舞台『聖なる怪物』 板尾創路 インタビュー

彼の人は神か、ペテン師か、それとも…怪物か。気鋭の女性映画監督・甲斐さやかによるオリジナル脚本、演出で繰り広げる舞台「聖なる怪物」が、新国立劇場 小劇場にて上演される。教誨のために刑務所を訪れた神父が、ある死刑囚に出会ったことで不可解な出来事が頻発し、信仰心と神の存在に向き合っていくというこの物語。板尾創路、松田凌の2人がW主演を務め、共演には石田ひかりが名を連ねる。神父を演じる板尾は、この物語にどのように飛び込んでいくのか。話を聞いた。


――まずは、今回ご出演にあたっての率直なお気持ちをお聞かせください。

久しぶりの舞台なので、ちょっとドキドキしますね。稽古も始まる前なので中身についてはまだそんなに考えてはいないんですが、正直、ワクワクもしています。コロナ禍になってから、舞台はやっていませんし、それ以前も、ちょっとゲストで1日だけ出るみたいなことはあったんですけど、今回のようにしっかりとした期間でお芝居するのは、本当に久しぶり。それに今回の脚本・演出をされる甲斐さやかさんは舞台というよりも映画監督をされていた方のようなので、そういう方が舞台を手掛けるということにも面白さを感じています。


――甲斐さんはどのような方という印象ですか?

まだそんなにお話もできていなくて、ビジュアル撮影の時にちょっとご挨拶したくらいなんですけど。何というか、映画監督っぽい人でしたね。うまく説明できないんですけど(笑)。事前に知っていたからそう思うのかもしれませんけど「この方、映画監督なんですよ」と言われたら、なるほど…と納得してしまうような。物静かで、映像の方なんだろうな、という印象でした。


――今のところ、まだプロット程度の印象ということですが、現時点での手触りのようなものはどのように感じていますか?

私は神父の役で、いろいろな悩みを抱えている人と対峙しています。そんな中で死刑囚にも、ちょっとした面談というか、気持ちをフォローするような役目も担っていて、ある死刑囚との出会いから物語が進んでいくんですが…。まだどういう風に立ち振る舞うかとか、そういう部分は今のところ考えていないです。そのあたりは、演出のイメージの中でやるのが一番だと思っているので、今はまだフラットなままでいようと思います。オファーをいただいたときは意外というか、もっと相応しい人がいるんじゃないか、みたいなことも思いましたけど、たぶん僕のキャラクターの中の何かが合っているってなったんだと思っています。そういうところは今後確認していきたいですね。


――プロットの中で、今のところインパクトが大きかった部分はどのようなところでしょうか。

死刑というものに対峙することで、自分の内面が見えてきてしまうような…そういう神がかり的なところが起こったりするような感じなので、そういう部分に触れてしまいそうになる、近づいてしまう、みたいなところはありますね。普段は触れられなかったようなところに、作品の中では手が届いてしまうような感覚はあります。


――神父にとっての信仰心のような、自分にとっての揺るぎないもの、そこに通じるような想いや感覚って、板尾さんの中にはありますか? それとも新しい感覚でしょうか。

僕自身は、いわゆる信仰のようなものも特別ありませんし、常日頃にそういう存在を意識することもありません。でも日常の中で、ときどき神様っていう言葉って出てきますよね。だから自分自身の中に全くないものでも無い。ふんわりと、そういう存在があるのかなぁ、くらいの感覚だと思います。


――お笑いだと“笑いの神様が降りてきた”みたいな言い回しもありますし、特に信仰心が深いわけでなくても、神様という概念は漠然とある、と。

そうですね。自分で分析できないようなこと、予想もできなかったことみたいな、奇跡のようなことって、神様の存在に重ねないと納得できないんじゃないかな。だから、みんなそういう感じで神様っていう言葉を使っているような気がします。実際、自分がそういう状況に対峙したら、そう思うでしょうしね。便利なんだと思います。


