演劇系コントの舞台明日のアーを主宰する大北栄人が演劇系コントの先駆者でもあり『今夜、笑いの数を数えましょう』の著書もあるいとうせいこう、オモコロや小説家 品田遊としても活動するダ・ヴィンチ・恐山を迎え、自身が発見した笑いの理論を紹介する。
私たちはなぜ笑っているのか? 緊張と緩和では今まで説明がつかなかったくだらなさやユーモアを解明する。
(写真:明田川志保 ライター:張江浩司 タイトルデザイン&図:よシまるシン)
仮面ならサングラスがいいんじゃないかといとうのサングラスをかけさせられたダ・ヴィンチ・恐山(品田遊)、大北栄人、いとうせいこう(画像左から)
ダジャレは緊張と緩和で説明つかない
いとう「今日は大北に呼ばれてきたんだけど、「笑い」について話すんだよね」
大北「そうなんです。今、笑いに興味がある人が人類史上最高に多いじゃないですか。市井のお笑い評論家もSNSにいっぱいいる。でもその割には、「笑いとは何か」という理屈の話は全然されてないなと。それを考えてみたいんですね」
いとう「そもそも、歴史上の哲学者は「笑いとはなにか」について考えてきたわけだよ。キルケゴールだってやってるし、フロイトもそうなんだけど、あまりそういう話にはならないね」
大北「唯一、「緊張と緩和」理論※というのはよく聞きますよね」
※桂枝雀が提唱した「緊張状態から解放されることで人は笑う」という理屈
いとう「あれは芸人さんもよく言うし、おれもあれ以上の理論はなかなか出ないと思う。細部につっかかっていっても、この理論自体の大きさに負けるというか」
大北「そうなんです。「緊張と緩和」が笑いを生むというのは間違いなさそうですよね。いろいろな本をあたっても、人間は危険から脱して安心を確認すると笑う」
いとう「そう、笑うんだよ」
老婆心ながらあなたの心の声を画像化しました
大北「でも、緊張と緩和だと説明できないものがある。代表的なものがダジャレとモノマネ。緊張もしなければ緩和もないという」
大北「そんなとき『ヒトはなぜ笑うのか』※という本に書いてあることがビタっとハマりました」
※2015年 マシュー・M・ハーレー、ダニエル・C・デネット、レジナルド・B・アダムズJr. 著
いとう「大北に紹介されて少し読んだけど、情報処理の方面から笑いを考えるってことだよね。ちょっと変わったことを言い出したなと思った」
大北「この本に書かれてることすべてに同意できるわけではないんですが、自分なりに組み立てました。「緊張と緩和」理論につづく「エラー発見の報酬」理論です。ちょっと一席ぶちますね」
間違いを見つけたときの喜びで笑っている
大北「ダジャレとはなんでしょうか。それは全く違う事柄を音でつなげてるんですね。これは詩を楽しむような喜びだと思うんです。
例えば「月のように綺麗ですね」と言ったとき。あなたと月という遠い2つを「きれい」という意味でつなげてますよね。本来は知る時にわかりやすくするために例えてるんです。でもそこにはうっとりする気持ちよさもある。知る時、情報を入れる時における快感なんですよね。
この本によると、人の頭の中には「メンタルスペース」という机があって、それぞれの局面で情報を処理しているそうなんです。
映画を観ている時は映画のメンタルスペース、観終わったら映画館にいる日常のメンタルスペースでお友達とおもしろかったね、という感じで。
メンタルスペースで処理された情報は「長期記憶」という奥の方に入れられるそうなんですね。「鉄は硬い」とかね。そこから引っぱり出してきて「鉄は硬いから家の骨組みに使えるなあ」とか考えたりもするわけです。情報が情報を生む。だけどこの情報が間違ってると大変です。「トッポは硬いから家の骨組みに使えるなあ」とか間違いがさらなる間違いを生んでしまう。
そして一旦、長期記憶に入っちゃうと取り出して修正するのも難しい。なので、もし情報に間違い=エラーがあった場合、メンタルスペースで素早く修復する必要がある。
じゃあどうするか。人間に限らず、全ての学習する生き物は神経系に報酬があって、それが行動の動機になるんだそうです。なので情報のエラーを見つけたら報酬を与えられるようになっている。それがおかしみやくだらなさといった「ユーモア」なわけです。そこから笑うときもあるし、なんなら笑わなくても気持ちがいい。
エラーを発見して、「違うぞ」と思ったときにおかしみとなって喜びがグンとくる。身体反応としては笑いになる。これでダジャレの説明がついたなと思うんですよ。はい、今日のぼくの仕事はもう終わりました…」
笑いの原因は1つではない
いとう「おれの考えだと、ダジャレはなるべく離れているものを一緒にした方が面白い。音の同一性が意味の距離を超えるというか。
