがいま知っている宮田さんの演出と違うことになるかも、という期待をもって、稽古初日を待っています。
(*4):2013年初演、2015年再演。作:中島かずき、演出:宮田慶子。上川は主役の真田幸村を演じた。
(*5):劇団☆新感線の中島かずき作品のなかで、上川は『SHIROH』(2004年)・『蛮幽鬼』(2009年)の2作に出演している。
――今回、こんな公演にしたいという展望をお聞かせください。
これまでに座長を務めさせていただいた作品がどれもそうだったからこそ、今回も、「無事之名馬(ぶじこれめいば:少々能力が劣っていても、怪我なく無事に走り抜ける馬は名馬であるという意味の格言)」を目標としたいと思っています。大きな事故なく、誰ひとり欠けることなく、初日から千穐楽までをきちんと務め上げられる。それを大前提として、そのうえで今回、作・演出を新たにした『新 陽だまりの樹』が十全にお客様に楽しんでいただけるような作品としてお届けできればと。
有り体ですけれども、お届けする側の思いは古今東西そんなに変わらないと思うんです。やはりそれを目指して務めたいと思います。
写真/GEKKO
インタビュー・文/ローソンチケット
©︎手塚プロダクション ©️手塚プロダクション/陽だまりの樹製作委員会
※手塚治虫・手塚プロダクションの「塚」は旧字です。