――今回は松田凌さんとのW主演となります。彼の印象や、石田ひかりさんとのご共演についてはどのようなお気持ちですか。

松田さんもポスター撮影でちょっとお会いしたくらいで、お話もできていなくて。でも、ほんとにイケメンですよね。若いのに落ち着いていて、控えめなのかな。松田さんはほぼまっさらな印象なので、そのまま稽古に臨みたいと思います。石田ひかりさんは以前にも共演したことがあって、本当にごくたまに連絡が来たりしていましたね。でも長らく会っていないので、楽しみです。舞台でご一緒するのは10年ぶりくらいになるんじゃないかな? 家庭がありながら、舞台や稽古もやって、すごくパワフルですよね。そのエネルギーがすごいと思います。


――稽古もこれからかと思いますが、稽古場でのルーティンなど決めごとはありますか?

もう自分の出番じゃないときは、ひたすらセリフを覚えています(笑)。なかなか始まってからじゃないと入っていかないんですよ。もう力づくで覚えていくしかないですね。とはいえ、セリフが入らないと稽古にならないので、とにかく一生懸命に覚えていきたいと思います。基本的に、やってみないとわからないタイプなんですよ。演出家の方からのオーダーの中でやっていくことになるので、稽古に入らないと自分の中ではあんまり作っていかないというか。結構ずっと出ている感じになりそうなので、お芝居モードにしてやっていきたいですね。あと結構、舞台での動きとか、照明とか、美術とか、そういう部分がどうなるのかも楽しみなんですよ。演出が映画の方なので、どんな見せ方をするのかとか、ワクワクしています。そういう中に立たせてもらえるのは嬉しいですね。


――演じられる神父は教え諭すような人物ですが、板尾さんご自身は後輩芸人であったり、若い世代だったりの相談に乗ったりアドバイスをしたりすることはありますか?

いやぁ、割と見ているだけ、みたいなタイプですね。そんなに話せないというか、向こうもあんまり聞いてこない。なかなか俺には聞きにくいっていうところもあると思うけど。聞いてくれたら、何かしら返事しようと思いますけど、向こうも気を使うだろうしな。こっちも気を使っちゃうしね。


――では、神の奇跡と言わざるを得ないような、偶然が重なったような出来事ってありましたか?

数年前に朝ドラに出させていただきまして、その時の僕の役のモデルとなった方が、すでに亡くなられているんですけど関西で実在する方だったんですね。それで、たまたま僕が大阪に帰った時に、自分ちのお墓参りに行ったんですよ。そしたら、その役のモデルとなった方の生家が、お墓の隣にあったんです。そんなこと、全然知らなかったですし、その日はたまたま、いつもとは違うルートでお墓に向かっていて、だからこそ市町村とかが設置している看板にも気づいたんですよね。本当に、なんとなく今日はいつもと違うルートで行ってみようと思ったんです。いつものルートなら、絶対に、一生気付かなかったですね。だからこう、なんか呼ばれているのかな、っていう感覚になって、ちょっとドキッとしました。


――それは確かに神がかり的です。そういう偶然や奇跡を手繰り寄せたような感覚が作品にも生きてくるかもしれないですね。最後に、公演を楽しみにしている方にメッセージをお願いします!

やっぱり、舞台のような生のステージがやっていて一番楽しいんですよ。お客さんが目の前にいてやれることが、何物にも代えがたい感覚があります。限られた公演回数ですし、残るものでも無いので、だからこそ舞台ってすごく贅沢なものなんだと思います。役者としては演技を積み重ねていきますし、音楽も美術も、そのほかの諸々も、いろいろなとことろから作り上げていくような、アナログな感じも魅力的なんですよね。急いでできるようなものでもない。自分がお客さんとして観るときも、そういうところに目が行ってしまうんです。役者の演技だけでなく、そういうお芝居全体で楽しんでいただけたら嬉しいですね。そして今回は、映画監督の方が手掛ける舞台ということで、きっと新しい表現、新しい感覚を得られるものになるんじゃないかと思っています。僕自身、そういうところを期待していますし、お客さんにも期待していただけたらと思います。

 

インタビュー・文/宮崎新之