そもそも洒落というものは、江戸時代から「本洒落」と「駄洒落」に分けられていて、おれ今ちゃんと思い出せないけど「意味もかかってて音も似ている」というのが「本洒落」なのね。逆に駄洒落は「意味が遠いのに音だけが近い」面白さだったと思う。だから、これを笑うのは、エラーを察知するというより、共通点を見つけるというポジティブな行為に対する反応、大北的に言えば報酬なんじゃないかと思うんだけど」
大北「エラー発見の報酬であるというのは、まず「みんなが知らないこと」に価値があるということだと思うんです。近い間違いというみんなの知ってる、想像のつくエラーであって喜びが少ない。でも遠いものを結びつけるとエラーの価値が高い」
いとう「うんうん。それは今までにない考え方だよ」
大北「例えば、何かのパロディをするときに「一つだけズラせ」という不文律があるんですよね。あんまりいろんな要素をいじると、見ている人が混乱して笑ってもらえなくなりますよね」
いとう「「要素が多いんだよ!」っていう状態だ」
大北「そうですそうです。ズレは一つに絞った方が、「ここがエラーだ」と認識しやすいからなんじゃないかと。本洒落に関しては音も意味もそろえて、「(二つの言葉が)遠い」というズレ方に絞っている、だからエラーを発見しやすいということなのかな?」
いとう「いやそれは駄洒落も同じだよ。ただ駄洒落にはむしろひどすぎるのがあって、言葉の音がかなり遠いんだけど、無理な言い方で合わせちゃう面白さはあるよね。そういうのは中村ゆうじさんが上手だったから笑わされたな。あの人の洒落は全然違う音を適当に誤魔化して言ってみせるんだよ。「それ、無理じゃん!」っていう(笑)。あんまり上手いこと言いすぎてても面白くないじゃない。つまり本洒落の技巧より、駄洒落のナンセンスという」
大北「ああ、そうですね。上手いのと面白いのはちょっと違う」
いとう「結局「違うんだけど、似てるよね」というのが重要というか。記憶のデータの中から似てるものを引っ張り出してくるとき、脳に快感があるんじゃないかというのが、おれのかねてからの仮説ですね」
大北「なるほど」
いとう「それを報酬と呼ぶとなると、「笑いは必ず快感である」という前提になるよね。でも、もうおれは快感かどうかすらわからないときもある(笑)」
大北「笑いが全て喜びだとは限らないですよね」
いとう「恐山はどうなの?今まで一言も喋ってないけど(笑)」
恐山「いや、大北さんに「今日は座ってるだけでいい」と言われて来たもんですから……」
大北「「いきなりなんの話してるんだ?」という(笑)」
恐山「でもダジャレに関しては、関係ない概念同士が実は頭の中で隣り合っていた、ということを言い当てられて領域が広がる快感があるのかなと思っていて。なのでエラーの修復というよりは、拡張というか」
いとう「発見に近いのかもしれない、とか」
大北「それも認知の喜びだと思うんですね。別の点と点が文脈で繋がる」
いとう「そうそうそう」
大北「ユーモアもまた認知の喜びで。笑いの原因はそもそもたくさんある。そう、「緊張と緩和」が死んだわけではないんですよね。「エラー発見の報酬」もどっちもある。複雑に絡み合って判別がつかない状態」
いとう「悔しいけど、結局「緊張と緩和」理論になっちゃうようにも思うんだよ。報酬だったとして、起こっている現象は緊張から緩和に向かう、あるいはその逆で、それがなんのための報酬なのかっていうことだから。「緊張と緩和」の原則は崩れない」
大北「崩れなくてもいいと思うんですね。並行して存在しているというか。落語とかを観にいって、すごく笑わせられたんだけど、あまり面白いとは思ってないという経験がけっこうあって」
恐山「笑えるけど面白くないものですか」
大北「そうそう、体は笑ってるんだけど、気持ちよくはない」
いとう「大北が新しい笑いの方が好きだから、笑っていても発見がないということがあるってことじゃないの?」
大北「そうですね。自分の正当化ではあるんですが(笑)」
いとう「おれもわかる気はするよ。間が上手いから「あはは」って笑うけど、新しい構造はないから刺激はない。一方で、全く声を出して笑ってはいないけど「こいつら新しいな」と脳の中がワクワクすることもある」
大北「そうそうそう!」
いとう「どっちが好きかって言ったら後者なんだよ。でも、全身真っ赤に塗ってほぼ裸で落語やってたらずっと気になると思うんだ。笑いはしないけど。でもそのことに触れずに落語やってたら、おれは興奮するよね(笑)。「どんなノイズを持ち込もうとしてるんだ」「青に塗ってたらどうなるんだ」とか、いろいろ考えるだろうね。そういう意味では、「緊張と緩和」にしても「ワッと驚かせたら笑うよね」みたいなところで議論が終わってる場合もあるし、もっと一つ一つのノイズ性の問題として見ていくべきなのかもしれない」
大北「大掴みではなくて、細かく見ていく必要があると」
いとう「そもそも、「笑う」という現象は定義されてないんだよ。声が出る、口が開く、横隔膜がグッと上下する、手を叩く、こういうバラバラな身体反応の集合を「笑う」と呼んでるだけでさ。一個の確かなものがあると思わない方がいいんじゃないかと。あまりにもよくわからない状態におかれて手足が震えちゃう、という「笑う」もあるかも知れないし。
一番ウケたときは、人間は猿化して手をバンバン叩くから(笑)。笑い声よりも、そっちの方がおれは「よし!」と思うんだよね」
大北「せいこうさんの本では笑いとはノイズのようなものであると説明されてましたね」
いとう「『今夜、笑いの〜』でも書いたけど、19世紀のイギリスにハーバート・スペンサーという自由民権運動のベースになった哲学者がいて。イギリスに来た板垣退助を散々に怒ったという人なんだけど(笑)」
大北「「自由は死せず」めっちゃ怒られたんですね(笑)」
いとう「ハーバート・スペンサーも笑いに言及していて、おれの解釈だと、情報を過剰に得てしまって処理できなくなると人間は笑うと」
大北「「ちょっと待って待って」という状態ですね」
いとう「そう。違う要素がノイズとして入ってくると面白くなっちゃう。このスペンサーの説を援用すると、ノイズがある状況に説明がついても人間は笑うと思うんだよ。「あ、ハマった」っていう快感がある」
大北「「それそれそれ!」という」
いとう「これがモノマネの笑いだと思うんだ。ふたつのものが「似ている」ということがわかったときに痙攣がおこる。こういう風にいろんなやり方でノイズを作ったり、収束させたりするのが笑いの運動なんじゃないかと思ってる。「ノイズ / 非ノイズ」の往復というか。ただこれも大きく言うと「緊張と緩和」になっちゃうわけよ」
結局一番おもしろいのはモノマネショーだった
恐山 「笑えるかどうかで言うと、私が今まで観た中で一番笑ったのは新宿にある「そっくり館キサラ」のモノマネショーなんですよね(笑)。本当に後頭部が割れるかと思うくらい笑いました」
いとう「最高じゃん(笑)」
恐山「まねだ聖子っていう人が客いじりしながら松田聖子のモノマネしてたり、ゴルゴ13のコスプレしながら歌う人がいたり、本当にくだらないし新しいことは一つもないんですけど、あまりのくだらなさに会場が一つになるというか。本当にサル化して、生理的な痙攣としての笑いになってたんです。そういう意味だとあれを超えるものはなかなかないなと」
いとう「それはなんでそうなったのかね?「ノイズ / 非ノイズ」や「エラーの報酬」で解けるものなのか」
恐山「これが難しくて、モノマネの中でも特にオールドタイプのショーだったんですね」
いとう「王道だな」
恐山「そのオールドタイプに全力でくすぐられると、ここまで身体は反応するのかという(笑)。馬鹿馬鹿しさに屈する快感みたいなもので、さらにブーストがかかってる感じがしました。「変な顔っておもしろ!」みたいな(笑)」
いとう「そこなんだな(笑)」
恐山「案内係のお兄さんがいるんですけど、例えば5人組のお客さんが来たら「SMAPのみなさんご案内です」みたいに、人数に合わせたアイドルグループを言うんですよ。客入れ中ずっとそういうしょうもないことをやってて(笑)。「この人これを何年もやってるのか」と思うと」
いとう「それも含めて面白くなる(笑)。客が入ってきて何を言うんだろうと思うと、またアイドルの名前が出てくる。これがイギリスのマニアックなロックバンドの名前だと「そんなカッコつけられても」ってなるんだよ。期待値を超えてこないのが面白い。安心の笑いに近いのかもしれない」
恐山「確かに、ユーモアのスノッブな笑いとは真逆ですね。でも、それがさらに一周して、危機感すら覚えるくらい笑ってたんです(笑)」
大北「今の恐山の話って、「ベタって面白いよね」には収まらないですよね」
いとう「そうそう、いきすぎて狂気を感じちゃってるから(笑)」
ベタやリズムを考える
大北「「ベタとはなにか」と考えると、同じエラーを何度も取り除きにいけるというか。「お、またあった」という一定の喜びがあってそこを何度も通る思考のわだちができると思うんですね」
いとう「「ハマっちゃう」ってことだよね」
大北「楽に修復できるエラーなんじゃないかと。「ベタすぎて面白い」みたいになるともうメタ的で手に負えなくて説明つかないんですが(笑)」
いとう「単純にベタなことをやってるだけだと面白くはならないよね。自分で勝手にルールを作ってそれを守り続けてるという、そこに過剰性があって、狂気じみてくると面白い。それはもはやベタじゃないかもしれない。
あとは、リズムの問題だよね。ミュージシャンと同じように、理屈抜きでリズムがいいとどうしても笑っちゃう」
恐山「実家にいたときに、衛星放送でやってた韓国のバラエティ番組を親が好きでよく見てたんです。韓国バラエティってめちゃくちゃつまんなくて(笑)。シンプルにズッコケて「わははは」みたいな感じなんですけど、1時間くらい見てるうちに一緒に笑ってることに気付くんです。バラエティのリズムに乗って、肩揺らすのと同じように笑ってるんだなと」
いとう フェスだよね。
明日のアーの数少ないリズムのコント
大北「『今夜、笑いの〜』だと、「リズムが止まると笑う」と書かれてますよね」
いとう「そうそう。身体の中の知覚が一定のグルーヴで動いてるときに、急に止められると情報量が堰き止められて混乱が起こるわけ。それがいい間で止まってくれると、横隔膜の振動や手の動きに発散されていって笑いになる。それが俺の説。下手な間だと笑えないんだよね。芝居だと、「ここの暗転早いな」とかあるでしょ」
大北「あー、暗転! ありますね~」
いとう「いいタイミングで暗転しないと笑いにならないんだよね。ここはもう笑いに対するセンスというか。最初の暗転がダメだと、後の2時間は苦痛だもんね(笑)」
大北「もうせいこうさんの前で暗転できなくなってきました(笑)」
いとう「ははははは(笑)。でも、例えば暗転の仕方とか映像の使い方とか、おれたちが作ったきたやり方が笑いの世界を支配してしまったと思っていたところで、「この方法があるのか!」と驚いたのが大北の舞台だからね」
大北「幕間なく演目をつなげるやり方とかですか?」
いとう「それもそうだし、出演してるミュージシャンがそのまま演奏したり。あと、幕がないのもそうだよね。幕からの出ハケは、リズムを作るんだよ。その幕を作らずに、出演者を貯めておいてコントの初めと終わりをぼやけさせるっていうのは、勇気がいると思うんだよな」
恐山「アンチリズムということで幕を作らなかったんですか?」
大北「いや、それは意識が足りてなかっただけです(笑)。カジュアルにやればいいんじゃないかと思ったんですよね。あと出演者に演劇経験が長い人もいて、「幕はなくてもいいんじゃないか」と」
いとう「「あるのが当たり前だから、違うことやろう」と言ってくれたんだ」
大北「最近『別役実の演劇教室』を初めて読んだんです。別役さんは照明も衣装も最悪なくてもいいが、袖幕はあったほうがいいと言ってて今さら袖を作ろうとしてます(笑)」
いとう「要するに幕がない状態でやると、フェードアウトがものすごく長くなるんだよ。この人が本当に舞台上からいなくなったのか、客にはわからないというか。だから、「役者が出てきた / 引っ込んだ」という快感はなくなるけど、面白い実験だったと思う。
こないだ別の作家と一緒にいるところでたまたま大北と会って。「この大北という人間はこういう試みをやっていて、感心してるんです」って紹介したら、「それはちゃんとご本人に伝えてるんですか?」と。そういえばちゃんと大北を褒めたことがなかった(笑)」
大北「6年越しくらいに褒めてもらいました(笑)」
いとう「まあ、おれが出るなら、幕がない袖で溜まってるのは嫌だけどね(笑)」
徹底的にエラーな舞台を作る
大北「明日のアーは「俳優じゃない、その辺にいる人がフラッと出てくるのが面白いよね」ともよく言われます。でも、役者や芸人には勝てないということも強く感じていて。こうなったら本人そのもので勝負するしかないなーと」
いとう「本人?」
大北「もはや素人でもないしパーソナリティというか「彼ら」そのものというか」
いとう「なるほど、藤原くんなんて見事なもんだよね」
恐山「藤原さんはすごいですよ(笑)」
いとう「全く役者じゃないけど、じゃあ素人かというとそうじゃない。ずっと藤原の役をやってるみたいなもんだよ」
大北「今回は本人はそのまま出てくる「本人公演」にしようと思ってるんです」
いとう「私小説的な」
喫茶店の先客が藤原
ちなみに藤原とは『眼鏡がないと家に帰るのがコンナンくん』として一部バカゲー実況界隈で有名な藤原浩一です。大北はその制作者
大北「みんなちょっとずつ上手くなってきて。と言っても、大きな声が出るとか伝えることが上手くなったという感じですが。なら本人をそのまま舞台に上げて本人を伝えてみようと。本人は出るということは偽物も出るんですけど、それはつまりエラーなんですね。そこで今日の話とつながるといいなあと」
写真:明田川志保
ライター:張江浩司
タイトルデザイン・イラスト:よシまるシン